2025年10月29日水曜日

 家族の舟

 先日、亡夫はきっと雲のかなたで両親や亡くなった兄弟たちと再会して楽しく穏やかに過ごしているだろうと書いた時、『あ、他にも同じことを言った人がいた』と思い出しました。

 うつみみどりさんです。おしどり夫婦と言われていた愛川欽也さんが亡くなった時、同じようなことを言っていたのです。『お母さんにお返しする』みたいな趣旨だったので、ちょっと違和感があって覚えていたのです。

 今になれば何かわかるような気がします。人も変化するのです。いつまでも若いままではないのです。そしてこの歳になるといろいろと気づくことがあります。

 夫は男ばかり四人兄弟で、四人とも父母の周りを遠く離れることなく、お互いに迷惑をかけあいながらも、まるで太陽の周りをまわる惑星のように、離れても戻ってきて暮らしていました。夫も最初は片道五時間もかけて勤め先に通いながらも、決して離れようとしませんでした。

 ずっとなんでだろうと思っていたのですが、この頃思い返してみると、少しづつ分かってきたような気がします。

 夫の両親は裕福な家に育ちました。義父は銀行家の家の五男で、好きな芸術を生業に選びました。それでも後ろ盾があったので、華やかに東京で暮らしていました。義母は事業をしていた忙しい家でしたが、ばあやがいて、ずっと面倒を見てもらっていたようです。

 そんな二人が華燭の典をあげ、東京で文化人たちと交流しながら暮らしていたのです。だから四人の子供たちは皆東京生まれです。そして夫は昭和15年生まれでした。終戦の年です。一家は戦災を逃れて、地元に引き上げてきて、どちらかの家がまだ所有していた小さな持ち家をもらって、息をひそめて暮らしていたようです。戦後不況の中、乳飲み子を抱え、食べ盛りの子供たちを抱え、もうそこに豊かさはありませんでした。

 たくさんあった義母の着物を小学校低学年だった上の二人の兄たちが、農家に持って行ってお米とかえてくるという生活で、一番下の夫は栄養失調でお腹が膨れていたと言っていました。

 そうしてなんとか飢えた戦後を乗り切ったようです。

 それを考えると、経済に疎く、残酷な時間の中で老いていく両親の周りを離れられない息子たちの構図がわかってきました。それはつらい、団結の日々だったのでしょう。

 でも戦後生まれ、戦後育ちの嫁たちにはそれはわかりません。

 息子たちと姑には、特別な心のつながりがあったのでしょう。姑にしたら、その間に割って入ろうとする嫁たちは決して歓迎できなかったに違いありません。私を含めて、嫁たちは皆歓迎されませんでした。けれども息子たちは離れていくとは言わずに、皆、少しづつ間を詰めていくようでした。

 夫も亡くなり、考える時間も多くなった今になったらわかります。成長期に皆で戦後を乗り切った家族の舟の記憶が鮮烈すぎたのでしょう。

 そういえば、私の母も認知症になり、退院するときに、「家に帰ろう」という弟に、「やわたに帰る」と実家の名前を言ったそうです。母にとっても、大きな農家で、長兄と五人の姉妹たちと父母や使用人たちと助け合いながら豊かに育った家は忘れられない家族の船だったのでしょう。