2022年11月23日水曜日

 人助けの記録

 『手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡

第29回FNSドキュメンタリー大賞』という見出しを見て、ウクライナをずっと見ていて何もできないおばあさんとしては読まないわけにはいかなくなりました。

 そういえば、昔「シベリア出兵」という歴史を学んだ気がしますが、結局何のために出兵したのか、ずっと疑問に思っていました。あの頃の話のようです。『「シベリア出兵」とは、1918〜22年にかけて、日本、アメリカ、イギリス、イタリアなどが、シベリアに軍隊を送ったできごとです』。

 ポーランドは『1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。

 1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した』。それに勝ってしまったため、『この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した[14]。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた』。

 前に『マーラが与えた人生』で見たラトビアやエストニアの話と同じですね。

 ところが、『ポーランドは1939年に第2次世界大戦が勃発し、西からナチスドイツ、東からソ連に占領され、国が消滅する。1945年、ドイツが降伏して戦争が終結するが、その後はソ連の影響下に置かれ、長い間抑圧を受けた。民主化を果たし、ようやく自由を手に入れたのは30年前のことだ』。そしてその時にはもう、日本が救済に乗り出した話は忘れ去られてしまっていたのだそうです。

 その話が再び脚光を浴び、掘り起こされるきっかけになったのは、『2002年、平成の天皇皇后両陛下がポーランドを訪問された際、首都ワルシャワの日本大使公邸に高齢のポーランド人たちが集まった。彼らは、元ポーランド孤児たちで、両陛下に感謝の言葉などを伝えた』

 当時通訳をしていたポーランド在住のジャーナリスト・松本照男さん、『松本さんとともに調査したポーランド国立特殊教育大学のビエスワフ・タイス教授は、「1945年以降のポーランドでは、シベリアを含め、ソ連を政治的に悪く言うことは禁止されていました。ポーランド孤児の話は、この禁止項目に触れていたのです」と明かす』

 『映画監督のエバ・ミシェビッチさんは、生前の孤児にインタビューして映画を作り、そのオリジナルテープを残していた。』

 こうして『100年前の事実を解き明かすため、取材を続けること6年。忘れられた歴史を今に伝える貴重な資料が次々と見つかった。そこからは“親のいない子どもたちを慰めようと各地から寄せられた善意”“伝染病に感染した子どもを救うため命を懸けた若き看護婦”といった私たちの知らない100年前の日本人の姿が浮かび上がってきた』。

 こうして寒いシベリアで、預けられた孤児たちはウラジオストックから三回に分けて越前敦賀港につき、合計760名あまりが大阪と東京の受け入れ先で、養生し、無事欠けることなく故国に帰ったのだそうです。

 こういう人助けの話をたくさん子供たちに聞かせてあげれば、戦争をしたり、いじめたりする人たちは少なくなるのではと思うのは老人だからでしょうか。

2022年11月19日土曜日

 ドラマの話、『ザ メンタリスト』

 ギャオで放送されるたびに見ています。だから、シーズン2と3は二回ずつくらい見ています。何度見ても面白いのです。

 主人公のパトリック・ジェーンを演じるサイモン・ベーカーがハンサムだからかというとあまり私の趣味ではありません。それでも引きずられるように見てしまうのです。

 殺人事件も陰惨だし、警察官たちが正義の鉄槌を下すやり方も凄惨で、子供たちには見せられないと思うほどですが、そこに働く警察官たちのチームは、皆、暗い過去を背負っているにも関わらず、誠実で、仲間意識が強い。ほっとするところです。

 これも一回ごとの事件と、全体を通して追っていく『レッド・ジョン』との戦いという二つのテーマに、それぞれの人生を重ね合わせたドラマ構成で、関心を途切れさせないように配慮されています。

 それに加えて、メンタリストのジェーンが毎回、洞察力を働かせたり、催眠をかけたり、仕掛けをして、犯人を陥れたり、手品を使ったり、毎回、超人的な頭の良さを見せつけます。

 この観察眼は、シャーロック・ホームズにも通じますが、どこか知識人の鷹揚さを持つシャーロックと違い、ジェーンはサーカスのような環境に生まれ育ち、学校にも行かず、生き残るために全神経を働かせることを学んだようです。

 毎回、私たちにも、『ああなるほどなあ』と思えるような観察が出てきます。私たちにもできそうな気がして来るのです。

 ウキペディアによると、もう結末はわかっているのだそうですが、それ以上に、毎回、『ああ、なるほどなあ』と感心してしまうのです。

 誰がこんなストーリーを考えているのかと興味をそそられますが、原案、総指揮者はブルーノ・ヘラー、イングランドの脚本家、プロデューサー、監督だそうです。確かにと思いました。アメリカドラマのようなおおざっぱさはなく、繊細で、英国ミステリーの香りがするのです。

 また、主演のサイモン・ベイカーはオーストラリア出身の俳優さんで、ハリウッド進出し、メンタリスト終了後はまたオーストラリアに帰っているそうです。

2022年11月13日日曜日

 世の中、スチール棚を売る

 私は引っ込み思案ですから、世の中のことをよく知りません。あれやこれやといろいろ考えるのですが、頭の中の試行錯誤ばっかりで、実行にはなかなか移せません。

 で、今、一番こころを占めているのは、家の片づけです。どれを捨てようか、これはまたいつか使う時が来るだろうか。これはもう使わないだろう、どうやって捨てようか。物置を見るたびに、試行錯誤ばかりしています。

 『もうスチール棚を置くスペースはない。古くて錆が出ている』とは思っていたのですが、『これを市の処分場へ持って行くと、処分してもらうのに千円くらいとられる。重いからと言って取りに来てもらうとその倍はかかる』 そう思うとなかなか実行に移せないでいました。

 そうこうしているうちに、いつもの道すがら、それまで廃業したレストランだと思っていたところが、いつの間にか鉄くず屋さんになっていて、『鉄くずを現金買取します』と書いてありました。『あそこに持って行こう』と思っていたのですが、なかなか実行に移せないで、ある日、偵察に行きました。

 すぐに事務所らしきところから顔を出した女性に、「スチール棚なんかも持ってきていいですか」と聞いたら、日本人ではないとわかる流暢な日本語で、「いいですよ」と言われました。

 その数日後、スチール棚を二個ほど解体して車に積み込み持って行きました。すぐ前に一台入っていったので、横に止めると、この前の女性が、「今、男の人が来てくれるから待っていてください」と言いました。しばらく待つと、前の車が出てきて、降りた男の人たちが事務室に行き、大枚のお金を受け取っていきました。

 しばらく待っても男の人が来てくれないので事務所の女性に言うと来てくれて、荷を下ろしてくれました。が、それだけで、私には大枚のお金はくれそうもありません。どういう事だろうと事務室をのぞくと、別の女性があまり上手でない日本語で、契約がどうのこうのと言っています。私も弱気になりかけましたが、看板を指して「現金買取と書いてあるので」と言いました。了解してくれたようで、先ほどの男性を呼んで、持ってきた棚を秤にかけてくれました。それから事務室の窓口で、1000円弱のお金を貰いました。私は本当に心からお礼を言いました。捨てるものがお金になるなんてこんなうれしいことはありませんでした。

 その後、重くて大きいスチールのロッカーをなんとか車に詰め込んで持って行きました。今度は、私も事務室の正面で車ごと秤に乗って奥に進み、下ろしてもらってから事務室の窓口に行きました。いつもの女性が事務所の中に入れと言いました。入り口を入るとそこにも窓口があって、もう一人の女性もそこにいました。今度は2000円弱になりました。それとウーロン茶を一本くれました。恐縮してもらってきました。中国の方たちだそうですが、大変なお仕事だろうに皆さん元気にやっています。私のぐずぐずが恥ずかしいくらいです。

 「またお掃除をして持ってきます」と言いましたが、次の荷はまだできません。

 情の深さ

 先日、材木にけつまずいて転んでしまいました。うまく転べば、例えば赤ちゃんのようにゴロンと体ごと転がれば、痛い目をみないで済んだのにと思うのですが、コンクリートの上にばっちりと膝をついて身体を支えようとしましたが、できなくって転がったという感じでした。それで、膝に痛みがあり、歩くのが苦痛になってしまいました。

 で、ここまでは前段階です。私は上の娘の体調不良のために、孫の送り迎えを手伝って隣町まで行っているのです。さあ大変。仕方がないので、下の娘に運転して一緒に行ってくれるように頼みました。下の娘は快く引き受けて、杖を突いた私の介助をしながら、孫の送り迎えを手伝ってくれました。

 そのことを上の娘に話すと、まあ感謝はしましたが、姉としてはプライドがあるのか、「下の子の方が手伝ってくれるみたいね」と言いました。「家でも下の子はとても良く手伝ってくれるのよ」と。

 私はちょっと『まあ』と思いましたが、『確かにそうだ』とも思いました。というのは、私も上の子で挨拶もできないような引っ込み思案の怠け者でした。下の子の弟は積極的でよく母を手伝い、両親の期待によく答え、亡き後もすべてを引き受けて守っています。

 孫の下の子を見ると、キカン坊ですが、積極的に注意を自分に向けるように仕向けないと振り向いてもらえないとわかっているように、親に話しかけ、頼まれたらすぐにやろうと身がまえています。確かに環境の産物というのは当たっていると思います。

 上の娘はなかなかうがったことをいう事があって、昔、「子供を育てるという事は、子供が独立できるように育てることなんだ」と言ったことがありました。私が弟にそれを言うと、弟は即座に「その通りだ」と言いました。確かに弟の子供たちはみな家を出て独立し、弟夫婦は淋しくも安心して暮らしています。

 我が家では、その言葉を言った上の娘は体調不良でいつもヘルプを求めていますし、下の娘はロストジェネレーションの年代で、一緒に暮らしています。結婚がいいとは思いませんが、どちらも独立しているとは言い難い。

 近所の方で、子供たちが独立して遠くにいて、やはり夫婦二人で住んでいる方は、「あなたのところは羨ましい」と言います。確かにそうですね。先行きは不安がありますが、今はとっても幸せです。世の中なるようにしかならないのですから、『今が幸せ』というのは一番大事なことなのかもしれません。