2012年10月28日日曜日

国立歴史民俗博物館研究報告

  次にアップするのはこれにしようと思います。16集から34集までそろっているのです。夫は民俗学は専門ではありませんから、全く未読です。私も目次の書いてある表紙しか見ませんから、今回は『未読』と書き込もうと思います。
  『こんな専門性の高いものを買う人が本当にいるのだろうか』と危ぶみながら、アマゾンで調べてみると、これがみんな軒並み高いのです。イナックスより確実に高いのです。びっくりです。更に詳しく出品者の説明を読んでみると、大学図書館の旧蔵品が多く、蔵書印とか抹消印とかのついているものが多いようでした。これに比べたら、わが家の本は確実に高いに違いないと思いました。『所蔵品』という言葉も入れようと思います。
  しかも驚いたことにこれは写真を撮る必要が無さそうなのです。アマゾンにも『画像はありません』とでていました。みんな同じような表紙ですから、アップしても見分けがつかないのでしょう。意外と早くできるかもしれないとほくそ笑みました。
 でも、入れ始めてみると,写真が無いと本当に寂しいのです。それに、わが家のは写真をいれて『どんなに誰も見ていないか』を強調する必要があるかも知れないと思いました。で、やっぱり同じように手間ひまをかけて写真も入れました。これでもやっと8MBです。
  その中の第23集を、実は自分で読みたいと思って、最初はずしておいたのです。江戸時代の庶民生活の研究報告のようでした。見たいですよね。店番をしながら売り物の本を読んでいる古本屋さんの気持ちがわかります。惜しいんです、逃げられてしまうのが。
 でも、きっと基礎知識の無い私が読んでも分からないだろうと思ってまた入れることにしました。それだけ他より少しだけ高めにしました。売れないでいてくれたら、私が読むチャンスが巡って来るかも知れないと思ったのです。
  そうこうしているうちに、第22集が無いのに気付きました。あたりを探しても見つかりません。十年前はあったのですから、あっちこっち移動している間に消えてしまったようです。それで結局、数としては最初の目論見と同じ18冊です。余り気にせず、出て来たらまたアップすることにしましょう。

2012年10月26日金曜日

夫はコレクターまがいだったのです

  一度便器を集めて来て、敷地の空いているところが便器だらけになっていたことがありました。ですから、手軽な本などはいくらでも買ってしまいます。しかも読まないのです。
  書斎はありますが、どんどんどんどん膨れて行って、家中書斎になってしまったこともありました。それである時、「どうしても一部屋開けてくれ」と談判して、元の書斎に閉じ込めようとしましたが、入り切らないのです。さすがに諦めて夫は「古本屋さんに来てもらって本を売ろうかな」と言いました。それでいくらになったと思いますか。トラック一台半、30万円以上になったのです。入院費用が賄えました。
  今私が扱っているのはその残り物です。それでも一部屋あるのです。その中から、「読まない」と言ったものを拾い出して来て、ほこりを拭い、おもてと中身を調べて、どんな本か,誰が書いたか、特徴を書き出します。それからアマゾンで値段を調べて,中間より少し高めに設定します。何せ、ほとんど未読なのです。コレクター商品と言ってもいいのですが、そこまで自信はありません。
  それからやっとスキャナーで写真を撮ってショップにアップするのですが、ある日、ハタと気がつきました。『お客さんはなぜウチの店がアマゾンよりちょっと高めなのか分からないだろう』と。私がここでいくら、読んでないし、レアものだし、きれいなんだと強調していても、写真はアマゾンの方がきれいなんです。
  それで、ショップの説明のところに、ちょっと高めの理由を書いておかなければならないと思いました。まさか『コレクター商品』とは書けません。それほど丁寧に仕舞っておいたわけでもなく、それほど値段を高くしてもいないのです。
  アマゾンに出品しているお店は、『経年劣化あり』とか『書き込みあり』とか、『傷あり』とか、状態を詳しく書いていました。それで値段を決めているようです。私も考えました。『きれい』というのは私の主観ですから、人は違うふうに思うかもしれません。それで、『誰も読んでいない』という事実をふまえで、最初『未読』としましたが、でも考えてみれば、私が特徴を書き出す為にパラパラと中身を見たのです。夫も買ったときは、さすがにパラパラとは見たと思います。それでも誰かが読んだという痕跡はありません。開いたあとがついていないのです。それで、『未使用』と書きました。再度ショップを開いて最初から一つ一つ引っ張り出し、この文字を入れて行きました。
  これで少しでも、商品の良さが伝わればと思います。勿論、汚れなどのあるときは、『経年劣化あり』とも書き入れました。

2012年10月19日金曜日

スキャナーで撮り直し 

 ある日、暇に任せて、手直しをしていましたところ、クリックして大きくした商品の写真がぼやけていることに気がつきました。表紙の副題が読めないのです。やっぱり、カメラで六冊一緒に撮って切り分けたやつはダメなのかと思いました。立体的なやつはカメラでないと写せないのだから、本のように平面的なものはスキャナーで撮るべきだったと後悔して、それから時々写りの悪いのを選んではスキャナーで撮り直しをし,写真を取り替えました。
  そんな編集過程で、違う商品の説明文がついてしまった大間違いも発見。時々手直しも必要のようです。
  一日およそ二時間のショップ仕事のときは,用がなくっても必ず画面を開いてみますが、並んだ画面が美しいのです。一つ一つを取ってみたらアマゾンの方がきれいかも知れませんが、うちの方が写真が大きいので、並んだ感じが圧巻です。と、一人悦に入っています。それを見るたびにスキャナーで取り直して良かったと思います。
  もう一つ、暇だといろんなことをするもので、今月打ち込んだ新しい商品がヤフーで見つけられるかと、名前を打ち込んでみました。『ありました』と思ったら、他所のショップの名前が出ていました。アマゾン以外でも売っているのです。ちょっとがっかり。それで、また焦って、値段を変えようかと思いましたが、止めました。うちの商品に誇りを持たなければダメでしょう。美しいし、初版本だし、レアものなのだから。
  結局、うちの商品は検索できませんでした。まだ、検索サイトに載っていないのでしょう。やっぱり何回もショップを覗いていたのは検索エンジンだったようです。がんばって載せて下さい。その間に私は次にアップするレアものを夫の本棚から探します。さて、どんなのにしましょうか。

2012年10月12日金曜日

アマゾンの値段は日々変わるのです

  INAXの打ち込みを終え、修正もして、今月の仕事はこれで終わりとばかり,のんびりしていたのです。それがある日、何かを修正しようとアマゾンのページを覗くと、値段がドンと変わっていたのです。
  びっくりしてよくよく見てみると、アマゾンで新品もおいてありましたが、中古本を持っている人がそこに出品して売っているのがあって、私は両方見比べながら値段を決めていたのです。ところが、おもてに書いてあるのは最安値で、そこをクリックして開くと、出品している店主が自分で判断した値段がそれぞれに付けられているのです。『可』の本は安く、『良』の本は幾分高く、『新品同様』や『初版本』は更に高く、保護カバーがつけられていたと言う『コレクター商品』は何倍もの値段がついていました。
  『エー』と思って、思わず値段を再チェックしてしまいました。よく見ると、中には一冊売れて、次の値段が出ているものもありました。つまり最安値の『500円』のものが売れて次の値段の『2500円』が最安値になっておもてに出ていたのです。初めはオークションでいきなり高くなったのかと思いましたが、そうでは無さそうです。
  かと思うと、新しい出品があったらしい本は最安値が安くなっていました。つまり、『10000円』を超えていたのに、今は『9999円より』がおもてに出ています。  これは難しいです。『やっぱ自分のの美意識でいいのかしら』とショップに出す値段表をまたつくり直しました。家のはどちらかというと『コレクター商品』に近いのです。集めていただけですから。読んでいないし、ほとんどが初版本です。でも保護カバーなどはつけていませんからそれなりに表紙の角が擦れたものもあります。それで、やっぱりもとの『少し高めに』戻しました。
  もう一つ、お客様の好みを判断するページを見つけました。つまりどの商品にお客様が何回訪れているかを記録したページがあったのです。それはお客様か検索エンジンかどちらかは定かではないのですが、私の予想とはずっと離れていました。難しいですね。
  この値段を付けるというのはおこがましいですけど、店主の醍醐味なのかもしれません。本の美しさ、古さ、必要度、いろんなものを考え合わせて、値段を付けて行くのでしょう。叉しばらくしたら、再チェックしなければならないかもしれません。超レアものだと思っていた商品が、一点出品されていて、値段を下げた例もありましたから。
  私も『どうしても売れなかったらアマゾンのここに出品するという手もあるんだな』とも思いました。これはまだまだ先のことで、出品限度の100MBまで商品を並べてからの話ですが。このままで行くと、夏休みを挟みましたが、今三ヶ月で5MB超ですから、慣れて来たとは言え、あと一,二年はかかりそうです。
今だけに集中する 

 『あるのは現在だけ、今を最高に生きる』という言葉は、昔から言われていましたが、私が実感として分かるようになったのは、つい最近、年金を貰い始めてやっと一息ついた後でした。
  その頃、やりたいことはいっぱいあったのです。しかし、父が亡くなり、母が認知症になり、特有の騒動を起こし出し、足腰が衰えて入退院を繰り返すようになり、加えて夫の糖尿病、それに起因する脳梗塞、入院退院。初孫の世話。『何でこんなに忙しいんだろう。やりたいことはいっぱいあるのに』と足掻きしていました。
  そんな状態の一年半前、東日本大震災が起きました。昼過ぎでしたか。孫と娘が来ていましたから、私は孫を抱き寄せ仁王立ちしていました。
  父が亡くなったときから、死は随分身近に感じられていましたが、その後の津波、行方不明者、原発放射能漏れなどが次々に起こると、もう、やりたいことなんて言っていられません。みんなで知恵を集め、手を貸し合って生きて行けなければならないのですから。
  わが家でも皿は割れ、本が落ち、柱が少し曲がりました。それでもたいした被害は無く、水道や電気が止まり、交通渋滞で孫と娘が帰れなくなったことくらいでした。それらの片付けを娘たちが協力してやり、水道の止まったわが家で、下の娘が抜いていなかった風呂水を管理して水洗トイレの水を間に合わせました。
  あの震災以来、絆という言葉がクローズアップされた感がありますが、私も実感として体験しました。家族がいて自分がいるのです。あれ以来私はやりたいことの一つを忘れました。家族への手助けが最優先になりました。『何と遅い気付きか』と思いますが、とにかく気付いたのです。
  今、私は家族の中心にいます。結構重労働です。確かに昔から中心にいて重労働で、その頃は『逃げ出したい、違うことをやりたい』といろんな夢を見たり追いかけたりしていたのですが、今は掃除機をかけているときでもその時間に集中しています。『明日はこのカーペットを洗濯しよう』とか、『使えない前の掃除機の集塵バッグはどうやったら再利用できるか』とか、洋服の出し入れのときは、『この使わない服の再利用はどんなふうにしよう』とか。昔は『早く終わりにして、次の何かをしなければ』と急かされるようにやっていた夢とはかけ離れた家事が、そこに家族の喜ぶ顔が浮かぶことで夢中になれるのです。
 そこにはもう、思い煩う過去も夢に見る栄光の未来もありません。夢中になっている現在だけです。こうした最良の現在の積み重ねが信頼に繋がり、最良の未来になるのでしょう。イチローさんの名言は『小さなことの積み重ねがとんでもないところに連れて行ってくれる』でしたか。
  やりたい夢はいつかまた始めます。それよりも今は『今が大事』なのです。今しなければ消えてしまうことも人もいっぱいあるのです。過去も未来も思い煩うのは愚かです。やっと認識しました。
  更に考えてみると、父母のことが思われました。本当にたくさん助けてもらいました。私に愛情があるからだと不遜にも思っていたのですが、今はそれだけではなかったのではないかと思われます。あの時代の人たちは戦争を経験しているのです。『みんなで助け合って』というのは言われなくても身に染み付いていたのでしょう。みんなが助け合って同じ方向を向いて、だから戦後の大きな経済成長を成し遂げられたのではないかと思いました。

2012年10月5日金曜日

忙しいと言葉尻を気にしている暇がない 

 実は私は、内にこもるタイプの人間なのです。後悔もいっぱいしますが、執念深く恨みがましい人間です。
  幸い息子はいませんので、嫁姑の確執をすることはありませんが、夫の母である今は亡き姑とは犬猿の仲でした。一言弁解させて貰いたいのですが、姑も同じ性格だったのです。そこに来て、その頃は二人とも専業主婦だったのです。つまり、いつも自分たちの感情にだけ向き合っていたのです。
  娘達が大きくなると、『お宅は娘さんでいいですね』とよく言われましたが、そんなことはありません。今でも言いたい放題言い合っていて、私は「絶対同居なんかしない」と公言しています。
  要は、言いたい放題言い合っている言葉尻が時々遠慮会釈もなく胸に突き刺さるのです。それは近くにいれば誰でも感じることです。じゃれ合っている子犬が時々噛まれて泣いているのと同じです。でも、対人恐怖症気味の私ですから、内にこもってしまうのです。そういう私の娘達ですから、やっぱりみんな内弁慶で近くにいるのです。いないと寂しいのでしょうが、摩擦が多いのです。
  そんな私が、ショップを始めて、ブログを始めて、『どうしたらお客さんが来るだろうか』、『本当にブログは公開されているのだろうか』、『なぜアメリカからトラフィックが来るのだろうか』などと夢中になっていると、娘達の言葉尻が余り気にならなくなって来たのです。
  『生きるってこういうことなのかな』と思いました。つまり、自分のしたいこと、おもしろいと思うことに夢中になっていると、他のことは余り気にならなくなって来るようです。
 『役者は親の死目に会えない』とよく言われますが。それだけ夢中になっているということですよね。他にも社会の第一線で夢中で仕事をしている人たちでは、物理的にも感情的にも親の死目に会えない人はたくさんいると思います。
  その後悔も恐ろしいことですが、でも、私は幸いにも六十代ですから、そのバランスの取り方を知っているつもりです。仕事を楽しみながらも、家族の居心地の良さに心を砕く。感情の棘が気にならなくなった分、大らかな気持ちで家族に付き合って行こうと思います。悪く言えば、あのピン芸人のように『受け流す』生き方でしょうね。
  これも一日二時間、『ああしよう、こうしよう』と夢中になれるショップがあるおかげです。その他の時間で家事もガーデニングも買物も運動もこなさなければならない。忙しいのです、主婦は。