人助けの記録
『手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡
第29回FNSドキュメンタリー大賞』という見出しを見て、ウクライナをずっと見ていて何もできないおばあさんとしては読まないわけにはいかなくなりました。
そういえば、昔「シベリア出兵」という歴史を学んだ気がしますが、結局何のために出兵したのか、ずっと疑問に思っていました。あの頃の話のようです。『「シベリア出兵」とは、1918〜22年にかけて、日本、アメリカ、イギリス、イタリアなどが、シベリアに軍隊を送ったできごとです』。
ポーランドは『1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。
1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した』。それに勝ってしまったため、『この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した[14]。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた』。
前に『マーラが与えた人生』で見たラトビアやエストニアの話と同じですね。
ところが、『ポーランドは1939年に第2次世界大戦が勃発し、西からナチスドイツ、東からソ連に占領され、国が消滅する。1945年、ドイツが降伏して戦争が終結するが、その後はソ連の影響下に置かれ、長い間抑圧を受けた。民主化を果たし、ようやく自由を手に入れたのは30年前のことだ』。そしてその時にはもう、日本が救済に乗り出した話は忘れ去られてしまっていたのだそうです。
その話が再び脚光を浴び、掘り起こされるきっかけになったのは、『2002年、平成の天皇皇后両陛下がポーランドを訪問された際、首都ワルシャワの日本大使公邸に高齢のポーランド人たちが集まった。彼らは、元ポーランド孤児たちで、両陛下に感謝の言葉などを伝えた』
当時通訳をしていたポーランド在住のジャーナリスト・松本照男さん、『松本さんとともに調査したポーランド国立特殊教育大学のビエスワフ・タイス教授は、「1945年以降のポーランドでは、シベリアを含め、ソ連を政治的に悪く言うことは禁止されていました。ポーランド孤児の話は、この禁止項目に触れていたのです」と明かす』
『映画監督のエバ・ミシェビッチさんは、生前の孤児にインタビューして映画を作り、そのオリジナルテープを残していた。』
こうして『100年前の事実を解き明かすため、取材を続けること6年。忘れられた歴史を今に伝える貴重な資料が次々と見つかった。そこからは“親のいない子どもたちを慰めようと各地から寄せられた善意”“伝染病に感染した子どもを救うため命を懸けた若き看護婦”といった私たちの知らない100年前の日本人の姿が浮かび上がってきた』。
こうして寒いシベリアで、預けられた孤児たちはウラジオストックから三回に分けて越前敦賀港につき、合計760名あまりが大阪と東京の受け入れ先で、養生し、無事欠けることなく故国に帰ったのだそうです。
こういう人助けの話をたくさん子供たちに聞かせてあげれば、戦争をしたり、いじめたりする人たちは少なくなるのではと思うのは老人だからでしょうか。