2013年11月28日木曜日

企画書変更

 退院して三日目くらいに痛み止めが無くなりました。強い薬だから飲まない方がいいと先生も思っていたらしいし、薬嫌いの私も飲みたくはなかったので、余分にもらって来なかったのです。「家にはまだ座薬があるから大丈夫です」と強がりを言ったのです。でも、やっぱり痛いのです。動くと痛い、食べると胃が動いて痛い。開腹は胃の真上なのです。
  ほとんど座っているか、寝ているか、身の置き所に困るというのはこういう事なのでしょう。そうすると気持ちが滅入って来るのです。一種の鬱です。何も出来ないという事は辛い事です。始めて病人の気持ちを自分の事として受け入れました。
  家でもシャワーを使う気力はなくて、やっと十日目くらいに恐る恐る身体を洗いました。傷を洗ったのは三週間くらいしてからで、傷には感覚はありませんでしたが、確かにぴったりとくっついていました。ひと月位してから、初めておへそを洗ったら、タオルに血がにじみました。診察を受けに行った時に、先生に話しましたら、すぐに見てくれて、「ちゃんと着いているから心配はいりません。でも石鹸で洗うだけでいいですから清潔にしておいてください」と言われました。それで、消化器外科とは縁が切れたのです。
  今やっとひと月が過ぎて、痛みも大分薄れ、少しずつ家事もするようになって、落ち着きを取り戻して来ました。やっと何かをしよう、何かが出きると思えるようになったのです。これが、希望というものでしょう。体が元気でなければ、希望も持てないのです。
  それで久しぶりに、コンピューターの『企画書』のページを開いてみました。本を作る計画がびっしりと書かれていました。でも、本をまとめる予定だった四月、五月は終わってしまったのです。入院にお金を使ってしまいましたし、力の入らない体力、気力に自信も無くなりました。本を売る自信はもっと無くなりました。
  さてどうしたものかと考えていましたら、テレビで、『泣ける動画』というのが何百万回も見られているというニュースを見ました。色も着いていない下手な絵でした。ストーリイは苦労して成功した夫婦、幸せになったのに夫が友人の保証人になって全てを失ってしまい、荒んだ生活をするようになる。妻はじっと耐えて暮らしていましたが、病気になり、入院してしまう。やっと気がついた夫が駆けつけたときはもう帰らぬ人になっていて、普通ならそこで終わるのでしょうが、その動画は先があって、やがて夫も死に、二人は仲良く天国に昇って行くというもののようでした。そのとき、『動画ならただで出来るのでは』と閃きました。ただなら売れなくても良いわけです。
  ブログは誰も来なくなってやめてしまいましたから、文章だけでは人は見てくれないと気付かされました。『泣ける動画』の話を聞いていましたら、紙芝居で良いわけです。 この一年、傷の養生をしながら、これをやってみようと思いました。ストーリイに合わせて、絵を描いても良いし、写真をとってもいい、音声は自分で入れようと思いました。何せ、役者に憧れた時期もあったのですから、今からやっても良いのです。若い時には出来て、歳をとったから出来ないという事は無いのです。矢沢永吉さんも言っていましたが、『歳をとってもする事がある』という事はありがたい事です。そして、『動画で稼ぐ人びと』のように収入につながればもっとありがたい楽しい事になるでしょう。

2013年11月22日金曜日

消化器外科

  MRIの結果、腫瘍は『腺腫』という良性腫瘍だったと若い先生が教えてくれて、「ステロイドはちょっと多めでしたが、手術に差し支えないでしょう」とゴーサインが出て、十日経った手術予定日の前日に再入院しました。
  これだけの難関を通り抜けて来たのですから、覚悟はできていたのですが、もしかしたら、友人もしたという内視鏡手術で簡単にできるかも知れない等と甘い期待も持っていたのです。 もちろん、準備は開腹になった場合の必需品を全部揃えました。内視鏡で出来ない場合は開腹になると言われていたのです。
  執刀してくれる若いお医者さんとは、その日始めて会いました。家族と研修医の先生を交えた四人で説明を聞きましたが、そこでまた、『ええ、聞いてないよ』という事に出会いました。胆石の手術というのは、胆嚢ごととってしまう事なのだそうです。娘と私で、思わず声を合わせてしまいました。「ええ、胆石をとるんじゃないんですか」。
  きっと先生は、内分泌内科での私のドタキャンを聞いていたのだと思いますが、黙って、私が結論を言うのを待っていました。私もここまで来て、やらないとは言えないと思いました。「お願いします」という他、選択の余地はありません。
  それからがまた初体験の連続でした。内視鏡手術というのはお腹に四個の穴を開けて、鉗子を差し込むらしいのですが、一番大きな穴はおへそのところで、そこから、切り取った胆嚢を取り出すらしいのです。で、先ず、おへその消毒。次に途中で大便が出たりしては大変ですから、下剤を飲んで、大便を出し、浣腸して全部出し切ります。食事はもちろんとれません。小便は手術室に入って麻酔をしてから、すぐに管をつけるのだそうです。  翌日、T字帯と言う紙のふんどしをつけて、手術室に入り、背中に麻酔を打たれてからは、多分丸裸だと思うのですが、本人は知らぬが仏です。
  「こんな大きな石がとれましたよ」と先生に言われて、目を覚ましましたが、意識が戻ったときは集中治療室にいて、夫が、「五時間もかかった大手術だったよ」と言って、帰って行きました。『という事は、開腹だったんだあ』と思いました。手術後一日は集中治療室で、麻酔の中でうつらうつらしていたのです。
  翌日に看護師さんが迎えに来て、車椅子で部屋に戻るのだと言いました。とんでもありません。「本当に痛い。どうしても駄目」と言う私の為に、優しい看護師さんは部屋からベッドを運んで来てくれ、ベッドに移して、そのまま、皆さんに見られないように急いで部屋に戻してくれました。
  次に交代した看護師さんは厳しくって、「点滴をしているのだから点滴に鎮痛剤を入れてくれませんか」という私に、起きて経口の鎮痛剤を飲めと言って聞きません。
  実は私は三十代の頃に耳下腺腫瘍の手術をした事があるのですが、その時は、術後、顔はひん曲がっていたのに、ほとんど痛みを感じなかったような記憶がありましたので、この痛さにはびっくりだったのです。腸閉塞を起こさない為に、一日過ぎたら、動かすというルールがあったようでした。「それでもどうしても痛くて起きられないから先生に頼んで点滴にして欲しい」と言うと、実は一本だけ預かっていると言って点滴に入れてくれました。その点滴が早かったせいか、身体が冷たくなって来て意識が遠のき、『死んでしまうのじゃないか』と思いました。看護師さんは厳しいだけでは駄目ですね。
  夕方執刀医の先生が廻って来て、「僕もがんばったんだから、藤久さんもがんばって起きて下さい」と言いました。確かに開腹手術は先生も大変だったろうと思いました。『これは殺し文句だなあ』と思いましたが、差し出された先生の手にすがって起きてみましたら、何とか起きられました。その日から痛みと運動と麻酔の兼ね合いの日々が始まったのです。
  確かにお腹を切った私も大変でしたが、外科の先生というのは、本当に大変な仕事のようです。ほとんど毎日手術をしているのではないでしょうか。私が入院した日にも手術をしていると言っていましたし、翌日は私の手術でした。私の隣のベッドにはその先生が膿んでしまった盲腸の手術をしたと言う女性がまだいました。手術の時に集中して、完璧にやって、後は切り替えないと、心配でいられないだろうと思います。後を引くタイプの性格では耐えられないのではないでしょうか。
  一週間して、抜糸をして貰うと、随分と楽になりました。お礼の言葉をいろいろと考えましたが、「おかげ様で、あと三十年は生きられそうです。ありがとうございました」と言いました。これが本心です。軌道に乗って来たようにみえるショップの事を考えて、また続けてやれそうな気分になって来たのです。
  シャワーを使ってもいいと言われましたが、とてもそんな気力は起きません。翌日退院。まさに一週間の大攻防でした。

2013年11月17日日曜日

東病棟

  お向かいの彼女のやっとの思いがかなって、私と同じ主治医の先生が首を縦に振ってくれて、彼女が退院した後、先生が私の所にやって来て、言い辛そうに、湾曲に言ったのです。
  「胆嚢を写したMRIで、偶然にも副腎に腫瘍があるのが見つかってしまったんです。内分泌内科の先生のところに行って、話を聞いて来て下さい。」
  腫瘍と聞いて、さすがの私にも緊張感が走りました。今は癌でも治るらしいとは聞いているのですが、副腎というのはホルモンを出す器官で、そこを傷つけたらどうなるのだろうかと、そんな知識が頭をよぎりました。
  私が行かされたのは内分泌内科の部長先生のところでした。その地位になるとあまり外来の患者さんは見ないで、私のような突発的な患者さんを見る事が多いようです。先生は副腎に腫瘍が見つかったという事以外、あまり病気の説明はしないで、検査の日程ばかり気にしていました。その中で一言、「25日に手術を受けるなら、開腹した時に一緒にとってしまう事が出来るかも知れない」と言ったのです。「本当ですか」と私も聞き返しました。開腹手術を二度もやるのは大変な事です。その点では先生も私も意見が一致したのです。「じゃあ、お願いします」と私も言ってしまいました。
  先生は重大そうな検査の日程を先に決めて、その後、主治医の先生に電話をし、「東病棟に移ってもらうから」と言いました。さすがの私もふらふらして、退室するときは意気消沈していました。でも、お任せするしか無いのでしょう。
  私は六十四歳と五ヶ月です。まだ年金は正式に受給年齢に達していないのです。みんなこうして年金をもらう歳になると病気になって貰わないで死んでしまうのかしらと思いました。口惜しい気持ちです。
  それに加えて実は東病棟は、数年前に父が一ヶ月ほど入院して亡くなったところでした。翌日に東病棟に移動して、これはどんな運命なんだろうと考え込んでしまいました。
  その日の午後に、新しく主治医となった若い先生が面談をしてパンフレットを示しながら、私の副腎腫瘍の説明をしてくれました。「腫瘍は左に大きいのが、右に小さいのがあります」。「ええ、両方ですか」と、私。『初耳だよ』と思いました。
  次に検査の説明です。最初の一週間は尿を貯めておいてする検査、その間に副腎のMRI。次にステロイド剤を飲んで、副腎がそのステロイド剤を感知してホルモンを出すのを抑えられるかどうか、ちゃんと機能していれば、身体に余分にあるのを感知して、一定量に保つ為に出さないのだそうです。つまりホルモン過多にはならないんだそうです。
  そして最後は部長先生が張り切って予約を取っていた時間のかかる検査でした。それは放射性物質を注射して、一週間後にそれが左右どちらの副腎に集まっているかを見るのだそうです。放射性物質は発光するので、集まっているのが判るし、大きくても小さくても集まっている方が悪性なのだそうです。「放射性物質ですから、ヨーソ剤を一緒に飲んで頂きます。」と、若い先生はこともなげに言いました。
  本当にその時初めて聞いたのです、悪名高き、ステロイド剤や放射能を身体に入れるなんて。ましてや原発事故の後で配られたと言うヨーソ剤を飲むなんて。
 次に手術の説明でした。手術は腫瘍をとるのではなく、副腎をとるのだそうです。また『ええ』です。先生は副腎は二つあるので、片方をとっても機能は衰えないと言いました。でも、腫瘍が二つあるなら、仮に大きい方をとってしまって、今度は小さい方もとなったら、ホルモンが出なくなってしまうのではないかと思いました。しかも、胆石と同じ先生が執刀するのではなく、別の泌尿器科の先生が執刀するのだそうです。また、『聞いてないよ』です。
  その晩、先生から、パンフレットをお借りして、読みました。そのパンフレットには内視鏡手術も可能と書いてありましたので、先生に聞きましたら、まだそこまで信頼できないのだと言っていました。
  やっぱりこんなときは死んだ人に頼ってしまいますよね。『お父さんどうしよう』と何度も聞きました。父は何とも答えてくれませんでしたが、翌日来た娘が、インターネットで調べたのだと言って持って来た知らせは、『副腎腫瘍はほとんどが良性』というものでした。お医者さんは『良性でも腫瘍はとる』というのが原則だと聞いた事がありましたが、『ほとんどが良性』なんて、言ってくれませんでした。今は癌ならば血液検査でも判ると言われています。血液は何度もとって調べているはずです。ホルモン過多の症状と言われるものも今まで感じた事はありません。
  その晩、決心して若い先生を訪ね、「手術はしない事にしたい」とお願いしました。部長先生と板挟みになる若い先生は困惑したようでしたが、『今回初めて説明を聞いたのだ』と言うと、「僕がもっと早くに説明にいけばよかったですね」と言って理解を示してくれました。それで、検査はステロイド剤までとして、放射性物質の検査はキャンセルしてもらいました。
 担当の看護師さんは、落ち込み加減の私に『やりたくない事はやりたくないとはっきり言っていいのよ』とエールを送ってくれましたが、泌尿器科や外科と連絡を付けてくれていた部長先生には娘も一緒に散々に怒られてしまいました。
  その夜、また父の事を考えました。わが家は癌家系ではないので、父も母も老後は認知症になりました。認知症の大変さを見せてもらった私は、『癌で死ぬか、認知症で死ぬか、どちらかだよ』と父に言われたような気がしました。癌は恐ろしいと言われていますが、死ぬのは同じなのです。むしろ、家族に迷惑をかける率が少ないのではないかとさえ思いました。
  その病棟は内分泌内科ですから。他の二人の患者さんは糖尿病の患者さんでした。先生方も一緒になって、一生懸命血糖値のコントロールを試みていましたが、なかなか難しそうでした。父も糖尿病でしたが、ホルモン等の代謝はなかなか人がコントロールできないのです。

2013年11月15日金曜日

吐いた

 それまでも何度か感じてはいたのですが、案外短時間で収まってしまうので、『食べ過ぎたんだ』と思っていました。その腹いたの起こる間隔が回を追うごとに短くなり、苦しむ時間もだんだん長くなって行き、とうとうある晩、吐いても浣腸をしても、治まらないので、『これは駄目だ』と感じて、真夜中に仕事をしている娘に頼んで、近くの病院の救急センターに連れて行ってもらったのです。
 そこで、液しか出て来なくなるまで吐き続け、ふらつく足でトイレにも行っている間に、点滴や痛み止めの処置をして貰い、レントゲンや簡単なエコー検査もして貰いました。
 最初に聞かれたのは『今まで胆石と言われた事はありませんか』という事でした。何せ、長じてからはあまりお医者さんに行った事のない人ですから、そんな話になった事はありませんでした。結局、あまりはっきりした診断は下されず、一人の先生は『胆石』、もう一人の先生は『胆管炎じゃないかと思うから、なるべく早い時期に消化器内科を受診した方がいい』と言うアドバイスをくれて、痛み止めの座薬を貰って帰されました。
 翌日は日曜日で、痛くなると座薬を使って寝ていました。月曜日には約束があったので、少し治まった状態でやり過ごし、火曜日に何も食べずに消化器内科へ。きっと検査があるから、食べない方がいいと思っていましたが、実際食べられなかったのです。エコー検査の写真を見た先生は『胆嚢炎です。即入院』と言われましたが、翌日も約束があったのです。『すぐに入院は出来ない』というと、『それでは外来で直すようにしますか』と柔軟に言ってくれました。
 それでも、翌日も痛みが引かないのです。約束は娘が代わりに行ってくれると言うので決心して、夫に付き添われて、入院の準備をして再び病院へ、午前中に入院させてもらって、午後、『痛い、まだか』と待ちながら、やっと四時頃、胆嚢の膿を抜き取ってもらいました。
 二、三日、食事は出来ませんでしたが、痛みは無くなり、普通の状態に戻りました。その状態で周りを見回すと、その部屋は六人部屋でした。
 お隣は91歳のきれいなおばあさん。下痢と腹痛で入院したようです。長くいても治らないようで、最後は皆さん、どこかの施設に入ってもらって退院させようと躍起でした。頭のしっかりしたおばあさんの言った、『長生きも骨だ(骨が折れる)』という言葉がよく理解できました。
 その向こうの窓際は癌の患者さんだったようで、手術はもう出来ないと言われたようでした。その向かいの腸閉塞で入院したという若いお母さんに、「手術が出来るという事はまだ治る可能性があるという事だから、がんばりなよ」と言って励ましていました。一人暮らしだったけど、今度退院したら、息子の嫁さんが仕事を辞めて、子供達と一緒に来てくれると嬉しそうに隣のおばあさんに話していました。胆嚢の癌だと言っていたような気がします。退院後に陽子線治療を受けるのか、がんセンターのようなところへ行く紹介状をもらっていました。
 向かい側の真ん中のベッドは点滴だけのなれた感じの患者さんで三泊四日くらいで退院して行きました。
 出入口側の私の前のベッドは七十代後半の女性で、娘や息子は遠くに住んでいるので、八十代の夫を施設に預けて、町の介護タクシーに乗ってやって来たのだと言っていました。『これからはこういう人達が多くなるだろうなあ』と思わせるような典型的な例で、いつも『早く帰らなくては』と足掻きしていました。
 『みんなそれぞれに苦労があるのだなあ』と思いました。
 やがて、私はこのままでは何度でも胆嚢炎を引き起こす可能性があるので、胆石の手術を受けた方がいいと勧められ、消化器外科の偉い先生のところへ家族とともに行かされて、簡単な説明を受け、出来るだけ早い日程で手術をお願いしてきました。その為のMRIやCT、更には胃カメラは、そのまま入院して消化器内科で受ける事になったのですが、すべてが初体験の私は戦々恐々で、お向かいの彼女に話しましたら、彼女は既に七十代の前半の時に胆石の手術を受け、指輪に出きるほどのきれいな胆石を取り出してもらった、『何でもお任せした状態で、やってもらえばいいのよ』とアドバイスしてくれました。
 でも、その間にもショップにお客さんが来てくれたのです。娘が退院日を書いて待ってもらいました。ありがとうございます。

2013年11月8日金曜日

自分を認めてもらいたい人は

 夫は昔、友人のお医者様に『過適応なんじゃないか』と言われた事がありました。
 家族以外の誰に対してもそうですが、サービス精神が旺盛なのです。家と外の顔の差が極端なのです。会社をやっていた若い頃は、接待、招待と称して、仕事関係の友人を誘っては毎晩のように料理屋さんで飲み続けていたました。
 家族は全くの対象外で、どこにも誘ってくれませんし、食事にも連れて行く等と言いませんので、苦しい生活の中で、請求書を廻される会計係の私は、絶望もいいところでした。
 本当にどうゆう性格なんだろうと思っていましたが、確かにあの言葉は当たっていたかも知れないと今は思います。
 つまり、自分の大好きな人、憧れの人に自分を認めてもらいたい一心なのです。サービス精神を通り越して、まるで子供のように追いかけ回していたような気がします。
 夫が末っ子だったという事もあるかもしれません。つまり、周りの大人は全部自分を庇護してくれる存在のように思えて、甘えていたのかもしれません。
 最近、夫も歳をとりましたから、認めてもらいたいと甘えられる先輩達はほとんどいなくなりました。この頃少しはしゃんとして来たように思えますが、同時につまらなそうでもあります。
 しかし、私はこれがまともな生活だと思います。私もそうでしたが、若い頃は人に認めてもらいたいものなのです。そうある事を願って、一生懸命努力します。ほとんど叶いませんが。やがて、認めてもらいたい人達が死んでしまうと、やっと気付くのです。自分にとって何が大事なのか。私達もその年代に達したと言う事です。

2013年11月3日日曜日

前に進むのが恐怖 

 時々、こんな事を感じる事があります。心が立ち止まってしまって動けなくなるのです。一種の鬱でしょうか。
  チャレンジという表題通り、今しているネットショップ、エブリカラーはすべて初めての事ばかりなんです。一歩一歩、未知の山へ踏み分けているのと同じなのです。
  注文の来ていないメールページを開けたときは淋しく感じますが、いざ、注文が来ていると、今度はドキッとして、家中に『きた、きた』と触れ回ります。口に出して家族に伝える事によって、家族の承認と応援を得たような気になって、どこか安心するのです。どこかに、何かをするという恐怖感があるのです。
  古物商の許可を取るという項目が、なかなか踏み出せなくて、六月末から開いたショップ、エブリカラーに、新刊の三冊しか並べていないときが、二ヶ月も続きました。やっと、九月になって、自分で自分のお尻を叩きながら警察署に行ったのです。前に進むという事が、心理的にこんなに大変なものなのは私だけなのでしょうか。
  注文が入ると、すぐに商品を見つけて、返事を書き、緩衝剤でくるんで、発送の準備をするのですが、一つ一つ確認しながら進めている行程のどこかで、お金を貰うという後ろめたさを感じているのです。まさに、吉江氏の言われた『お金を貰う後ろめたさ』です。だって、労働をボランティアで提供している人もいるのです。家にある古本はもう、読まれない本なのに、それに値段を付けて売るという事に、どこかあさましさを感じてしまいます。軽蔑されているかも知れないという思いが頭をよぎる事もあります。気弱になって『もう止めてもいいかな』という気が頭をもたげる事もあります。
  そんな時、「いけしゃあしゃあとやれ」という吉江氏の言葉は背中を押してくれますが、それでもときどきは心が立ち止まってしまいます。それを、今度は家族の励ましが後押ししてくれるのです。『ここまで来たのに止められない』と思わされます。これが社会の一員として生きるということです。
  等といい子ぶっていますが、これでも随分と商人らしくなりました。レア本には高い値段を付け、自分の本を作って売ろうとまで考えているのですから、厚顔も甚だしくなって来たのです。まだまだ引き下がりませんよ。後にはこの『チャレンジ』という壁があるのですから。壁を背負って立っているのですから。目の前の課題を一つ一つ征服して行くしか無いのです。