こわいもの無し
毎日ウクライナの戦争を見ていると、自分の身に置き換えて考えることがたくさんあります。
今日のニュースでは激戦地セベロドネツクで、住民を避難させようとしている兵士や警察官の様子が撮影されていました。でも、市内のほとんどが制圧されていると言われるこの時期、残っているのはほとんどがお年寄りたちです。「病気なの、みんなに助けられながらあちこち行くのは嫌です」と言っている人や、「今ここを離れたら二度と帰って来れないと思う」と言って泣く人もいました。
私もやっぱり動かないだろうなと思います。この歳になったらどこでいつ死んでも同じのような気がします。前に見た映画『黄金のアデーレ』でナチス占領下のオーストリアで、ユダヤ人の老親がアメリカに避難するという娘夫婦を笑顔で送る場面がありましたが、宇宙の歴史の小さな一コマとまでは言いませんが、何も怖がることはないような気がします。
アゾフスターリ製鉄所に残った兵士たちが食料も弾薬も尽きかけ、兵站が維持できなくなった当局から投降を勧められて、二千人がロシア軍に投降した時、後五百人が残ることを考えていた節があります。「司令官がいない」と言っていましたから。「五百人なら、まだ食料も間にあうのかもしれない」というコメントもありました。中に「『死兵を相手にするな』という言葉がある」と語るコメントがありました。死に物狂いで戦うからだという事でした。彼らも投降後の拷問や裁判を考えるとそうしたかったのだろうと思いますが、『英雄には生きていてほしい』というゼレンスキー大統領の言葉がしめすような国民の願いの下に投降しました。生きていて捕虜交換してくれれば万々歳だったのですが、ロシアはどうするでしょうか。期待が甘かったのでしょうか。
話が逸れてしまいました。元に戻すと、我々老人にはこの『死兵』の感覚があるような気がします。
何にも忖度する必要はない。こわいものはない。誰にでも元々そういう気質があるから、歳をとって経験を積んで世の中が見えてくると出てくるのだと思いますが、私のように、夫も亡くなって庇うべき相手もいなくなり、加えて、もともとなかった社会性も益々面倒臭くなってくると、『死兵』になっていくんだなあと思いました。決して嫌なことではないですけど。
気が付いたのですが、プーチンさんも『死兵』になっているのかもしれません。