2015年2月27日金曜日


幸せの瞬間

 六十六歳まで生きて来ると、それなりに苦労は経験していて当たり前のような気がします。
 両親は亡くなりましたが、子供達も大きくなり、夫も病院通いはしていますが、それなりに元気で、こんな日だまりのような生活が幸せというものだと、何度も書きました。
 じゃあ、若いときのあの苦労の日々は幸せでなかったかと聞かれたら、やっぱり、イエスです。『早くこの苦労の日々が過ぎてくれればいい』と、何度も願いました。
 なんとか、みんなのおかげで借金も返し、無事に乗り切って、こうして今に至っているのですが、今思うと、あのときの時間が惜しいのです。体力もある若いとき、子供達が小さかったとき、苦労をさせてしまいましたが、あの切り捨ててしまったような時間が愛おしいのです。
 あの幸せでなかった間にも、子供達は無事に育ち、私達夫婦も、非難し合い、喧嘩しながらも、必死に働き、両親の助けも得て、なんとか生活を立ち行かせていたのです。その継続は肉体的にも精神的にも辛いものででした。
 でも、あの間にも、幸せの瞬間はあったはずです。やっと、思わぬお金が入ったときに行った外国旅行、そのあと、税務署に睨まれて、また、借金をして多額の税金を払うはめになったり。そんな大きな事でなくっても、みんな健康に生きていたのだから、その一瞬、一瞬を幸せと感じ、子供達にも感じさせればよかったと、今は思います。随分と夫の愚痴を子供達に聞かせてしまいました。
 もう、取り戻せはしませんね。
 今はただ、その反省を踏まえて、家族の時間を大事にしています。怒りの矛は、どんなときでも納めることにして、ストレスがあったら、好きな野球やマラソンを見たり、英国ミステリーにうつつを抜かして発散します。
 時間があるからできる事ですが、意図的にそういう時間を持つ事が大事だったのだと思います。借金返済に追いまくられて必死だった若いときでも、心のゆとりが持てるようにそうすべきだったのです。私自身が家族にストレスをかける存在になっていたでしょう。
 『グレートトラバース』で先輩の山登りの名人が言っていました、『どんな試練も、与えられたものとして受け入れて、それも楽しむ。』
 あのときはそんな事を考える事もできなかったのが惜しいと悔やまれるのです。

2015年2月19日木曜日


鈴木清一さんの本

 『祈りの経営 鈴木清一のことば』に注文が入りました。
 二年半ほど前、ショップを開くために本の整理や打ち込みをしていた頃に読んだ本です。読んでしまっててよかったと思いました。
 でも、『やりなさいと言っているのではない、やってきた事を書いている』とどなたかが言っていましたが、ストーリー性が無いので、内容はほとんど覚えていないのです。
 それでも一つだけ覚えているのは、結構長い文章で書かれていたあるエピソードです。
 あるとき、何か工場のようなものを、用地を買って建てようとしていたとき、お隣の工場のようなところに挨拶に行き、そこで挨拶代わりに便所掃除をさせて貰ったという話でした。どんなに丁寧に心を込めて掃除したかが書かれていました。トイレ掃除というのは生活の中の一瞬の事だから、すぐにまた汚れてしまうのでしょうが、きっとお隣さんはその心を理解したと思いました。その、無駄にも見える一瞬一瞬に心を込める事がどんなに大事か、怠け主婦の私としては背中をたたかれたようで、それ以来、できるだけまじめに掃除をするようになりました。
 鈴木さんは宗教を持っていたようです。こんな記述に感動して引用している人がいました。
『拝み合いの会社。ダスキンの朝と夕べは祈りに始まり祈りで終わる。それは人間鈴木清一が、あやまち多く、悩みも深く、弱さ、もろさ、悲しさに祈ってすがってゆきたいから。』
『チャンスをつかむのは自分。中身が本物であれば必ず天の摂理によって素晴らしいものが与えられるでしょうし、自分勝手なものであれば、自分の思うようにはならぬことです。チャンスは自分で創る。』
『出し惜しみ。自由になるお金を損しまいと思って出し惜しみする人は、たしかに損もしないでしょうが、また新しい幸運をつかむこともできない人だと思います。まず、損をするようであっても、相手が喜んでくれるものなら出し惜しみせずに出すことです。捧げることです。捧げることの喜びを知る人間になろう』
『喜びとともに利益を。喜ばれないような利益は利益ではありません。喜びとともに利益が出てくるというダスキンになりたいのです。よい結果が現れてこその喜びです。金はおおいに儲けて下さい。儲かったらこれをどのように喜びに使うかが問題です。』
『祈りの経営 ダスキンの経営理念

一日一日と今日こそは
あなたの人生が
(私の人生が)
新しく生まれ変わるチャンスです。

自分に対しては
損と得とあらば
損の道をゆくこと
他人に対しては
喜びのタネまきをすること

我も他も
(私もあなたも)
物心ともに豊かになり
生きがいのある
世の中にすること

合掌』
 家にあったものは初版のダスキン版で、ハードカバーで何度も開いて見るのに適していましたが、その後、普通の出版社からも出版されたようです。
 成功された方ですが、それに値するような厳しい内省をされていたんだと思いました。

2015年2月11日水曜日


三度目の正直

 メイプルショップで売りに出しているんですが、売れてしまう前にと、『生活の世界歴史』全10巻を読み始めてもうすぐ二年になります。これは有名な本で、古本もいっぱい出ていて売れる心配は無いんですが、遅すぎますよね。
 世界史の基礎知識が乏しいせいもあって、書いてある事が頭に入らずにイメージが湧かず、一巻終わっても、何が書いてあったか覚えていないなんて言うのもざらでした。
 この経験、前にもありましたね、そうです、若い頃、大学の授業に出て、聞いていても、頭の中は他の世界を飛び回っているなんて事、ざらでした。これも劣等感のもとでしたね。今思えば興味が無かったんでしょうけど。興味を持つように自分を導いて行けるのが頭のいい人と言う事でしょうか。
 とにかく、メソポタミアの一巻からなんとかマリー・アントワネットの子、消えた王太子のルイ17世の頃までの八巻を義務のように読み終えて、第九巻、『新大陸に生きる』、言わずと知れたアメリカ史です。そして著者はかの猿谷要先生。
 ここで俄然スピードが増しました。年を取ったせいもあって、眠れないときなどは、夜中一時二時なんて平気で読んでいる事もありました。やっぱりアメリカ史は、短いせいもあり、ある程度身近で、知識があるのです。西部劇等の映像でもよく見ていましたから。
 そして猿谷要先生とは、これが三度目の出会いなのです。最初は大学生のとき、多分『南部奴隷史』で外部講師の特別講義だったと思います。今、この『新大陸に生きる』を読んでいると、あの頃、先生が留学して一生懸命研究を重ねていた時期だったという事がわかります。多分、夏休みで帰ってきたときにでも、特別講師を頼まれたのでしょう。
 で、内容はというと、『南部奴隷史なんて面白そう』とミーハー気分で参加した私にはやっぱり基礎知識が無く、先生の講義が専門的すぎたのか、さっぱり頭に残りませんでした。
 二度目は『ハウランド家の人々』の翻訳本でした。原作者の筆力のせいもあるのか、最初の頃は退屈でやっぱり「なかなか頭に入らない」と嘆き節をこのブログにも書きました。
 これが三度目で、頭に入りにくかった前八巻を制覇した後では、実によくわかる力作だと思いました。この本には、『ハウランド家の人々』の記述も出てきますので、この本が、私が出会った三回の中では、先生としても一つの集大成だったのかもしれまん。やっぱり私達の時代ではアメリカ史の第一人者です。
 この中に、アメリカがテキサスやカリフォルニアを併合する下りが出てきますが、工作員を送り込んでメキシコからの独立を宣言させ、援軍を送りつけ、抗うメキシコ政府と戦って領土を分捕っていった歴史が書かれています。これって、ロシアがウクライナでしている事と同じだと思いました。こういう方法、昔からあったんですね。私達には思いつきもしませんけど。
 中でも、読むに耐えなかったものは、インディアンの征服です。西部劇がどんなに残酷なものかわかります。洋の東西を問わず、歴史をひもといてしまうと、攻められる事ばかりが目につきます。反省材料ですね。
 だから、『渡る世間に鬼はなし』なんて事無いんです。もちろん鬼だらけじゃありませんが。難しいですが、見分ける力が大切なんでしょう。そして、自分が鬼にならないこと。

2015年2月4日水曜日


田部井淳子さんの事

 私の対人恐怖症、いつもいつも、『他の人たちにこう見えてしまったかしら』、『どう見えるだろう』と、人の視点ばかりを気にしているからなんですよね。そして、いつも『あんな事をしてしまった』、『こんなことを言ってしまった』と落ち込んだり、気が滅入ったりしているのです。昔から言われる自意識過剰というやつでしょうか。
 あるとき、とっても若い子に、「誰も聞いていませんよ」と言われて、それ以来、カラオケで歌が歌えるようになった話はしましたっけ。そうなんです、本当は誰も人の事なんかそんなに見てはいないんですが、自分が気にしてしまって、自己嫌悪に陥ってしまうのです。そうそう、自分だけは知っているのです、自分の悪いところを。
 先日、登山家の田部井淳子さんのインタビュー番組を聞いていましたら、田部井さんも福島から東京に出ていた大学時代、田舎出の劣等感からノイローゼのようになってしまったという話をされていました。『ああ、私と同じだ』と思いました。
 もちろん同じではないのです。田部井さんのあの大きさは生来のものですよね。
 田部井さんは私より約十歳年上です。女性で初のエベレスト登頂に成功されたというのは、私が社会に出てうろちょろしていた頃か、結婚した頃だったでしょうか。
 その後、何かをしたいと思っていてもどうしていいかわからずに悶々としていた私は、田部井さんが書かれていた記事を読みました。そこには、『女性だけでエベレスト登頂を』と誓い合って、準備していた生活が書かれていました。まずお金、確か、ピアノの先生をしてお金を貯めていたと書かれていたように思います。もちろん訓練、体調管理、持って行くものの準備、山の装備は特殊でしょうし、お金もかかったと思います。そして、ご主人に子供さんを託しての出発だったようです。
 あのとき、私は、背中を押されるように、自分の希望を叶えてくれそうな機関を探し、両親に子供達を頼み、お金の準備をしてアメリカに出発しました。
 あのときから、田部井さんの事は、先生とも恩人とも思って、陰ながら感謝してきましたが、今回また、新たに田部井さんの人生を垣間見せてもらって、私もそうしたいと思う事が多々ありました。
 ひとつは身内への考え方。ご主人と幼い娘さんを残して行った訳ですが、「もし自分に何かあったときはと考えなかったんですか」という質問に、「夫もいたし、子供は幼くても、もう既に一個の人間ですから、心配はしませんでした」と答えています。『よいご主人でお幸せですね』と憎まれ口をききたくなりますが、でもこれは仕事をする人の心構えですよね。
 息子さんは思春期に荒れたそうですが、それも一個の人間の成長過程と捉えたと言っていました。
 そして、数々の山に登って、老年と言われる歳になってから、シャンソンにも挑戦し、ブログも書き、運転免許も取り、大学院も卒業し、癌も克服したそうです。この癌の克服は、田部井さんならではです。抗がん剤を打ち、次の抗がん剤までの間に、行けそうな山に登るのだそうです。そうして、きっと抗がん剤をうまい具合に体中に廻したのでしょうね。癌が消えてなくなったのだという事でした。誰にでもできる事ではありません。
 現在、震災で被災した子供達を千人、富士山に登らせたいというプロジェクトをしているそうです。『山に登れば自信が湧いてくるはず』と言っていました。
 私自身はお風呂にも入れない山行きなどする気は毛頭ありませんが、『何かをしたいと言うと、きっと誰かが助けてくれるから、何かしたい事があったら、大きな声で言った方がよい』と言っていました。
 NHKの連続ドラマ、『マッサン』の週間タイトルの『渡る世間に鬼はなし』を地で行っているようですが、十年短い私の生きてきた経験でも、今読んでいるアメリカ史を見ても、やっぱり鬼はいるんです。どれが鬼か、見分ける力をつけ、本当にやりたい事を見つける事が大事だと思いました。本当にやりたい事でなかったら、傍迷惑になりますから。
 でも、やっぱり田部井さんは、私にとって人生の先生であり、見習うべき人に変わりはありません。ベニシアさんもそうです。見習うべき人は他にも何人かいます。