2015年12月31日木曜日


英国ミステリー噂話、オックスフォードミステリー、ルイス警部

 実は英国ミステリーにはまった最初はルイス警部だったんです。そのとき、オックスフォードミステリーとは何ぞやと調べて、先に主任警部モースがあると知り、それからモースを見、ルイスを見していると、独身貴族で華やかなモースに比べ、ルイスは役柄設定的にも地味で、普通の人に描かれています。
 その地味で普通の人が後を引き次いだのですから、役者さんも製作陣も大変だったと思いますよ。この成功は優秀なハサウエイ刑事の存在も、同じく優秀なドクター・ホブソンの存在もありますが、ひとえにルイス役のケビン・ウイットリーさんの変わらない地道な努力の賜物のような気がします。ケビン・ウイットリーさんとはどんな人なのでしょうか。
 生まれは1951年2月6日、現在64歳、私より三歳下。ノーザンバーランドのヘクサムというところだそうです。地図で見るとスコットランドかと思われるところですがスコットランドのすぐ下のようです。大きな教会の写真が出ていました。
 以前モースの思い出番組に出て、『こんなすばらしいドラマはにもう出会えないでしょう』というような事を話していましたが、それだけ謙虚な人のようです。だから、この噂話でも、モースを取り上げ、ドクター・ホブソンを取り上げで、最初に出会ったルイスは今になってしまったのでしょうね。
 この間にも、二回ほど他のドラマに出演しているのは発見しました。若い頃のはミス・マープルに若いサージャント(DS)役で出て、姉に成り代わり遺産を相続しようとする老女を追いつめる役だったと思います。もう一つは、たまたま見たジョージ・ジェントリーに悪役で出ていました。
 私見が長くなってしまいましたが、ルイス警部のように、田舎出の実直な性格で、女優さんの奥さんと二人の娘さんがいるようで、長女はオペラ歌手のようです。
 お母さんは先生で、お父さんは英国海軍の司令官だったようです。イギリスにもNHKの『ファミリーヒストリー』のような『あなたは誰だと思うか』という番組があるらしくて、それによると、母方の祖母ドリス・フィリップスはプロの歌手、父方の四代くらい前のリチャード・ウエイトリーはダブリンの英国国教会の大主教であらせられたようです。また、その昔の父方のトーマス・ウエイトリーは著名なロンドンの商人で、政治家であり、作家であり、イングランド銀行の理事になり、大会社の重役になり、バージニアのタバコ農園のオーナーになりした人であったらしい。
 ケビンはセントラル・スピーチ&ドラマ学校で学び、後の2011年には学校のフルハウス劇団の後援者になったらしい。もうその頃は成功者になっていたでしょうから。
 彼の兄のフランクはロンドン大学でドラマを教えているようです。
 ケビンは最初、フォークシンガーになったようです。今でも、チャリティのためにギターを引くそうです。また、役者になる前、会計士の勉強もしたようです。
 キャリアにはたくさん書いてありましたが、やっぱりマープルに出た事が出ていて、これが、二年後に始まったインスペクター・モースの相棒、DSルイスにつながったようです。そして13年間、大成功の32話になり、有名になったようです。
 ルイス警部はそのスピンオフドラマで、もう、8シーズン目らしいです。7シーズン目が終わったとき、ウエイトリーとDSハサウエイ役のローレンス・フォックスは一年間のお休みをしたらしい。その間にウエイトリーはいろんなやりたい活動をしたようです。ちょうどロンドンオリンピックの年だったんでしょうか。
 そう言えばローレンス・フォックスが刑事フォイルで犯人役をしていたのを見た事があります。あれもこの時期だったのでしょうか。もっと若かったようにも見えました。
 前に書いたように女優の奥さんとイギリスの真ん中くらいにあるワボーン・サンズという田舎に住んでいるようです。奥さんは1990年のモースにも被害者役で出演した事があるようです。長女は2011年に賞を取った事もあるオペラ歌手で2015年9月、最近ですね,テノール歌手と結婚したようです。
 ウェイトリーはロックも好きだったけれども今はクラシックをよく聞いているそうです。それとサッカーも好きだが、ラグビーの方がより好きで、また、クリケットも好き、著者のコリン・デクスターがそれを認めて、モースの筋を書き換えたほどだそうです。
 頑張ってますね。

2015年12月17日木曜日


英国ミステリー噂話、ブラウン神父のマーク・ウイリアムズ

 私だけかも知れませんが、あんまり暗くて残忍なミステリーは苦手です。あまりに現実離れしているのも苦手ですが、この『ブラウン神父』のテレビシリーズは時代設定が第二次世界大戦の後のようです。その時代の特徴なのか、何となくのんびりしていて、好感が持てます。神父役のマーク・ウイリアムズさんの体型も関係しているでしょうか。こういうのを『コウズイ(ちいさな)・ミステリー』というのだそうですか。
 彼の事をウキペディアで見てみると、1959年8月22日生まれ、私より、11歳も若いんです。まだシリーズは続きますね。生まれはイギリスの真ん中頃にあるウースターシャーと発音するのだと思いますが、その中のブロムズグローブと書いてあります。写真はきれいな町のようです。奥さんと子供一人のようです。
 彼はいろんな顔を持っていて、俳優、コメディアン、司会、脚本もこなすようです。ブラウン神父役の他にはハリーポッターのアーサー・ウイーズリー役をしたそうです。ロイのお父さん役だったでしょうか。
 地元のハイスクールを出た後、オックスフォードのブラスノーズ・カレッジを卒業し、オックスフォード大学演劇部、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー、ロイヤル・ナショナル劇場などで、舞台俳優としてキャリアを積んだのですが、BBCのコメディに出演した事からコメディアンとして有名になったようです。
 彼のキャリアの中で、私が知っているのはハリー・ポッターのアーサー・ウイーズリー役くらいですが、ドクター・フーにも出ているそうです。
 ブラウン神父は2013年から始まっていて、他に2014年からBBCでゲーム・ショーの司会もしているそうです。他にはドキュメンタリー番組の司会などもしているようです。
 私も一度、あ、これはブラウン神父だと気づいたのがあったのですが、何に出ていた時だったか覚えていません。テレビドラマへの出演リストを見ると、ジョージ・ジェントリーとアガサ・クリスティーズ・マープルに出ていたようですが、ジェントリーの方はあまり見ないので、ミス・マープルの方だったと思います。タイトルは『なぜエバンズに頼まなかったのか』のクロード・エバンズだそうです。何回か見ていると思いますが、ちょっと覚えていません。

2015年12月11日金曜日


ユニフォームの事

 シルバーリハビリ体操指導士の資格を頂いて、いよいよボランティア始動という時に、ユニフォームがないと指導できないと言われました。
 講座を受けている時は無くてもいいと言っていたのに詐欺みたいです。それが3500円もするのです。この生活切り詰めの時にと思いますよね。
 指導士がお揃いのユニフォームを着ていれば、確かにやり易いのはわかります。でもね、なんか、軍隊みたいとか、没個性だとか、いろいろ屁理屈を言いたくなってしまいます。
 どうしても抵抗があるのです。私って、ネットワークには向かない人間のような気がします。創始者の太田先生は戦中に育った方で、教育勅語をすらすらと言える年代です。『同じ老人でも、世代によって価値観が違う、相手の価値観を理解して介護しなければならない』という講義をしてくださいましたが、私は戦後生まれで、個性を大事にという教育の中で育った人間なのだと言い訳が出てしまいます。
 お金の事も嫌だし、ユニフォームを着て、先輩後輩の人間関係の中に入るのも憂鬱です。結局内弁慶の私は自分を殺さなければならない社会というものが苦手なのです。人と接すると後悔ばかりが浮かんで来る対人恐怖症ですから。
 明日行かなければならない、どう断ろうかと、寝られなくなってコンピューターに向かっていますが、やっぱり正直に、ユニフォームを買うお金がないからと言おうと思います。それを買ってまで指導士をする情熱が湧かないのです。
 最初からユニフォームを買わなければならないと言ってくれたら、講座も受けなかったのにと恨めしくもありますが、講座はそれなりに楽しく勉強になりました。それをどう生かすかは、皆さんと同じでなくってもいいかも知れません。
 そう結論づけて、4時頃に寝て、朝9時に行って断って帰るつもりだったのですが、熱心に勧められて、見学させていただく事にしました。皆さん本当に真剣で熱心でした。その熱心さを見ていると、とても私が片手間で入り込めるところではないと思い知らされて、絶対に入らない、入れないと決意を新たにして帰ってきました。今は夫に教えるだけでいいや。

2015年12月3日木曜日


生活防衛

 野草の話をしたので、ついでに最近植えた果樹の話もしようかと思います。昔、ギリギリ虫に食べられて、倒れてしまったイチジクがよくなってくれましたので、小さくて安い苗を買って来て植えました。狭いわが家の空き地で、植えたのは物干し台の下の左端、干すのに邪魔になりそうなところです。でもね、これからは、花粉だ、2・5だと部屋干しが多くなって、物干し台を使う回数が減っているのです。だからなんとか共存させたいと思っています。
 もう一本は、シュガープルーン。これは何となくダメだろうなと思いましたが、しそ畑の真ん中に植えました。昔、桃ノ木を植えて、すぐに虫にたかられて、すぐに切ってしまった事がありました。桃系はむずかしいのです。梅系もダメだった事がありましたので、これが桃系か梅系かわかりませんが、ダメのような気がします。
 本当はアロニアという、ブルーベリーよりも目に良くて、酸っぱくて生食はできないけれども、育て方が容易だという苗木を探しに行ったのですが、なくって、紫色の実のなっている写真をつけて、これも安くて小さいシュガープルーンの苗を買って来てしまったのです。
 もう、目にいいと言われているものにこだわりまくりです。話は違いますが、紫色なら芋でもいいらしいと聞いてもっぱら紫芋を買って来て食べていました。それが先日は売り切れていました。やっぱり皆思う事は同じなのですね。
 あとは、最初の頃こそ袋駆けなどしていましたが、専門家が作ったもののようにおいしくできないので、今までないがしろにしていた巨峰。私の無視にもめげず、大きくなって結構実を成らすのです。でも、剪定も摘果もしないので、病気にかかってしまいます。甘くなければジャムにすればいいのですから、今年はまじめに世話をしようと、枝を導き、寒くなったら剪定もして、面倒を見ようと思っています。
 大きくなった日よけ代わりの琵琶は、もう、剪定をしました。日が当たらないと実がならないのだそうです。本当は花芽が出たこの時期に摘花もすればいいらしいのですが、大きくしてしまったので届かなくなってしまいました。
 いいんです、成ってくれれば小さくたって。甘くなければジャムにします。これからは何でも生食できなければ、ジャムにして食べて、生活防衛です。
 そうそう、裏に植えてあったイチゴを前の日当りのいいところに少しずつ植え替えています。イチゴは野草並みにオッポっておいてもなってくれるのです。甘くは成りませんが、砂糖をかけて電子レンジでチンすれば、自家製ヨーグルトのお供に成ります。このレシピは前にも話したような気がしますが。

2015年11月27日金曜日


じわじわと値上がり

 家はこの頃、無添加の液体洗濯石けんを使っているのですが、使う量が多いせいか、すぐに無くなります。で、月に三本くらい買います。
 一本くらいずつ買っていたのが無くなり、ちょっと多めに買っておこうかと思って買いに行ったらびっくりでした。一本三百八十円になっていたのです。それまでは三百六十円くらいでした。消費税も入れると四百円以上。二、三軒他のお店も見に行ったのですが、同じ値段でした。『ああ、安い時にたくさん買っておけばよかった』と思いますよね。
 それでなくても、年金が目減りを続け、デフレの頃が懐かしい今日この頃なのです。
 この間、自動車保健の見直しをして、年に二万円ほど節約した話しはしましたが、後、節約できるものと言ったら、食費くらいでしょうか。
 他には電力費が上がっていますが、これを抑えると生活が寂しくなります。水道代はできるだけ節約、ガス代は電気の調理器具が増えた分、安く抑えられています。灯油は新しい追い炊き釜に換えたら、熱効率がいいのか半分ほどになりました。
 で、料理に工夫して、食費を抑えようと試みますが、それがなかなか抑えられないのです。という事は、消費税の事もありますが、食材そのものも値上がりしているような気がします。かといって、食材だけは安くても、質の悪いものでは困ります。
 この間、下流老人という記事を読んでいましたら、年金支給日の前は、野草を食べると書いてありました。これ、悪いことでも恥ずかしい事でもありません。だって、食べられるとわかっている野草なら、安心で安全で、かつ、高級です。山がちの村に育った私達の子供の頃は春になると野草を摘みに行ったものです。セリ、モチ草、ワラビ、ゼンマイ、秋になると茸採り。消極的で家弁慶の私でしたが、当薬(センブリ)などの漢方薬も摘みに行きました。友達が『蛇穴さらい』と言っていた、山に行って落ち葉や松葉をかき集めて籠で背負って来るのも、一緒に遊びたいばっかりにやりました。これはちょっと違いましたが、落ち葉などは、肥料にも燃料にもなったのです。水辺の町に育った夫は魚を捕ったり、エビがにをつったり、食用蛙も食べたと言っていました。だから、本当は食料を自分たちで調達する事は、昔から当たり前なのです。
 そう言う訳で、わが家でも、狭い庭にいろいろ植えています。ニラ、小ネギ、しそなどは野草並みに生えてくれます。その他、種を買って来ては蒔くのですが、野草でない栽培種は蒔いて芽が出ても、よっぽど手入れをしないと大きくなってくれません。
 まあ、野草でもあればいいのです。何かを加えて、天ぷらにすれば、おいしい一品が出来上がります。これで、食材の値上がり分を少しでも緩和できたらと思っています。

2015年11月18日水曜日


ロシアからの便り

 私のブログには、閲覧はあんまり来ないのですが。外国からのトラフィックが週に一、二回来て、気味が悪いという話をした事があります。このたび、十一月一日と七日にロシアから大量五個ずつ来ました。日に五個というのは、週に一、二回、トラフィックしか来ない事もあるブログには、びっくりするような量です。
 これまで、外国というのはアメリカがほとんどで、その他、ドイツ、イギリス、もちろんロシアもありました。デモです、確かに、一時にたくさん来るという経験もありましたが、今回は特にある事件に結びついているのではないかと疑われたのです。
 十月三十一日にロシアの航空機の墜落がありました。その翌日の十一月一日です。それと七日頃には、原因がISの仕掛けた爆弾ではないかという見解が英米で相次ぎ、ロシアもエジプト便の運行を停止すると発表しました。
 これがトラフィックの急増につながったのではないかと思うのですが、このトラフィックのURを開ける事などもちろん怖くてできません。

2015年11月12日木曜日


名優について

 歳を取ってミステリーを見る機会が多くなり、好きなシリーズになると何度でも見てしまうのですが、寂しい事に、みんな歳とって行ったり、亡くなってしまったりするのですよね。先日はポアロが終わったばっかりなのに声優の熊倉一雄さんが亡くなりました。
 フロスト警部なんか、見ている間に歳とって行きますし、フォイルも戦時中のフォイルと戦後のフォイルを見ると、明らかに老いが感じられます。それなのに、ストーリーはより過酷になっているのですから、物語の世界は歳を取らないのです。
 この間、俳優の鈴木浩介さんと田中哲司さんの出ているトーク番組を見ましたが、最初一緒に演劇を志した同期の人で、今も役者さんをしている人はほとんどいないと言っていました。それほど、人間はどんな道でも選べてしまうのでしょう。
 田中哲司さんが、銭湯に行くお金もなくて、台所で体を洗っていたという苦労話をしていましたが、そんな思いをしてまで、役者であり続けた人だけが残るもののようです。
 だって、若い人たちの演技って、心もとないですものね。きれいなタレントさん達が、若くてきれいというだけで、たくさん、いい役に配置されますが、見るからに初々しいというか、なじんでいないというか、そこから、俳優を続けて行く事は、なかなか大変のようです。
 だからやっぱり、ミステリーの主役や重要な役を演じられる頃には、歳を取り、いかにも市井にいる普通の人のように演じられるようにならないといけないのでしょうね。そこまで続けられるかです。
 私も、やりたいと思った時がありましたが、私にはやっぱり無理だったと思います。市井にいながらも、どれだけふらふらといろんな事に目移りしたでしょうか。一つの事に精通なんて思いも及ばない事でした。だって、人の目も気になりますし、壁にぶつかるといつも逃げていましたから。
 名優となるにも、強い意志と、度胸、つまらない事を恥と思わない大らかさ、図太さが必要だなと思います。そうして、修練して、やがて名優といわれるようになるのでしょうから、歳をとってしまうはずです。

2015年11月6日金曜日


県庁所在地

 シルバーリハビリ体操指導士養成講座を受けるために、片道一時間半、車を運転して通った話はしましたが、そこは県庁のすぐそばで、昔はよく行っていたのです。でも、一人で行ったのは数えるほどしかありません。それをこの歳になって、一人で一時間半のドライブは.最初はちょっと不安でした。でも、案ずるより産むは易しで、最高一時間十分で着いたと、同じ市内から来ているとなりの席の人に自慢たらたら話していました。
 受講生の中に、三年前にご主人を亡くされたという方がいて、彼女が「今まで私が何でもやって来たから、不自由は全く感じない」というのを聞いて、すかさず「私も」と言いました。まだ元気なんですけどね。
 で、用心のための時間も加えると、約一時間くらい早く着くのです。その一角は、南から行くと新しくできた県庁の先で、病院も含めた、県の保健関係の施設が数棟、古くって大きな建物が集まって建っていて、壮観でした。さすが県庁所在地という感じです。で、やる事も無いので一人でその周りのウオーキングでもしようかという事になりました。
 最初、横の方に歩いて行ったのです。そうしたら、遊歩道がありました。これ幸いとそこに乗っかって裏の方に行くと、林の中に入って行く小道がありました。ちょっと怖かったのですが、興味もありましたのではいって行きました。林の中の小道は100メートルも続いていたでしょうか。ちょっと開けたところに壊れかけた神社がありまして、その上の開けたところには、『植樹した』という杭が立っていました。多分あそこに本殿があったのだろうという位置関係でした。で、その先には下におりる石段が続いていて、忘れられたお宮の面影を残していました。
 当然のごとく、崩れかけた石段を降りて行きました。そこに人がいて、未整備の水道のような蛇口から、二リットル用のボトルに勢いよく流れ出る水を汲んでいました。それが『笠原水源』と言われるものだとは、そこの立て看板を見て知りました。。
 これが六回の講座のうちの二回目の事で、それから三回、大きなボトルをたくさん持って、講座の前のひととき,水汲みをしました。一回は汲む必要がないほど,余ってしまっていたのです。
 よくよく周りを見渡すと、神社から水源に降りたその下は川になっていて、その周りが割り方広い公園になっています。その公園は川とともにずっと続いていて、その先は千波湖に流れ込むようになっているようです。やはり、さすが県庁所在地です。最初からこの水源を守るように建物を配置したようです。
 今度、時間があったらトレッキングしたいものだと思います。

2015年10月30日金曜日


シルバーリハビリ体操指導士養成講座

 という長い名前の講座を受講するために、片道一時間半かけて、六日間通いまして、今日無事に修了の運びとなりました。
 これは、これから訪れる、異次元の超高齢化社会に向けての対策として、少しでも社会に迷惑をかけないように、体の仕組みとリハビリ体操を覚え、自分も元気に、人に教えて人も元気にする、ボランティア活動のネットワークづくりのようでした。
 太田仁史先生という整形外科の先生が提唱し、今、八十歳でお元気に中心になって茨城県内全域に広めているようです。
 もちろん、私の事ですから、最初の動機は不純なものでした。先ず、健康のためにあまり好きでない体操をしなければならないのなら、人に教えれば、いやでもしなければならないので、するだろうと考えたのです。
 思惑通り、六日間、週二回三週間は、講座以外にもウオーキングや庭仕事などまじめにやりました。体重は変わりませんが、筋力が着いたせいかフットワークがよくなった気がします。
 デモです。これが人に教えるとなると別問題、リハビリ体操はパターンがいくつか決まっていて、全部覚えなければなりませんし、決まり事も多く、自由にはできないのです。
 つまり、自由度が無いのです。教わった通りに教えなければなりません。特に相手が片麻痺の方とか、高齢者とか、災害被害者とか、だった場合は、過度な体操は危険が伴います。
 これって創造性豊かな?私には一番苦手な事です。
 宗教だってそうですよね。最初は教わった教義は一つなのですが、みんな創造性があるから、どんどん枝分かれしてしまうのです。
 などと、最初から屁理屈を捏ねているのは、覚える気がない証拠かも知れません。
 でも、修了証書を貰ったからには、できるところまでやってみようと思います。皆さんの後に着いて、体を動かしていようと思います。少なくとも自分のためにはなるのですから。

2015年10月22日木曜日


老人の話

 市の保健センターにマッサージ機とヘルストロンを使わせてもらいに週に何日か行っている話しはしましたが、そこはゴミ焼却の熱を利用したプールとお風呂が併設されていて、施設を仕切って、老人のデイケア施設も稼働しています。
 そんな施設ですから、利用者は老人が多く、同好の士を求めて、囲碁クラブや陶芸教室、カラオケなど様々な同好会が活動しています。
 で、ご老人は仕事がありませんし、体にいろいろ支障が出てきますから、私のように、マッサージ機やヘルストロン、時にはプールやお風呂も一緒に利用して、おしゃべりをしながら、友人関係を築いている人もたくさんいます。
 そんな漏れ聞こえて来るご老人方の話を、私はただただ感心して、時には相づちを打ちながら聞いているのです。
 最初にお話しした方は毎週二回、碁を打ちに来ているという事でした。義兄もそうですが、囲碁に夢中のご老人って多いんです。義兄など、新聞の切り抜きを何年分も採ってあると言っていました。その方はここの他にも、近くの公民館で週一回集まってやっていると言っていました。
 その方は東京出身で、年齢的に戦争中に学齢期だったと思うのですが、空襲でお母さんを亡くされた事、シベリアへ抑留されたおじさんの話、身を以て味わった復興の苦労など、おしゃべりで頭も良く、記憶力も確かなので、いわゆる語り部に最適と思われるのですが、子供達は、「孫達には話してくれるな」と言うのだそうです。小さな子供達には残酷さがあまりに身近ぎるのでしょう。わかる気もするのですが、でも、彼の記憶は十年後には、もう無いのです。
 良くおしゃべりをしていた人が、癌で入院してもうダメだろうと話している人もいました。「そう言えば、あの人はどうした」と聞くスパンが短いような気がします。つまり友人関係でいる時間が限りあるのです。
 しばらく入院していて、久しぶりに来た人に、自分も癌だという人が、「もうあきらめた」と言っていました。今は総ての薬を断って、それで死んだらそれでいいと言っていました。夫も肺に影があると言われた時に、手術はしない、抗がん剤治療は受けないと言っていましたが、その方は、総てやってみて、かえって具合が悪くなって決断したようです。
 治療を拒否した方がいいという、お医者様達の書いた本をたくさん読んでいて、この人はこういう事を書いている、人体には病気をやっつける機能がついていて、例えば風邪なども、抗生物質で治そうとすると、病気と闘う菌まで殺してしまうと言っていました。確かにそうですよね。
 これだけ勉強した治療拒否の論調も、多くの人に知られる事も無く、彼の終わりと共に消えて行ってしまうと思うと、惜しいですね。
 皆さんも私もあとの残りは少ないのです。よくよく、聞き耳を立てて聞いていようと思います。

2015年10月15日木曜日


夫の肺の影

 このところ、誘っても夫が運動に行かなくなったのは、どうも体調が不良なのではないかと思います。口では言いませんが、息継ぎのたびに声を出したり、独り言を大きな声で言ったり。前にもこういう事はあったので、気にもとめていませんでしたが、今回も一種のストレスのせいだろうと思っていましたし、今も思っていて、無理に運動に誘わなくなりました。
 今思えば、蓄膿症の手術をして以来だと思いますし、このところ食事の量が多くなって、血糖値が上がり、糖尿の薬が多くなった事も関係しているのかとも思います。
 やっぱり痩せなきゃダメです。食事療法です。運動させようとしても行かないのですから。
 そんな中、検診で『肺に影がある。要検査』と脅されました。
 『すわ、癌』と思ったのか、『手術はしない』と主張していました。
 いつも行っている病院で精密検査を受け、結局は『何事も無し』と太鼓判を押されたのですが、声を出すクセは治らないようです。
 歳とともに、これからはいろいろな事が起こって来るでしょうが、あまり大した事無いと思わずに、思いつく事は改善して行かなければならないような気がします。
 これまでの経験から、食事量はそんなに変えられないので、食事の質ををなんとか変えてみようと思います。夫のためだけでなく、私のためにも。つまり、私が痩せれば、夫も痩せるのです。私が痩せて血圧が下がれば、夫の血圧も下がるのです。
 何か総て太っている私の食事嗜好に原因があるようですが、確かに、よそのご夫婦を見ていても、痩せた奥さんのご主人は痩せています。夫婦で体型が違うというのは珍しいようです。
 夫は若い頃は痩せていたのです。そこへ不幸にも肥満型の嗜好を持った私が来て、一気に二人して太ったのです。やっぱり原因は私でしたか。
頑張りましょう。

2015年10月8日木曜日


ヘルストロン

 先日、約半年ぶりにプールウオーキングに行ったら、館内にある電気治療器ヘルストロンのインストラクターという方が来ていて、質問を受け付けていました。
 もちろん、『何に効くんですか』と聞いてしまいました。だって、ただ電気椅子みたいなものに、座って、足から通電するだけ、その間、何か外のものに触るとバチッと来るので大人しくしていなければなりません。
 『血行が良くなって、体がポカポカして来ると言われています』という事でした。以前、利用者の人に『がんも治ると言われている』と聞いた事がありましたので、その理由がこれかと思いました。
 隣に、いかにも体調の悪そうな痩せた方が座っていて、その方は頻繁にかかっていて、足のかかとの割れが治ったと言っていました。その割れ、亡くなった父にもありまして、お医者に連れて行ったら、白鮮菌だと言われました。それを思い出したので、『水虫にも効きますか』と聞いたら、
『水虫は聞いた事ありませんが、白髪が黒くなったという話は聞いた事があります』という事でしたが、『じゃあ』、と思った訳です『白鮮菌に効くなら水虫にも効くはず、これは行くしか無い』と。
 先週は一週間の内四日ほど、同じ館内にあるマッサージ機とヘルストロンとにかかりに行きましたが、何となく顔がすべすべして来て、膝の痛みが軽減したような気がしました。これはうれしい効果でしたが、うれしくない効果もありまして、お腹がすいて、ちょっと減り始めていた体重が元に戻ってしまいました。確かに体に良さそうです。
 それで、食事に気をつけながら、比較的ひまな寒い間だけでもできるだけ行こうと思います。今の体調不良である、足腰の痛み、目の不具合、高血圧、物忘れ、体のこりなどを一掃してくれる事を期待して。

2015年9月26日土曜日


目がまぶしいー目薬を

 先日、NHKの番組で、白内障につける薬があると言っていましたので、早速お医者さんに貰いに行きました。
 私のかかっている先生は遠慮深くって、こちらから請求しないと薬を出してくれないのです。でも、これっていい事だと思います。『効かない』とか不満を持つ事も無く、どんな薬があるか、患者は自分で研究しますから。
 歯医者さんもそうでした。『歯磨きをしっかりしろ』と言うばかりで、一向に治らないので、私はデントヘルスという市販薬を自分で買って来てつけ始めました。年に一、二度検診に行きますが、『進行していない』と褒められます。
 白内障につける薬は、『進行を遅らすだけ』とテレビでも言っていましたが、夏のせいか、目がまぶしいと感じる事が多くって、どうしても『藁をもつかむ思い』になってしまうのです。
 二ヶ月前に、ドライアイの目薬を貰ったばかりでしたが、検査をしてみると視力が上がっていると褒められました。それで今度も白内障の目薬を十本、こちらの希望通りに出してくれました。
 デモなのです、この白内障の薬は日に三回、ムコスタ点眼液は日に四回、ヒアルロン酸のドライアイの薬は日に六回、まじめにつけていると目の周りがべたべたしてくるので、水分の多い市販の目薬を時々つけると、大変な量と回数になってしまいます。『これもよくないかな』と勝手に解釈して、総てを同じ比率で減数して、白内障の薬は昼一回、ムコスタ点眼液は朝晩二回、ヒアルロン酸のドライアイの薬は日中に三、四回とする事に決めました。あれから二週間、あまり変わりは無いようですが、『きっと治る』と信じてまじめにつけています。
 どの薬も大量に貰って来ているので、しばらく無くなりませんが、一つが無くなったら、また検診かたがた貰いに行こうと思っています。楽しみです。

2015年9月17日木曜日


支出見直し

 夫に後期高齢者の保険料請求が来て、ただただ驚くばかり。6月の誕生日前までの保険料は昨年の国民健康保険料より一万円ほど低かったのです。歳を取って年金だけだから収入も少かろうと低くしてくれたのかなと思って感謝していたんです。そしたら、なんですって、75歳から後期高齢者ですって。『四万四千円也』の請求書でした。
 人生って、穏やかに幸せでいられる時間って短いんですよね。『後は死ぬまでの時間ですよ』と肩を叩かれたようなものです。それはそうかも知れませんけど。
 でもね、それは仕方ないとしても、生活人としては、費用がどんどん嵩んで行ったら、今まで通りの支出では破綻してしまいます。見直しは何度もして支出を削ってきましたが、またここで見直しです。
 ちょうどそこに、自動車保険料の請求書が来たんです。これも昨年より千円ほど値上がりしていました。『事故も起こしていないのに』とついつい思ってしまいますよね。今までも安い保険料でしたが、知り合いの保険代理店さんにおまかせで、毎年そこで更新していました。こちらの希望を聞いて、昔夫が事故を起こした時も、電話一本,夫が免許証を放棄した時も、黙って保険の名義を私に換えてくれました。会社名義の車でしたが、実態に合わせてほとんど家族使用のように調整してくれました。
 これからはこれらの細々した事を全部自分でしなければならないと思うと気が重くなりますが、でも支出を抑えられるならばと、『ダイレクト保険』なるものをネットで検索してみました。最初に見たところはその差が七千円くらいでした。『これなら変えなくてもいいかなと』思ったのですが、次々に見て行くと、一万円、一万五千円と差の大きいところも出てきました。
 確かに『お任せ』は旦那衆のように楽でいいのですが、そんな気配りは今はもうはやらないのかも知れません。ネットで何でもできる時代になって来ているのですから、自分で何でもしなければいけないのかも知れません。
 先ず手始めに、代理店に『次の更新はしません。長い間ありがとう』というはがきを出して、次に、10月の更新日までに会社名義の車を自分名義に変えて、更新の申し込みをしようと思います。最大一万五千円の節約のために。これでも、後期高齢者保険料>自動車保険節約分です。二年後には軽自動車にして、自動車税とガソリン代を節約します。

2015年9月11日金曜日


老後のおつきあい

 悲しい事ですが、老後のおつきあいって、どんどんしぼめて行く方がいいのかもしれません。
 年に三回ほどメール交信をしていたアメリカの友人から今回は返事が来ませんでした。ちょっと心配しています。前回、今から緊急のプロジェクトの申し込みをするのだと書いてありましたが、今考えれば、あれは入院か手術の事だったのでしょうか。などなど、考えてしまいます。次の回、もう一度メールを送ってみて、返信が無いようならあきらめようと思います。
 また、今年はお中元の数を半分にしました。送ってもいつもお返しをいただいてしまうので、かえってご迷惑のような気がしますし、お礼の電話をいただいても、お一人は耳が遠くなってしまって、通じない、もう一人の方は昼間、介護施設に行っているという事もありました。お互いに近況がわかるのはいいのですが、グッドなニュースばかりではないのです。
 同窓会のお知らせの返事にも書きましたが、歳を取ったら、もう「今だけ」でいいのです。昔を懐かしむのは「思い出だけ」でいいような気がします。
 そう言う訳で、お付き合いは広げずにしぼめて行って、今後は自分の体づくり、趣味、ネットショップ、庭いじりなどをして、時間を過ごして行こうと思います。
 体づくりは毎日体操4種、同じやるならとシルバー体操の指導員の講座に申し込みました。趣味は英国ミステリードラマと野球を見る事。冬はマラソンを見ます。自分ではやりませんが、『ラン&スマ』も時々見ています。ネットショップで小遣いを稼いで本の整理をして、庭いじりで手のかからない野菜を育てて、食卓に供給しています。これでも結構忙しい、庭いじりはもう少しまじめにやれば、体操の一種にもなります。幸い、今は周りに家族がいるので、寂しさは感じません。

2015年9月2日水曜日


足が痛い

 夏になって、左足水虫の私は、例年通り親指のわかれたサンダルになりました。去年、確か大枚二千円をはたいて買ったバレンチノの男物のかっこいいやつです。
 去年はそれで夏中伸し歩いていたのです。それでも何事も起こりませんでした。
 ところが今年は足腰の痛みに悩まされていますし、それをかばって歩いていると、今度は同じ方の足の親指の付け根が痛くなり始めました。
 すわ『骨粗鬆症か』と思いましたが、昔経験した骨粗鬆症の痛さとは違います。その親指の付け根を庇うように歩くと、足の外側で歩く事になり、それが膝の内側と腰にまた影響を与える事になり、まさに悪循環です。
 今年になって、そのサンダルが、どうにも履きづらいと感じていたのは事実です。いま考えてみると、確かに今年になってウオーキングの量は格段に増えたのです。それで、体重が五キロ増えても腹回りが一センチ減ったように、足が絞まって細くなって、サンダルが緩くなった可能性はあります。二年目で古くなったサンダルが伸びて緩んだという可能性もあります。
 とにかく、このサンダルは長距離ウオーキングにはもう適さなくなってしまいました。新しいのを買おうかと靴売り場をうろうろしていましたら、クッション性というのを重んじた靴があるのを知りました。はいてみるととても気持ちがいいのです。サンダルとは大違い、サンダルは固かったのです。
 そこでまた、はたと思いつきました。去年の十月に、居間の床板を固いブナの無垢板で張り替えた事です。固い床の上を歩き回ると、足腰が痛くなるという経験を、昔、弟が実家の台所を直した時にした事を思い出したのです。丈夫な床も一長一短だと思ったものでした。
 そして何よりもいけないのは、増えてしまった体重なのだと解ってはいるのです。
 これだけ原因が解れば対策も建て易い。先ず体重を減らす。長く歩く時はクッション性のある靴を履く、ちなみに、今日はスニーカーにしました。そして、寒くなったら、床にはクッション性のあるカーペットを買って敷こうと思います。
 ちょっとまた思いつきましたが、靴のクッション性って、はいていると年々固くなってくるのではないでしょうか。サンダルもしかり。だから緩くなったのかもしれません。スニーカーも然りのような気がします。靴って、長くは履けないのかもしれません。毎日履く普段履きは二年が限度のような気がします。いいのが見つかるとついつい買ってしまいますが、必要なものを必要な時に買うのがいいのかもしれません。

2015年8月27日木曜日


英国ミステリー噂話、刑事フォイルのマイケル・キッチン

 フォイルもそうですが、マイケル・キッチンという役者さんもとても頭のいい人のようです。
 1948年10月31日生まれというと、私より二日遅いだけ、ほとんど同じ頃に生まれたのです。生まれはレセスターシャーのレセスター、イースト・ミッドランドと書いてありましたが、地図で見るとイギリスのど真ん中で、周りに湖が点在していました。
 職業は俳優の他にテレビジョン・プロデューサーと書いてありました。2002年54歳の時に始まったフォイル役で有名になったようですが、このドラマのプロデューサーをしたと聞いた事があります。アンソニー・ホロヴィッツの所に企画と書いてありますが、企画とプロデューサーってどこが違うんでしょう。解りませんね。
 役者は早い時期から始めたようです。つまり、そういう方面に才能があったらしいのです。子供の時から、教会の聖歌隊のヘッド・コリスターで、レギュラー・ソリストだったと書いてありました。
 市の男子校に通っている頃からシェイクスピア劇のシンベリンなどに出ていたようです。またロイヤル・アカデミー・ドラマチック・アートに入学前から、ウエスト・ミッドランドと書いてありましたがコベントリー市にある劇場で働いていたようです。そうしてロイヤル・アカデミー・ドラマチック・アートに入学してから、1969年、21歳の時ですか、たぐいまれなる才能に対する賞を受けたようです。
 卒業後はエイジェントによって才能を発見され、007などの映画やシェイクスピア劇など、もちろんテレビにも数多く出演していたようです。私も見た事がありますが、モースとかフロストにも出ていたようです。その他、ウキペディアにはたくさんの作品が書かれていました。
 ところが個人的な事はほとんど表に出さず、結婚は80年代後半、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの衣装係をしていたロウィーナ・ミラーと、二人の息子がいるとしかわかっていないそうです。まさにフォイルのような人格のようです。
 私としてはこれだけの才能がどこから来たのか知りたかったですけどね。つまり、ご両親は何をしていた人なのか。フォイルのお父さんも警官だったようですから、キッチンさんのご両親も演劇関係なのかもしれないと思われますけど、それでないとこれだけのチャンスにはなかなか恵まれないような気がします。

2015年8月20日木曜日


英国ミステリー噂話、フォイルの戦争、刑事フォイル

 五シリーズで終わるはずの『刑事フォイル』の続きが放送され始めました。辞表を叩き付けてから一年後の話です。
 最初は、あまりにも地味なタイトルと、宣伝の映像に、『戦争ものなんて嫌だな』と敬遠していたんです。意外とそう言う人が多かったんじゃないでしょうか。どうして原題通り『フォイルの戦争』にしなかったんでしょう。
 それがあるとき、読者批評で『フォイルの人間性に感動した』と書いてあったのを見て、一話くらい見ようかという気になって見て、やっぱり私も感動したのです。逃さず見るはめになってしまいました。
 歴史の中のストーリーもさることながら、『誰に対しても、無理強いしない、正しい評価をする、明晰な頭脳で事件を解決する』というフォイルのスタイルに、私も『見習わなければ』と思うくらい感動してしまったのです。
 フォイルの妻は二十代の一人息子とフォイルを残して亡くなっています。フォイルの動揺は大きいものだったらしいと私達にわかるような仕立てになっていますが、それを黙って受け止めて一人暮らしをしています。
 大げさにしない事で、人に何かを押し付けない事が友人関係も仕事関係もスムーズに行かせている理由なのかも知れません。人材の少ない時代によい部下とよいチームを組む事ができています。趣味は釣りで、孤独に楽しめます。どこかに英国紳士と書いてありましたが、どの国にいても理想像です。
 大きなお世話かもしれませんが、この役作りは、ポアロでもないし、フロストでもないし、モースでもありません。フォイルなのです。英国ドラマの歴史に残りそうです。
 ストーリーも、ちょっと異常さの感じられる事のあったバーナビー(ミッドサマー・マーダー)やルイス(オックスフォード・ミステリー)よりも、歴史の現実の中で、みんな賢明に生きている、フィクションとノンフィクションが混じりあった仕立てで共感できます。これがアンソニー・ホロヴィッツの真骨頂なのでしょうか。

2015年8月14日金曜日


ブラなし

 歳を取ると、体も心もどんどん自然派に回帰して来るらしいですね。
 元々怠け者ではあったのですが、お腹の手術でちょうど胸の下あたりからおへそにかけての傷を持つ身となってからは特にです。手術の痕にあたるので、未だにブラジャーが着けられません。
 でも、昔から思っていましたが、ブラジャーって不自然ですよね。見栄えはいいかもしれませんが、決して気持ちのいい下着じゃありません。だから、公然とつけられないとなると、むしろほっとしています。
 でも、夏になると、「どうしたらいいものか」と、頭を悩ませるのも事実です。
 手術後すぐの夏と、一年目の夏は、内臓手術だったために痩せて、次女のお古のチューブ式のニットが着られて、その上に薄い綿シャツをはおっていました。でも二年を過ぎた今は、その時に比べると10キロも太って、去年のコーディネイトができなくなってしまいました。
 「さー大変」です。それで、昔着ていたTシャツを取り出して来て、その胸のところに布を貼付けました。いろいろな材質をやってみたのですが、薄手の柔かいものは形が浮いて来てしまってダメでした。かといって、二重にしても暑くってダメ。
 最後は天竺布というのか、木綿の固めの布に行き着きました。これは重いので、縦幅は細めにします。つまり、肝心なところが隠れればいいわけです。横幅も表地より小さめに切ります。そうすると、表地が少し浮きますので、表地にいわゆる「響かない」のです。両端は脇線に縫い付けるのですが、真ん中のところもいろいろ工夫して、上の方を留める事にしました。隠れた留める場所がある時はそこに留めますが、無い時は同じ色の糸でジグザグ縫いで目だたないように少しだけ留めます。
 これを何枚も作りました。最後はニットだけでなく布のシャツにまでつけました。
 先日、ショッピングモールを歩いていたら、同じような発想のニットシャツが並んでいましたが、胸部分がカップの形をしているのですよね。あれだと、胸の大きい、私のような人は収まりきれないで、動くとはみ出してしまうのです。だから、最初から形を与えないただの平布の方が正解のように思います。アイディアを商品にしたいような気もしますが、これって誰にでもできますよね。

2015年8月6日木曜日


定期健康診断

 手術以来という訳ではないが、前回は医療機関で受けたので、集団検診は久しぶりのような気がしました。でも、前回値も書いてあって、しかも、一時間くらいで済んでしまって、要領もよくわかっているので、何となく気が楽のような気がしました。
 まず身長体重。背丈が縮まないようにしっかりと背筋を伸ばしていたら、いつの間にか体重も量れていました。72・2キロ。家で量って行ったのと同じでした。前回値は67・4キロ。約5キロの増量。
 身長は1センチ弱伸びました。これって、量り方ですね。
 でも、手術の傷が癒え始めた一年後くらいから、毎日、三、四種類のストレッチとウオーキングをしているのですから、いろんな事に自信はあったのです。
 その一つ、いつも上腕で採れない血液が今回は採れました。看護師さんの腕もありますが、多分血管が少し太くなったのだと思います。痛くなくて助かりました。
 二つ目、腹囲が一センチ減りました。これも測り方があると思いますが、体重が五キロ増えたのにですから、明らかな改善です。
 バンザイと思って、看護師さんに、「でも、一センチなんですよね」と話したら、「きっと、血液検査で努力の結果が出て来るかもしれませんよ」と慰められました。一ヶ月後、結果が来るのが楽しみです。
 でもね、やっぱり体重が重くなって、重いまま運動をしていると、足腰が痛いのです。体重が改善してくれるともっとよかったのですが。これからの努力です。

2015年7月31日金曜日


髪型

 今年も梅雨が終わりに近づき、徐々に徐々に暑くなって来る頃、ちょっとでも暑くなると髪を切らなくっちゃと思うので、一回目はいつも五月になります。そして、二回目がこの時期なのです。
 髪型はいろいろトライしました。数年前は近所の運動抜群の女性のまねをしてちょっと長めの丸刈り、その後は男性のような刈り上げにもトライしました。髪は薄いのですが、それでも、短くて、軽くって、少しでも涼しくて、洗髪が簡単な方が、ありがたいのです。
 で、今年は、五月に、まず後ろだけを刈り上げました。前はいつでも切れますし、四角い顔には、耳の横に垂れている、ちょっと天然な髪が形を隠してくれて必要なのです。その後、風に吹かれると目にかかって運転のしづらい前髪を額に沿って短くしました。
 で、梅雨明けを控えて、汗が出てくる季節になり、再度の必要性を感じ始めていたのです。付け加えるならば、私の母は顔に汗をかく人で、おしゃれができないと嘆いていましたが、私も、老年になって、自分が頭に大汗をかく事を発見しました。六十五歳過ぎくらいでしょうか、最近です。とにかく、ちょっとでも運動したりすると、頭から髪の毛の一本一本を伝わって、汗が滴り落ちるのです。昔は体の方からが多かったような気がしますが。これ、老化現象の一種でしょうか。
 そう言う訳で、二回目の散髪をしました。もちろん、自分でバリカンを使って、後ろを刈り上げて行ったのです。娘達も夫もいますから、頼めばやってもらえるんのですが、この先、もし一人になったら自分でしなければならないのだからと、頑張ったのです。
 イメージは、この頃、横だけを短くバリカンで刈って、上を伸ばしているイケメンがテレビに登場しますが、あの、後ろバージョンです。で、その刈り上げの上のところは、ふんわりと隠すようにのせるのですが、毛先をそろえて切ってくれた下の娘に言わせると、刈り上げが短すぎて禿げているように見えるという事でした。
 この毛先はファッションだと思えば、そろえなくてもいいのです。気持ちの持ちようです。後ろは自分では見えませんし、髪はすぐに伸びてくるのです。どこに行く訳でもないので、自分が気持ちよかったら、それが一番だと思います。前髪は顔の形に合うように、かつ、本調子でない目の邪魔にならないように、今回も整えました。

2015年7月24日金曜日


タブレットPC

 古いデジカメが使いづらいと文句を言っていた私に、娘がタブレットPCをプレゼントしてくれました。写真も撮れる、その頃挑戦していた動画も簡単に作れる、よそにいてもメールやニュースが家のPCと同じように見られる、大変な便利グッズのはずでした。
 ところがです、冬の間は、写真を撮ったり、コンピューターに向かったりが億劫になって、寝床で本を読む時間が増えてきます。この際、『生活の世界歴史』を読み終えなければと励みました。暖かくなったらきっと写真やコンピューターに手が伸びると期待していたのですが、とんでもありません。野球が始まり、ごひいきチームは最下位、気が気ではありません。草が伸びて来て夏は忙しくなりました。
 という訳で、写真の撮り方を覚えて以来、タブレットは開く気もしませんでした。でも、せっかく買ってもらったタブレットだから。やらなければと、これも気が気ではありません。「趣味のテレビ」などで使い方を見てはいるのですが、なかなか同じようには行きません。
 まず、野球の経過、これはうまく行きました。
 次にメールを見る事にしました。これもできました。
 写真は子供達の写真をとる必要がなくなった今は、いまいち意欲がわきません。動画も一作で終わりでしたし。
 近くにPCが二つある状態では、タブレットの必要性はあまり感じられないのです。なので、それこそ、必要に応じてゆっくりと使えるようになろうと思います。

2015年7月17日金曜日


私のハムレット

 この度、メイプルショップに飾ってあった「Humlet 篠崎英米文学研究叢書5 大山俊一注釈 昭和44年5版」が売れました。
 出版されてすぐの学生時代に買ったのだと思いますが、見たところ、焼けはひどくても全く使用感がないのです。それで、買った時のいきさつを少し思い出しました。
 あのとき、授業で提示されたシェイクスピア本を買いに行ったのです。それを買ったあとで、近くにあったこのハムレットを買ってしまったのです。シェイクスピアを授業でするのだから、有名で大好きなハムレットくらい自分で読めると思ったのです。
 無知な事に、大学の英文科に入って初めて、子供のときに私が読んだのは、チャールズ・ラムの「シェークスピア物語」であると知りました。
 実際のハムレットは、1600年代の作品で、英語も、現代語とは違う辞書が必要な、いわゆる古典なのだと知りました。
 子供の時に見当違いに憧れて、英語を志し、英文科に入ったものの、目標を見失って落ちこぼれてしまった私は、このハムレットを結局読まなかったようです。
 そんなふうなので、最初、注文を見た時は学生さんが授業で使うんだろうなと思い、ちょっと上から目線の説明を書いてしまいました。連絡がつかなくって何回かやり取りをしたあとに、「昔、この本を持っていたのですが、紛失してしてしまって探していたのです。大山先生の注釈にはオックスフォードディクショナリーの引用が豊富で、図書館で何度も借りて使っていました。」と書かれていて、専門家なのだと知りました。
 こんな私に買われてしまった本が、こんなに探していた人のところに行けるなんて、まさに古本屋冥利です。どうぞよろしくお願いいたします。
 でも、一言付け加えさせてもらうと、小さい頃に読んだハムレットの感動が私の人生をここまで導いて来たんだなあという感慨はあります。英文科に入り、英語の塾をし、英語の仕事もし、今は英国ミステリーを楽しんでいる、まさにハムレットに導かれて来た道でした。

2015年7月9日木曜日


今年の目標は認知症予防と健康改革

 四年目に入って、さて、今年のプロジェクトは何にしようと考えました。今までは割と攻撃的な目標を定めていたのです。本屋開店でいっぱい売るとか、支店開店で商品の開発とか、動画に参戦とか、商品になるグリーティングカードの作成とか、ブログ本を作る計画とか、痩せるとか。ほとんど失敗でした。
 幸い、本屋さんはエブリカラーメイプルショップのどちらも細々ながら注文があります。ありがたいですね。で、この勢いを伸ばしたいとは思うのですが、空振りになる事が多いので、いいアイディアが出て来た時とか、暇になった時とかにトライする程度に今年はしようと思います。例えば、ブログの英国ミステリー噂話などのように。
 で、今年はちょっとゆっくりして、守りに入って、認知症予防とどこかがしょっちゅう痛くなる体力の回復に力を注ごうと思います。
 この前のNHKの認知症番組で、最初に押さえ込むのは生活習慣病である事を知って、高血圧の私は塩分控えめを実行し始めています。努力の成果か、夏に入って、血圧は160位から140位に下がってくれていますが、梅雨寒になると、150位までまた上がります。
 痩せればもっと下がるとわかっていても、痩せないのです。これが一つの目標ですね。幸いな事にこのところ、痩せないけれども、少し暴食しても体重が上がらなくなりました。これって、腰が痛くなるほど動かしている、股関節のせいではないかと思います。つまり、股関節の稼働域が広がって、消費カロリーが増えているのです。なんでわかるかというと、ヨガをしている時に、以前よりも奥まで手が届くのです。あぐらをかいてもひっくり返らなくなりました。日々の努力の成果です。これにダイエットが加わるともっと成果が出るのですが、今までのところはダメです。けれども、今度小麦が値上げされるというので、小麦製品は一日一個程度に削減して行こうかなと思っています。つまり、菓子一個。または朝パンか、昼麺類か。小麦はほとんどが輸入でしょ。
 実は納豆は好きではないので、健康のためと食べていたのを止めようと思います。大豆はほとんどが輸入なのだそうですね。卵掛けご飯でいいです。醤油は大豆製品ですし。みそ汁もそんなに好きではないのでやめです。健康のためと言って無理に食べるのは止めるのです。
 私の健康改革は目からです。お医者さんに行って来たら、またドライアイと白内障だと言われました。私の場合、ドライアイだと鼻までノドまで乾いたり、痛くなったりするのです。目の先生に訴えてもダメですから、自分で調整するしかありません。鼻は抗生物質を薄く塗り、殺菌し、のどは風邪をひかないようにする。
 実はこの間、溶連菌感染症のような、発熱、頭痛、手足の腫れが出て、いつも通り寝て直しましたが、それ以来、体調に自信がなくなってしまったのです。それでも、夫が糖尿、脳梗塞、などで、免許証を返上していても病院に行かなければならず、また娘達も、最近それぞれの不調に悩まされているわが家では、胆嚢を取ってしまったとはいえ、私が一番元気でなければ、生活が回って行かないところもあり、梅雨で不調だなどと言っていられないのです。ここは一つ、運動と食事と休養をもっとバランスよくして、病気の寄り付かない体にしたいと思う事しきりなのです。

2015年7月6日月曜日


本屋さんの売り上げは

 七月に入って、私の百歳計画も三年が過ぎ、四年目に入りました。
 わが家の古本は、一度古本屋さんに来てもらって、いらない本を車一台半、30万円強で買ってもらった残りなので、未使用本が多いのです。で、それを他のネット古本ショップに出ている同じタイトルの本と比べると、どうしても、ランク付けが上になって、高くなってしまうのです。
 だって、回り回って古本屋さんに来たという本と、わが家の本は差別をつけたい気がするのです。ちょっと、浅はかですね。
 でも、実際にお買い上げいただけるのは、古くて他にはない本、月日が過ぎて、他のが売れてしまって、いつの間にか一番安い値段になってしまった本です。この間は、古本としては高値でも、未使用で、買ったときの値段に設定した本などもお買い上げいただきましたが、これなどは例外です。
 こうして三年、この間の売り上げが、やっと、古本屋さんに買っていただいたトラック一台半分30万円強になりました。高い物も安い物も取り混ぜて百冊位売れたと思います。百冊分のスペースが空いたはずなのですが、わが家の書棚は相変わらず一杯です。でも、これって、古本屋さんにごっそり持って行かれた喪失感に比べて、ずっと幸せです。まだいっぱいあるのですから。私達が読める余地もまだいっぱいあるのです。古本ですから、読みたかったら読んでもいいのです。でも、もちろんこの歳になったら、夫はテレビニュースオンリーで、全く読みませんし、私も野球とテレビドラマに大忙しです。何せ、二人とも目がダメなのです。
 この三年で一つ変わった事に気がつきました。それはショップへのアクセス方法として、最初からPCと携帯の二つが用意されていたのです。昔はPCへのアクセス数の方が俄然多かったのですが、今はほとんど変わらなくなってしまいました。それだけ、携帯とかスマートフォンとかが発達したのでしょう。私達はのんびり過ごしたいから今は持ちませんが、若い頃は忙しいのであると便利だとは思っていました。

2015年6月18日木曜日


英国ミステリー噂話、本当のウィッチャー警部は

 「ウィッチャーの事件簿」のあの暗い画面は何なんだろうと思ってしまいますよね。でも、産業革命時代のあの頃、夜の明かりはあのくらいだったのかもしれません。それに洗濯も大変だから、特に市井の人は白っぽい服なんて着なかったでしょう。意外と時代考証がしっかりされているのかもしれません。
 物語ではウィッチャー警部は職を解かれたあと、私立探偵として活躍するのですが、本当にそんな事だったのでしょうか。と興味を持って調べてみました。
 ジョナサン(ジャック)・ウィッチャー、1814年10月1日から1881年6月20日というと、亡くなったのは67歳ですね。まさにビクトリア朝(1839年から1901年)のど真ん中で働いたという事でしょうか。
 1842年に創設されたスコットランドヤードの刑事部門の8人のうちの一人だったようです。1860年にコンスタンス・ケントの殺人事件(ドラマではロードヒルハウス殺人事件)を担当し、それが、ケイト・サマースケールの2008年の本、『ミスター・ウィッチーの疑惑』とその映画のモデルになったようです。
 しかし、それだけではなく、チャールズ・ディッケンズの「バケット警部」、コリン・デクスターの「モース警部」や、コリンズの「刑事コフ」、R・D・ウイングフィールドの「フロスト警部」などの多くの刑事達を書く上に示唆を与えたようです。
 両親はレベッカとリチャードという庭師だったようです。労働者として働いたあと、彼は身体的、書類的考査を経て、1837年、巡査として都市警察に雇われます。彼は5フィート8インチ、茶色の髪、白い肌、青い目だったそうです。エリザベス・ハーディングと結婚し、1838年には息子ジョナサンが生まれますが、早く亡くなります。
 その後、1941年まで、警察の寮に住んでいたと書いてありますが、やはり、ドラマにあったように奥さんも亡くなっていたのでしょうか。その後、1942年にいわゆる8人の刑事の一人に選ばれる訳です。
 どういう人物かというと、同僚は「刑事の中のプリンス」と呼び、実際に彼に会ったディッケンズは「彼の同僚より、背が小さく、体格がいい、天然痘と思われる傷があり、まるで計算をしているような打ち解けない、思索をしてるような雰囲気をたたえていた」と言い、1850年に仕事をしている彼を見た事のある、ディッケンズの副編集者のウイリアム・ヘンリー・ウイルズは「神秘的な男」と表現した。
 その後、数々の事件を解決し、1856年、警部に出世します。その後、国際的な事件も扱ったようです。1860年その全盛期に有名な「ロードヒルハウス殺人事件」を担当させられます。これはドラマに出てくるので省きます。
 後年という記述では、1866年というと52歳頃でしょうか、、最初の妻の死のあと、シャーロット・パイパアー(1812から1883)という、二歳年上の女性と再婚したとあります。(ドラマ「ウィッチャーの事件簿」では私立探偵となった三作目以降に出て来る大家さんです。)
 1871年(57歳頃)の国勢調査では、副警視総監としてロンドン在住で載っているようです。1881年の国勢調査ではロンドンのワンズワース在住で退職警察官として載っているようです。この歳亡くなっているのですよね、67歳で。
 彼の遺言として、1,569 2s 6dが残されたそうですが、ちょっとどのくらいかわかりません。多分、五十代で再婚し、子供もいなかっただろう夫人が寄付したのでしょう。遺言執行人には警視総監のアドルファス・ウイリアムソンの名前もあったそうです。
 という事で、伝説の刑事には相違ありませんが、現実には組織の中で苦労しなからも位人臣を極めた人と言えるようです。

2015年6月12日金曜日


英国ミステリー噂話、本当の19世紀後半
     ラークライズからキャンドルフォードへ

 前にも、英国ミステリーには金持ちが多くって閉口するという話をし、本当のビクトリア朝(1839年から1901年)とはどんな時代かと模索しました。その時、「ラークライズからキャンドルフォードへ」というドラマにはそんな時代の庶民の生活が現されていると、話しましたが、子供時代からの自身の経験を元にして書いたと言われる、原作者のフローラ・トンプソンのウキペディアを見てみました。
 1876年12月5日生まれ、1947年5月21日、70歳で死亡。私の生まれるおよそ一年半前です。
 彼女の両親は英国の真ん中、オックスフォードシャーの北のはずれ、ジュニパーヒルというところで、石工と子守りをしていました。結婚して12人の子供を産みましたが、その半数は子供の時に亡くなりました。彼女はその長女でした。田舎で学校を出たあと、14歳で近くの町の郵便局に職を得たようです。その当時は、田舎出の女の子はメイドになるのが普通と「生活の世界歴史」にも書いてありましたが、きっと頭が良かったのでしょう。またはドラマにもありましたように、親戚だったのかもしれません。
 彼女は南イングランドのあちこちの郵便局で働いたようです。1903年にジョン・ウイリアム・トンプソン氏と結婚して二男一女をもうけ、下の子は1941年戦死、大好きだった弟も1916年に戦死しているようです。1914年からの第一次世界大戦と1939年の第二次世界大戦を両方をまともに経験してしまった世代ですね。その点、刑事フォイルと同じ世代でしょうか。
 そういう環境でしたから、彼女はすべて自力で勉強したようです。1911年には、ジェーン・オースチンの事を書いたエッセイが賞を受け、その後熱心に書く事に取り組んだようです。自然愛好家でもあったようです。
 そして、この「ラークライズからキャンドルフォードへ三部作」が代表作のようで、「ラークライズ」を、1938年、彼女がオックスフォード・ユニバーシティ・プレスに送って、すぐに出版されたようです。その後、「キャンドルフォードへ」、「キャンドルフォード グリーン」が出され、1945年に三部作として出版されたようです。
 70歳の時にハートアタックで亡くなったという事ですが、息子の死がこたえたようだと書いてありました。
 一度読んでみたい本です。DVDは出ているらしいです。

2015年6月5日金曜日


認知症予防

 今、認知症になる人が激増しているんだそうです。NHKで特集が組まれました。ちょっと夜遅くって、年寄りには辛い時間でしたけれども。
 私もこのところ、ちょっと、動きに違和感があるんです。何かまっすぐ歩けないような。ふらふらするような。。後ろを振り向けないような。運動はちゃんとしているんですよ。
 目がどんどんひどくなって、目と体の連携がうまくいかないとなると運転が不安になります。
 物忘れは前からです。今年、数戸の地区の班長さんになって、お金集めをしたんですが、おつりの計算に不安を感じました。元々計算は苦手だったんです。それに加えて、今は皆コンピューターで計算してしまうので、といい訳も考えましたが、頭の働きがスローダウンしている感じです。
 ひどい認知症になる前には、予備軍期間があるのだそうです。その間に対策をこうじて実行すれば、現状維持だけでなく、回復も見込めると希望を持たせてくれる番組の構成でした。
 予備軍と診断された山本さんの奮戦が紹介されました。編集ジャーナリストの山本さん、ダブルブッキングをしてしまったのだそうです。それで気づいてお医者さんに行って、予備軍の診断を受け、仕事を続けたかったので、まず、周りに隠す事なく知らせて、ご協力をあおいだようです。私の場合はまだ、ここまで行っていないので、知らせなくっても大丈夫。診断もいらないでしょう。でも、確実に予備軍初期です。
 次に、運動、私は頑張ってやっています。
 次に、趣味。山本さんは治療目的のサークルに入って、いろいろな事に挑戦しているようです。私は今は趣味に生きていますから、野球、コンピューター、英国ミステリー,庭仕事等々。
 では、私はどうして、こうなってしまったのでしょうか。
 もう一人、認知症予備軍と診断された八十七歳の女性が、七年間発症を抑えられたという話が出てきました。彼女は糖尿病なのだそうです。それで、ご飯を少なめにして、野菜を先に食べるなどの、食事の工夫、週に何回かの楽しい一時間半の運動教室、そうして、そんなに痩せてもいないのですが、お歳にしては、随分若々しく見えました。私の母はその歳には、もう認知症を発症して、生き辛さに悩んでいたような気がします。
 つまり、認知症は、老化で出てくるのですが、それらを加速するものが糖尿病,高血圧などの、生活習慣病で、生活習慣をチェンジする事によって、発症を抑えられるのだそうです。
 で、私の原因は何だったのでしょう。わかりました。高血圧です。今年の冬、私の血圧はずっと、160あたりを維持していたのです。下の血圧が80くらいだったので、経験者達には、心配ないよと言われていたのですが、やっぱり、出て来たのです。目のかすみ、体の違和感。時には頭痛。ブルーベリーやビタミンのサプリを飲んで、ドライアイの目薬をつけて、現状は維持していても全く快方には向かいませんでした。痩せれば、治るだろうと思って、頑張っていましたが、一、二キロの減量ではほとんど変化はありませんでした。もちろん、痩せるのもむずかしかったのですが。
 どうチェンジしましょうか。まず、塩分です。冬の初め頃から始めたぬか漬けを見直しました。野菜を二、三個入れて、漬かったものをみんなお皿に盛ってたくさん食べていたのです。中にはしょっぱく漬いてしまったものもありました。いい事もありましたよ。この冬は風邪をひきませんでした。でも止めました。
 あとは、料理は薄味にします。
 そう言えば、夫も冬に血圧が高くなり、薬を増やしました。大反省です。ここから、改善して行きましょう。

2015年5月28日木曜日


英国ミステリー噂話、なぜ、みんな、金持ちなの

 以前にも書きましたけど、ポアロもシャーロックホームズも、出てくる人は金持ちが多くって、『なんで探偵業でそんなにお金が入るんだろう』と不思議に思いますよね。あのあと、考え続けて、結局イギリスは国として大もうけをしたから、景気が良かったせいだろうと結論づけました。
 でもそんなはずないんです。『生活の世界歴史』第十巻を読むと、貧しい人々はいっぱいいたんです。金持ちに仕えるメイドさんや執事たちもたくさんいまして、メイドは貧しい娘達が手っ取り早く得る職業だと書いてありました。
 そう言えば、昔、NHKで、BBC『Lark Rise to Candleford』という、貴族に支配されているラークライズという村で、貧しい農民の娘として育った女の子が、口減らしの意味もあってキャンドルフォードという町の郵便局に働きに行くという設定の物語を放送していましたが、あれは意外と現実に近い物語なのかもしれないと思います。イギリスは『ダウントン・アビー』みたいな世界ばかりではないのです。
 コロンボは制作側が意図的に金持ち世界を舞台にして、彼らの鼻を明かす事で、視聴者の胸をすっきりさせるという手法をとったと聞いていますが、同じ製作陣で作られたという『ジェシカおばさん』もそんな感じです。英国ミステリーにもそんな手法があったのでしょうか。
 でも、それも不自然だから、視聴者側はかえって、独り身のフロスト警部やブラウン神父やバーナビー警部やオックスフォードミステリー、ウイッチャーの事件簿など、現実に近いような物語の方に引き寄せられて行くのではないかと、視聴者の一人として私は感じるんですが、いかがでしょうか。

2015年5月21日木曜日


英国ミステリー噂話、フロスト警部の作者、R・D・ウイングフィールド

 私はテレビ映画化されたものしか見ませんが、それぞれの作家が、それぞれの個性的な主人公を描き出しています。中でも、デビッド・ジェイソンの名演技のせいもありますが、フロスト警部は個性的です。
 日本語の題名はフロスト警部なので、最初は『ああ、警部の名前か』と思いましたが、原題を見てみると、それだけではないと気がつきます。『フロスト』って、英語で『霜』の事なんです。そして原題は『タッチ・オブ・フロスト』。訳しづらいですよね。最初、『霜の手触り』と訳しましたが、フロスト警部に後ろからポンと肩を叩かれたような、ヒヤッとするような、そんな感覚的な題名のような気がします。だから、『この作家は言語的な感覚のある人だなあ』と思ったのです。
 Rodney David Wingfieldというのがフルネームのようです。
 1928年6月6日、ロンドンのホックニー生まれ、というと、私より20歳上。2007年7月31日、79歳で亡くなったようです。
 学校はクーパーズ・カンパニースクールというところらしいですが、スポーツと芸術に秀でた1536年創設の古い学校のようです。第二次大戦中は目が悪かったために兵役免除になっていて、南西部サマーセットのフロームというところに疎開していたようです。その後、自宅近くで、様々な事務の仕事を経験して、ペトロフィナという石油会社に職を見つけて、そこでラジオの脚本を書いたようです。1968年、一作がBBCに認められ、他に二作品も売れたので、ここで会社の仕事を辞めたようです。40歳くらいでしょうか。
 彼のラジオ脚本は、出来が良いと評判だったようです。張りのある、時に辛辣な会話、良く練られたキャラクターと、興味を引く動き、それで、聞く人を引っ掛けて、迷わせて、特有のトリック、曲折、驚きへと導くのです。まさにフロスト警部の世界です。
 1972年、マクミラン書店が彼に本を書くように勧めてくれ、彼はFrost at Christmas を書いたのですが、これはダメを出されて、後にカナダの出版社から出されました(1984)。最初、彼は主人公が、最後に死ぬという構成にしていたのですが、勧められて、続く感じにして、その後、二作品を書きました。A Touch of Frost (1987)、Night Frost (1992)。
 1977年にはラジオドラマの『Three Days of Frost』が、友人のレスリー・サンドによって演じられました。1989年になって、やっと本がイギリスで出版され、1992年にデビット・ジェイソン主演でテレビドラマ化されます。しかし、ウイングフィールドは映像化にあまり熱心でなく、デビッド・ジェイソンに文句があった訳ではなかったが、『彼は、私のフロストではない』と言ったそうです。
 Hard Frost (1995)、Winter Frost (1999)が出版されましたが、ウイングフィールドは本を書く事を楽しめず、ラジオ脚本を書く事を好みました。彼は20年間で40本のラジオミステリーやコメディの脚本を書きましたが、ラジオの衰退やフロスト本の成功で、1988年には辞めてしまいました。個人的にはあまり表に出る事を好まず、写真さえ撮らせなかったそうです。
 2002年には前立腺がんを宣告され、同時期に、最後となる、A Killing Frostを書き始めます。出版された(2008)年には、もう既に彼は亡くなり(2007)、2004年には、1952年に結婚して、フィリップという息子をもうけた妻フィリス・パッテンも亡くなり、そしてフロストも、と、まさに、彼は身の回りをすっきりさせた訳です。ジェイソンの演じたフロスト警部と違って、神経質なきっちりした人だったのかも知れません。
 全作品は今、Eーブック・フォーマットで読めるそうです。
 2011年、家族の了承を得て、ジェイムズ・ヘンリーのペンネームで出版された初期の三冊、First Frost, Fatal Frost、Morning Frost,が出版されたようです。
 で、なぜ私が作品名を英語にしたかというと、日本名にすると作者の機智が伝わらないのです。フロストというのは警部の名前ですが、英語の『霜』と掛詞になっているのでしょう。そうすると、
First Frost, は『初めての霜』と訳せます。
Fatal Frost、は『死を招いた霜』
Morning Frost, は『朝の霜』
Frost at Christmas、は『クリスマスの霜』
A Touch of Frost、は、むずかしいけど『霜の感触』でしょうか?。やはり、『霜の手触り』?
Night Frost、は『夜の霜』
Hard Frost、は『固い霜』
Winter Frost、は文字通り、『冬の霜』
A Killing Frost、は、『殺人霜』でしょうか。それとも『フロストを殺す』でしょうか

2015年5月15日金曜日


英国ミステリー噂話、噂のアンソニー・ホロヴィッツ

 英国ミステリーを見ていると、この人の名を聞かない日は無いほどで,いやでも興味を持たされます。
 それもそのはず、ウキペディアに出ている主な作品表には、AXNミステリーで放送している、それも有名な三つのシリーズ名が出ているのです。もちろん、全部の作品を書いている訳ではないようですが、これだけ有名になるという事は、才能がファンに認められている訳ですよね。ちなみに、彼の肩書きは作家、脚本家、児童向けの作家ですが、これを見ると、デレクターとか、プロデューサーとかの肩書きも増えて来ているようです。
インジャスティス 〜法と正義の間で〜 (2011) 脚本/製作総指揮
刑事フォイル (シーズン5) (2007)     企画
刑事フォイル (シーズン4) (2006)     企画
アレックス・ライダー (2006)            原作/脚本
刑事フォイル (シーズン3) (2004)      企画
刑事フォイル (シーズン2) (2003)      企画
刑事フォイル (シーズン1) (2002)      企画
ギャザリング (2002)                 脚本
バーナビー警部 (1997〜2011)           脚本
名探偵エルキュール・ポアロ (1989〜)       脚本
プライベート・アイズ/100カラットの報酬 (1989)<未>脚本/原作
 イギリスの南東部、ミドルセックスのスタンモアという所の裕福なユダヤ人家庭に1955年4月に誕生したらしい。現在、60歳。私とそんなに変わらないのに、まるっきり違って、活躍していますね。
 子供時代は重圧も多く、あまり幸せではなかったようで、本ばかり読んでいたようです。特に、ホラーっぽいものが好きだったようです。
 11歳で、ハロー校の寄宿舎に入れられ、ここではいじめにもあっていたようです。13歳で、ラグビー校へ移るのですが、ここで書く事が好きという事に気がついたそうです。
 インタビューでは、8歳ころから、書いている時が一番幸せと感じたと言い、1977年には、ヨーク大学の英文学、美術史をlower second class degree(低い、二番目クラス)の成績で卒業とあります。ここまでは私と同じなのですが。
 お父さんはハロルド・ウイルソン首相の取り巻きの政治家や事業家達と交友があったようで、破産したとき、全財産をスイスの銀行に隠したようです。ホロヴィッツが22歳のとき、癌で亡くなるのですが、家族がその後何年探し続けても、その遺産は見つからなかったようです。まさにミステリー。
 1988年にはジル・グリーンと言う女性と香港で結婚して二人の息子をもうけ、セントラルロンドンに住み、刑事フォイルなどでは、夫婦一緒に仕事もしているようです。
 今は、ロンドンに住むという事は住居が高騰していて大変らしいですよ。
 またキッド・スケイプという、子供を守る運動もしているようです。
 その他の仕事経歴は英文のウキペディアにたくさん書かれています。

2015年5月7日木曜日


英国ミステリー噂話、ルイス警部と結婚した、ドクターホブソンClare Holman

 1964年、ロンドン生まれの51歳だそうです。夫はハワード・デービスというディレクターで、2005年にコーンウオールのストラクトンというところで結婚したようです。40歳頃でしょうか。ウエールズを含む南部って役者さんとゆかりがあるんですね。ケルト民族だからでしょうか。
 最初はテレビドラマの『レインボウ』というのに出演したようです。その後キャリアを積み重ねて、1996年の『誰がバージニアウルフを恐れるか』で、『1997年度ローレンス・オリビエ劇場賞、最優秀助演女優』にノミネートされたようです。
 その他にもいろんな役を演じているようですが、特筆すべきは、というか、私が知っているのは、モースとルイスのオックスフォード・ミステリーの他には、ミッドサマー・マーダーズに二回、違う役で出ているようです。私はそのうちの一つだけ、はっきりと覚えているのです。だめな男を支える喫茶店のしっかりした女主人役です。ぴったりの役だったと思います。もう一つは気がつきませんでしたが、これを探すのも楽しみのうちですね。『あ、あの人が出ている』とか、思うと、親しみがますます湧いてくるのです。
 音楽と演劇のギルドホール学校というところで先生もしているようです。

2015年4月30日木曜日


英国ミステリー噂話、ミス・レモンのPauline Moran

 なぜ英語にしたかというと、ポリーン・モランと言われてもなかなかこの字が出てこなくって、それに、ポアロ以外ではほとんど見かけない、それでいて、存在感のある美人なんですよね。どういう人だろうと思ってしまいました。
 例えば、『ヒッコリー・ロードの殺人』に出て来るミス・レモンの姉フローレンス役のサラ・バデルさんなんかは他の作品でも見かけた事はあるんですが、ミス・レモンは、これだけです。
 だから、英語のウキペディアでも説明は短いんです。
 1947年生まれという事は私より一つ上、67歳ですか。ランカッシャーのブラックプール生まれと書いてあります。英国の真ん中より上の海ぞいの町、いいところですね。
 彼女は国立若者劇場とか、王立アカデミーの演劇科とかで学んで、女優になったようです。1965年から1970年までは女性バンドでバスギターを担当していたようです。その後、1987年からプロの星占い師にもなったようです。興味のある事にみんな挑戦して行ったみたい。
 主に舞台女優さんだったようで、映画とかテレビとかへの露出が少なかったのでしょう。それでも、テレビシリーズのクレオパトラ、ウイメン・イン・ブラック、ザ・グッド・ソルジャーなどに出ているそうです。
 このウイメン・イン・ブラックには、オックスフォードミステリーでドクター・ホブソンを演じているクレア・ホールマンも出ていたようです。

2015年4月23日木曜日


英国ミステリー噂話、初代バーナビー警部のジョン・ネトルズ

 ちょっと遅くなりましたが、この人の噂を書かない訳にはいきません。私が英国ミステリーオタクになったのは、やっぱりこれを見たからです。全部が好きというのではありません。80話もあるうちには『ちょっと』と思うものも結構ありました。でも、やっぱり、美しく整えられたイギリスの田舎を見せつけられると、『まあ、いいか』と思ってしまうのです。
 ジョン・ネトルズは1943年10月11日、コーンウオール生まれ。生まれた時から波瀾万丈で、母は第二次世界大戦時にイギリスに働きに来ていたアイルランド人の看護婦で、どういう訳か、生まれてすぐに彼は大工のエリック・ネトルズと妻イージーに貰われて行きます。頭が良かったのでしょう、グラマースクールからサザンプトン大学で歴史と哲学を学び、そこで、演劇を志します。
 俳優のキャリアについてはウキペディアにたくさん書いてありますが、中でも一躍彼を有名にしたのは『バーゲラック』という1981年に始まったジャージー島を舞台にした犯罪ドラマのようです。1991年に終わるまで87話を数えたようです。
 その後、シェイクスピア劇にも出演し、いよいよ、1995年、『ミッドサマーマーダーズ』でバーナビー警部を演じる訳です。これで、世界的にも有名になりますが、2009年二月、あと2シーズンで交代が宣言され、2011年2月の引退劇までに81話を演じたようです。
 見た目は若いですけれども、バーナビー警部になった歳は52歳頃で、2011年に引退した時は68歳くらいでしたか、途中、何度も息切れをしながら走っているのを見ましたから、年を取ってからの刑事役は大変だなあと思いました。
 私生活についてはあまり書いてないのですが、最初の奥さんはジョイスという名前で、これ、バーナビーの奥さんと同じじゃないですかね。それと、キャスティング・ディレクターという項目に、確か、ジョイス・ネットルズという名前があったような気がしますが、結婚したのは1966年で、1970年に娘を儲け、その頃から俳優になったようですから彼女の影響だったのかもしれません。1979年には離婚していますから、ミッドサマーが始まった時は離婚してしばらく経っていたという事でしょう。でも、この人が前妻かもしれません。二度目の結婚は1995年、まさにバーナビーと同じスタートです。彼らは今ウエールズの片田舎に住んでいるようです。
 地図で見ると、生まれたところが南の端のコーンウオールで、その隣のデボンというところに現在住み、大学はそのまた隣のサザンプトン、最初の刑事物の舞台がその南のジャージー島、彼はその辺りに関する本も書いているようです。
 2014年からはまた新しい役にも挑戦して活躍しているようです。

2015年4月17日金曜日


英国ミステリー噂話、神出鬼没のナンシー・キャロル

 彼女は私達より若いので、あまり知られていないんじゃないかと思います。この頃、『ブラウン神父』を見ているので、ちょっと存在感のあるレディ・フィリシア・モンターギュ役の女優さんが気になっていて、さっさと流れて行ってしまうキャストの字幕を追ってやっと掴まえたのがこの名前でした。
 その後、『ウイッチャーの事件簿』の3話と4話を見たら、彼女が大家さん、シャーロット・パイパー役で出ていて、全く違うイメージの役でしたが、気がつきました。
 レディ・フィリシアは元はどんな出自かわからないのですが、多分中央で活躍する地位も身分もある金持ち老人の夫を掴まえて結婚し、浮気も自由自在にする頭のいい華やかな女性です。反対にミセス・パイパーは夫に先立たれ、兄から相続した家の部屋を貸しながら生計を立て、クリミア戦争で看護婦をしていた経験をボランティアに役立てているという設定で、いつも黒っぽい服を着て働いている、地味なそれでいてしっかりした女性の役です。次が待ち遠しいのですが。
 その他にもウキペディアによると、『バーナビー警部』にも、2005年と2010年に出ているようなのですが、バーナビー警部はほとんど見たと思うのですが、全く気がつきませんでした。
 まだ若いせいか、といっても、1974年生まれの40歳くらいですが、それとも、地味な舞台が多いせいか、私生活も波瀾万丈という事も無く、平穏のようで、あまり書いてありません。
 彼女はロンドンアカデミーの音楽演劇科を1998年に卒業しました。24歳ですから、どこか回り道もしたのでしょうか。
 夫はジョー・ストーンーファーリング、シェイクスピア俳優で、出会いもシェイクスピア関係だったようです。二人の子供がいる。劇的と言ったら、2003年、出会ってから9日で婚約したという事でしょうか。他はあまり書いてありませんでした。
 余談で恐縮ですが、『ブラウン神父』の作者、ギルバート・ケイス・チェスタトン(英: Gilbert Keith Chesterton、1874年5月29日 - 1936年6月14日)という方は大変有名な方のようで、日本語で書かれたウキペディアがあります。ミステリー以外でも、論客、批評家として一時代を築いた方のようで、読んでみたいですね。

2015年4月10日金曜日


英国ミステリー噂話、フロスト警部、デビット・ジェイソン

 本当の名前は サー・デイビット・ジョン・ホワイト。1940年2月2日、イギリス南東部のミドルセックスのエドモントン生まれ。
 コメディでも演劇でもたくさんの賞を得て、2006年の50人のスター達のトップに選ばれた事もある、まさに名優です。私もそう思います。
 父親アーサー・ホワイトはビリングズゲイト魚市場のポーターをしていて、ウエールズ生まれの母親オルエン・ジョーンズは清掃人であったようです。彼女はこの年、双子を生み、もう一人は出産の時に亡くなったようです。
 7歳上のお兄さんが俳優になっていたので、彼もそうしようと思ったけれども、父が反対して、彼はおよそ6年くらい電気技師の勉強をしてから役者の道に入ったようです。
 最初はコメディから入って、間の取り方がうまいので、子供番組、声優、などなど、徐々に芸域を広げて、俳優として大成して行ったらしいのですが、作品群は英文のウキペディアを見れば表になっています。
 私達が知っているのは、フロスト警部だけですが、他のもみたい気がします。
 日本名『フロスト警部』は1992年から2010年まで続いたそうですが、2006年には前述のトップにも選ばれたのですが、2008年にはこれまで16年続いたフロスト役を引退すると言ったそうです。それで、2008年に三作が放映された後、2010年に二部構成のファイナルができたようです。やっぱり歳を取って来ると、刑事役は、特に主役級だと大変でしょうね。でも、その後も多方面で活躍はしているようです。
 私生活では18年の長い間、結婚はしなかったウエールズ人女優のパートナーがいたようです。彼女が1995年に乳がんで亡くなるまで面倒を見て、死後、不治の病の子供達のための支援財団を作ったようです。
 2001年には、61歳で、41歳のガールフレンドとの間に女の子を授かり、二人は2005年に結婚したそうです。この悠長さは何でしょうね。まあ、なにか事情があったのかもしれませんが。
 その後もいろいろ活躍して、2013年には、ヘリコプターパイロットの免許取得、73歳くらいじゃないですか。同じ年、『デビッド・ジェイスン、わが人生』という自叙伝を出し、『今年のベストブック』に紹介されたようです。まさに、『百歳まで生きるなら、ここから出発』ですね。
 そう言えば、昔、コロンボがイギリスに行ったという設定の時、バリバリのスコットランドヤードの警部の役で出ていたのを見た事があったと思ったのですが、最近見たら、どうも違う俳優さんのようでした。

2015年4月3日金曜日


本当のイギリス

 『生活の世界歴史』、やっと十巻目にたどり着きました。『イギリス産業革命』です。シェイクスピアとエリザベス一世時代の事以外はイギリス史にほとんど基礎知識の無い私でも、十八、十九世紀の話なので、なんとか着いて行けます。どちらかというと、繁栄したビクトリア女王の時代の頃のようです。
 『英国ミステリー』で言うと、シャーロックホームズの時代でしょうか。植民地をたくさん抱えて、インドとかアフリカとかがストーリーの端々に出てくる頃だと思います。『ウイッチャーの事件簿』というのにはクリミア戦争の話題が出てきましたから、この頃の話だとわかります。
 アガサ・クリスティは二十世紀に入ってからです。G・K・チェスタトンが『ブラウン神父』を書いたのもほとんど20世紀に入ってからのようです。でも、少しはその頃の生活がわかるでしょうか。
 で、どんな事が書かれてあったかというと、朝早くから夕方遅くまで働き続ける労働者、労働環境の未整備、工業都市の生活環境の不備、江戸時代の長屋にも似た住居環境ですが、イギリスは日本よりずっと寒いようで、入浴などもままならなかったようです。あの時代のロンドンのテムズ川の汚濁は有名ですが、そこから飲み水を採っていたようです。中国並みのスモッグも有名です。
 私の住んでいる霞ヶ浦湖畔でも、今は処理されているとはいえ汚水は霞ヶ浦に流されますし、飲み水もそこから採取されます。何となく、どの国も通って来た道をイギリスも通って来たんだなあと思ってしまいました。
 大地主の貴族、新興貴族のジェントリー、お金を儲けた商工業者、牧師、ホームズに出て来る貧富の格差の激しい社会が垣間見えます。そうして、時々革命を起こしながら近代化、平等化して行くようです。
 イギリスの場合、時代的に、早かったため、植民地からの収益があって、労働者の生活も少しずつ良くなったと書いてありましたが、ますます膨らんで行く資本家に対し、都市に流入する貧しい労働者という、発達しすぎる資本主義を見ながら、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』はここで生まれるのです。
 無知な私はマルクスはロシア人だとばかり思っていましたが、ドイツ生まれでイギリスで貧困のうちに死んだようです。この二人のウキペヂアを読むと、またそこにこの時代が見えてきますが。晩年はエンゲルスが生活の援助もしたと書いてありました。
 いつの時代も、生活のために戦い、疲れて、やがて消えて行く人々はたくさんいるのです。私だけじゃないんです。いつの日か、人を虐げなくても誰もが幸せに生きて行ける時が来るのでしょうか。

2015年3月27日金曜日

英国ミステリー噂話、主任警部モース、ジョン・ソーの事

 ジョン・ソー は、1942年1月3日労働者階級の両親、ドロシーと長距離トラック運転手のジョンとの間に、マンチェスターのロングサイトで生まれました。島国イギリスの真ん中あたりです。亡くなったのは2002年2月21日。60歳だったようです。
 ソーには辛い幼児期がありました。母は彼が7才の時に彼らの元を去り、それから12年間彼女に会うことはできませんでした。彼の弟、レイモンド・スチュアートは1960年代半ばに、オーストラリアに移住してしまいました。
 ソーはロングサイトの近くのゴートンとバーネッジで育ち、ダーシー工業高等学校に通い、16才で王立アカデミーの演劇科(RADA)に入りました 。
 RADAを出たあと、彼は着実にキャリアーを積み重ねて、いろいろな役柄を演じますが、その中でも、1964年から1960年までの『レッドキャップ』、ミリタリーポリスドラマだそうです。1975から1978年までの『スウィーニー』、警部と部下の警察もの、1985年から1990年までの『ホームツーロースト』、離婚して独身を謳歌していた男が末息子を預けられてからのドタバタらしいです。それから1987から2000年までの有名な『主任警部モース』、1995年から2001年までの『カバナフQC』バリスターという法廷弁護士の役のようですが、これらで主役を演じて来たようです。
 中でもモースシリーズはそれこそ国民的人気になり、最後の3エピソードはイギリス人口の三分の一の人々に見られたという事で、1999年の最も人気のある俳優に選ばれ、他に二つの賞も獲得したようです。
 この他にもいろんな役をやり、アッテンボロウ作品にも出演したようです。亡くなった後の2006年、テレビ界の50人の偉大なスター達のナンバー3に選ばれたようです。サーの称号も受けました。
 個人的な生き方もちょっと泣かせるのです。最初の結婚は1964年、サリー・アレクサンダーという後に大学教授になった女性でした。四年後に離婚した後の1969年,シーラ・ハンコックという共演女優に一目惚れして告白したとき、彼女は不倫はしないと断ったそうです。彼女にはアレクサンダー・ロスという俳優の夫がいたのです。ロスが、1971年に癌で亡くなってから、1973年12月に二人は結婚して2002年にソーが60歳で同じ癌で亡くなるまで30年近く連れ添うのです。
 彼は三人の娘達を持ち、皆、女優になったようです。それらは彼の子と彼女の子、そして二人の間の子。ロスの子供もみんな名字はソーにしたようです。
 彼は生涯労働党の支持者だったようです。ちょっとモースと違うようです。けれどモースと同じようにヘビードリンカーで、タバコは12歳頃から吸っていたと言う事ですから、食道癌だったそうですが。
 9月に行われた葬儀には800人が参列し、チャールズ皇太子やブレア首相もいたそうです。残された妻のハンコックさんには『アローン アゲイン(また一人)』という本があるそうです。(ウキペディア参照)

2015年3月23日月曜日


新ブログ計画

 今期の年間プロジェクトをほとんどあきらめたところで、『ところで来期の年間プロジェクトはどうしようかな』と、欲張りにも考えはじめると、アイディアは次々に思いつくのです。そこは暇人ですから。
 でもいくつか考えて、半年やってだめなら捨てるというのも一つのやり方のような気がしてきました。だって、冬は寒くて、あまりコンピューターに触りたくないから、本を読む時間が取れる、反対に夏は外回りもたくさんやる事があるし、野球も始まる。まさに、読書の秋冬、耕作の春夏です。それにやりたいと思う事はたくさんあるのですから。
 そこで、今期、残り半年はダイエットだけにして、来期は前半後半に分けて計画を立てた方がいいと思いました。この移り気が今まで何もなし得なかった根底にあるのでしょうけど。
 一つ思いつきました。英国ミステリー役者総覧なんてどうでしょう。これも、趣味と実益に合っているのです。私は英国ミステリーが大好きなのですが、そこに出て来る役者さんにも興味が出てきて、ネットで調べたのです。でも日本語のページはあまりありません。仕方なく、英語のウキペディアなどを見ると、詳しく書いてあります。これを翻訳して皆さんにお知らせするブログを作ったらたらどうでしょう。
 これ、趣味として私も知りたいのです。実益としては忘れかけている英語の勉強にもなります。
 そう言えば、メイプルショップのあるFC2でもブログの提供を始めたと書いてありましたが。『調べなければ』と思う段階で面倒くさくなってきます。
 ちょっと見てみましたが、新しい登録をしたりして、結構大変です。何よりも、古いコンピューターは対応外のようです。英訳の労力はそれほどでなくても、新しいブログの登録管理、大変そうです。それだったら、このブログでやればいいのですよね。今度暇があったら、一つやってみましょう。自分の好きなものだけですけど。

2015年3月18日水曜日


半分すぎてしまったけれど

 今年度(7月から翌6月まで)のプロジェクト、欲張っていっぱい書きました。何を書いたか、確認のために前をめくってみるまで自信がありません。確か、体重ダウンは一番最初だったような気がします。
 その他に、リフォームの動画、あとは、商売もののグリーティングカードの作成があったような気がします。今見てみましたら、もう一つ、昨年作った動画の英語版というのがありました。
 こんなに欲張ってはだめですね。
 結局、毎日は趣味も家事も庭掃除も運動も含めて予定一杯で、そこへ来て、夫が免許証を放棄して運転をしなくなり、ますます忙しくなったのですから、気持ちばかりが焦って、何もできていません。
 友人からプロジェクトとして絶賛された床張りもしましたが、あれは当初のプロジェクトではありません。
 半年すぎたのですから、もう、すべてあきらめて一つにしぼって、心してやらねばなりません。一つにしぼるとしたら、ダイエットです。
 半年で、ここへ来て、やっと二キロ減。
 ここはもう少し、勢いをつけなければ間に合いません。寒くて体がこわばって、なかなか激しい運動もできませんので、食事にもう少し気をつけて、まさに、ダイエットをしなければならないのですが、筋トレやヨガをして、体も動かすとなると、お腹もすきます。で、なかなかといい訳ばかり。でも、
 二月から始めたインターバル・ウオーキング、メガスーパーの中で歩くと、変化があって楽しいし、汗もかきます。
 三月からは、ついに止めていたカロリー計算を始めました。
約束の六月が楽しみです。
 ところで、ネット本屋さんの繁忙期っていつ頃だと思いますか、今までの経験だと、休み明けです。この一月は五件のお買い上げがありました。ありがとうございました。

2015年3月12日木曜日


黒田選手が帰ってきました

 まさにフィーバーです。ほとんど病気ですね。
 皆さんのブログをはしごして見ているのですが、『黒田選手が何を言っても何をしても、泣くだろうな』と多くの人が書いています。私はそれに『賛成』のマークを入れるのです。
 入団会見もJスポーツで見ましたし(それも二回も)、もちろん広島空港に着いた様子も、那覇空港に着いた様子も、翌日の練習風景も、RCCのニュース動画で見ました。関東地方だとニュースでもそんなに出ないのですが、さすが広島のテレビは違うようです。
 『謙虚に自分の言葉でとつとつと話す』とどこかのニュースに書いてありましたが、本当に決して後ろ向きな事は言わず、『自分の決断だった』と言っていました。
 でもね、FAで自由契約になったとはいえ、若いマー君をとったヤンキースからは戦力外と同じ扱いだったじゃないかというブログもあって、私もそう思いました。私、松井君のときから、ヤンキースには不信感があるのです。自分の囲い込んだ選手しか大事にしない。あれだけ活躍したロビンソン・カノが他に行ったのもうなづけます。
 また、黒田選手の最終登板、勝ち投手だったのに、抑えのロバートソンが打たれて、その裏にジーターのヒットで逆転勝ちした。黒田選手の12勝目と200登板回が失われたのです。あれ、やらせにしてはできすぎていますが、そのオフ、抑えを失敗する事の多かったロバートソンにクオリファイイング・オファーを出し、ただ一人頑張った黒田選手には出さなかった。あれって、ロバートソンに対する成功報酬じゃなかったかと勘ぐっているのは私だけでしょうか。結局ロバートソンも他に行きましたが。
 とにかく、あんなところに行かなくってよかったと思います。
 『マー君には悪いけど』と書いた人がいました。彼は今年のヤンキースの補強についての意見でしたが、私も『正体見たり』の感があって、もうメジャー野球は見ません、『マー君には悪いけど』。八百長はサッカーだけとは限りません。
 今年は広島だけで十分忙しいです。

2015年3月5日木曜日


英国ミステリー噂話ーモースの死

 いつもの英国ミステリーの話です。フロスト警部は退官間近で、いつ終わったとも知れずに終わってしまいました。バーナビー警部は退官して、従兄弟のバーナビー警部に変わりました。主任警部モースは心臓病で亡くなって、今は相棒だったルイス警部が活躍しています。
 この違いは、フロスト警部の原題が『タッチ オブ フロスト』と言うので、『霜の手触り』とでも訳しましょうか。かつ、特異な性格なので、親戚も親しくなさそうでしたし、相棒は毎回のように変わっていましたから、跡継ぎはできなかったのかもしれません。
 それに比べて、バーナビー警部は、日本題は『バーナビー警部』ですが、原題は『ミッドサマー マーダーズ』というので、誰が警部でもいい訳です。
 同じく、『主任警部モース』も原題は『オックスフォード ミステリー』というので、その中のモースであり、ルイスですので、継続できる訳です。
 皆さんまだ引退しなくてもと思ってしまいますが、フロスト警部役のデビット・ジェイソンさんは七十代らしいですし、初代バーナビーのジョン・ネトルズも六十代、モース役のジョン・ソーは六十歳で既に亡くなっています。ルイス警部になってからも既に十シーズンくらいになっているでしょう。
 だからと言う訳ではないんですが、モース警部は物語の中でも死んでしまったのです。この死に方が、バランスがとれていて、ファンをいかにもと納得させるのです。独身でしたから、不節制で、いつもビールを飲んでいましたし、夜も遅くまで音楽を聴いたり、推理をしたり、クロスワードをしたり、毎回女の人を追っかけて、ストレスもたまったでしょう。だから退職間近で心臓病だったと言われたら納得します。
 幸い、愛する女性には巡り会ったのです。でも彼女は、母親の看病でオーストラリアに行ってしまいました。近くにあるのは手紙だけ。
 退職という寂しさを紛らわせるように、ルイスの事件にちょっかいを出し、怒られながらも一緒に解決する、そして死んでしまうのです。
 途中、弁護士に遺産の相談をする場面がありましたが、遺産は三等分、若き音楽家への奨学金、オーストラリアにいる女性に、そして長年の相棒、ルイスに。これが妙にほっとするのです。最後はルイスが付き添うのですから。
 こういう、見る人をほっとさせるようなバランス感覚が作者には必要なのでしょうね。今もモース人気はすごくって、メイキングの放送の中では、今は亡きジョン・ソーが「モースは悲哀を込めて演じた」と言っていたり、ルイス役のケビン・ウイットリーが「もう、これ以上の作品には出会えないでしょう」と言っていたり、『オックスフォード ミステリーツアー』なるものもあるらしいのです。

2015年2月27日金曜日


幸せの瞬間

 六十六歳まで生きて来ると、それなりに苦労は経験していて当たり前のような気がします。
 両親は亡くなりましたが、子供達も大きくなり、夫も病院通いはしていますが、それなりに元気で、こんな日だまりのような生活が幸せというものだと、何度も書きました。
 じゃあ、若いときのあの苦労の日々は幸せでなかったかと聞かれたら、やっぱり、イエスです。『早くこの苦労の日々が過ぎてくれればいい』と、何度も願いました。
 なんとか、みんなのおかげで借金も返し、無事に乗り切って、こうして今に至っているのですが、今思うと、あのときの時間が惜しいのです。体力もある若いとき、子供達が小さかったとき、苦労をさせてしまいましたが、あの切り捨ててしまったような時間が愛おしいのです。
 あの幸せでなかった間にも、子供達は無事に育ち、私達夫婦も、非難し合い、喧嘩しながらも、必死に働き、両親の助けも得て、なんとか生活を立ち行かせていたのです。その継続は肉体的にも精神的にも辛いものででした。
 でも、あの間にも、幸せの瞬間はあったはずです。やっと、思わぬお金が入ったときに行った外国旅行、そのあと、税務署に睨まれて、また、借金をして多額の税金を払うはめになったり。そんな大きな事でなくっても、みんな健康に生きていたのだから、その一瞬、一瞬を幸せと感じ、子供達にも感じさせればよかったと、今は思います。随分と夫の愚痴を子供達に聞かせてしまいました。
 もう、取り戻せはしませんね。
 今はただ、その反省を踏まえて、家族の時間を大事にしています。怒りの矛は、どんなときでも納めることにして、ストレスがあったら、好きな野球やマラソンを見たり、英国ミステリーにうつつを抜かして発散します。
 時間があるからできる事ですが、意図的にそういう時間を持つ事が大事だったのだと思います。借金返済に追いまくられて必死だった若いときでも、心のゆとりが持てるようにそうすべきだったのです。私自身が家族にストレスをかける存在になっていたでしょう。
 『グレートトラバース』で先輩の山登りの名人が言っていました、『どんな試練も、与えられたものとして受け入れて、それも楽しむ。』
 あのときはそんな事を考える事もできなかったのが惜しいと悔やまれるのです。

2015年2月19日木曜日


鈴木清一さんの本

 『祈りの経営 鈴木清一のことば』に注文が入りました。
 二年半ほど前、ショップを開くために本の整理や打ち込みをしていた頃に読んだ本です。読んでしまっててよかったと思いました。
 でも、『やりなさいと言っているのではない、やってきた事を書いている』とどなたかが言っていましたが、ストーリー性が無いので、内容はほとんど覚えていないのです。
 それでも一つだけ覚えているのは、結構長い文章で書かれていたあるエピソードです。
 あるとき、何か工場のようなものを、用地を買って建てようとしていたとき、お隣の工場のようなところに挨拶に行き、そこで挨拶代わりに便所掃除をさせて貰ったという話でした。どんなに丁寧に心を込めて掃除したかが書かれていました。トイレ掃除というのは生活の中の一瞬の事だから、すぐにまた汚れてしまうのでしょうが、きっとお隣さんはその心を理解したと思いました。その、無駄にも見える一瞬一瞬に心を込める事がどんなに大事か、怠け主婦の私としては背中をたたかれたようで、それ以来、できるだけまじめに掃除をするようになりました。
 鈴木さんは宗教を持っていたようです。こんな記述に感動して引用している人がいました。
『拝み合いの会社。ダスキンの朝と夕べは祈りに始まり祈りで終わる。それは人間鈴木清一が、あやまち多く、悩みも深く、弱さ、もろさ、悲しさに祈ってすがってゆきたいから。』
『チャンスをつかむのは自分。中身が本物であれば必ず天の摂理によって素晴らしいものが与えられるでしょうし、自分勝手なものであれば、自分の思うようにはならぬことです。チャンスは自分で創る。』
『出し惜しみ。自由になるお金を損しまいと思って出し惜しみする人は、たしかに損もしないでしょうが、また新しい幸運をつかむこともできない人だと思います。まず、損をするようであっても、相手が喜んでくれるものなら出し惜しみせずに出すことです。捧げることです。捧げることの喜びを知る人間になろう』
『喜びとともに利益を。喜ばれないような利益は利益ではありません。喜びとともに利益が出てくるというダスキンになりたいのです。よい結果が現れてこその喜びです。金はおおいに儲けて下さい。儲かったらこれをどのように喜びに使うかが問題です。』
『祈りの経営 ダスキンの経営理念

一日一日と今日こそは
あなたの人生が
(私の人生が)
新しく生まれ変わるチャンスです。

自分に対しては
損と得とあらば
損の道をゆくこと
他人に対しては
喜びのタネまきをすること

我も他も
(私もあなたも)
物心ともに豊かになり
生きがいのある
世の中にすること

合掌』
 家にあったものは初版のダスキン版で、ハードカバーで何度も開いて見るのに適していましたが、その後、普通の出版社からも出版されたようです。
 成功された方ですが、それに値するような厳しい内省をされていたんだと思いました。

2015年2月11日水曜日


三度目の正直

 メイプルショップで売りに出しているんですが、売れてしまう前にと、『生活の世界歴史』全10巻を読み始めてもうすぐ二年になります。これは有名な本で、古本もいっぱい出ていて売れる心配は無いんですが、遅すぎますよね。
 世界史の基礎知識が乏しいせいもあって、書いてある事が頭に入らずにイメージが湧かず、一巻終わっても、何が書いてあったか覚えていないなんて言うのもざらでした。
 この経験、前にもありましたね、そうです、若い頃、大学の授業に出て、聞いていても、頭の中は他の世界を飛び回っているなんて事、ざらでした。これも劣等感のもとでしたね。今思えば興味が無かったんでしょうけど。興味を持つように自分を導いて行けるのが頭のいい人と言う事でしょうか。
 とにかく、メソポタミアの一巻からなんとかマリー・アントワネットの子、消えた王太子のルイ17世の頃までの八巻を義務のように読み終えて、第九巻、『新大陸に生きる』、言わずと知れたアメリカ史です。そして著者はかの猿谷要先生。
 ここで俄然スピードが増しました。年を取ったせいもあって、眠れないときなどは、夜中一時二時なんて平気で読んでいる事もありました。やっぱりアメリカ史は、短いせいもあり、ある程度身近で、知識があるのです。西部劇等の映像でもよく見ていましたから。
 そして猿谷要先生とは、これが三度目の出会いなのです。最初は大学生のとき、多分『南部奴隷史』で外部講師の特別講義だったと思います。今、この『新大陸に生きる』を読んでいると、あの頃、先生が留学して一生懸命研究を重ねていた時期だったという事がわかります。多分、夏休みで帰ってきたときにでも、特別講師を頼まれたのでしょう。
 で、内容はというと、『南部奴隷史なんて面白そう』とミーハー気分で参加した私にはやっぱり基礎知識が無く、先生の講義が専門的すぎたのか、さっぱり頭に残りませんでした。
 二度目は『ハウランド家の人々』の翻訳本でした。原作者の筆力のせいもあるのか、最初の頃は退屈でやっぱり「なかなか頭に入らない」と嘆き節をこのブログにも書きました。
 これが三度目で、頭に入りにくかった前八巻を制覇した後では、実によくわかる力作だと思いました。この本には、『ハウランド家の人々』の記述も出てきますので、この本が、私が出会った三回の中では、先生としても一つの集大成だったのかもしれまん。やっぱり私達の時代ではアメリカ史の第一人者です。
 この中に、アメリカがテキサスやカリフォルニアを併合する下りが出てきますが、工作員を送り込んでメキシコからの独立を宣言させ、援軍を送りつけ、抗うメキシコ政府と戦って領土を分捕っていった歴史が書かれています。これって、ロシアがウクライナでしている事と同じだと思いました。こういう方法、昔からあったんですね。私達には思いつきもしませんけど。
 中でも、読むに耐えなかったものは、インディアンの征服です。西部劇がどんなに残酷なものかわかります。洋の東西を問わず、歴史をひもといてしまうと、攻められる事ばかりが目につきます。反省材料ですね。
 だから、『渡る世間に鬼はなし』なんて事無いんです。もちろん鬼だらけじゃありませんが。難しいですが、見分ける力が大切なんでしょう。そして、自分が鬼にならないこと。

2015年2月4日水曜日


田部井淳子さんの事

 私の対人恐怖症、いつもいつも、『他の人たちにこう見えてしまったかしら』、『どう見えるだろう』と、人の視点ばかりを気にしているからなんですよね。そして、いつも『あんな事をしてしまった』、『こんなことを言ってしまった』と落ち込んだり、気が滅入ったりしているのです。昔から言われる自意識過剰というやつでしょうか。
 あるとき、とっても若い子に、「誰も聞いていませんよ」と言われて、それ以来、カラオケで歌が歌えるようになった話はしましたっけ。そうなんです、本当は誰も人の事なんかそんなに見てはいないんですが、自分が気にしてしまって、自己嫌悪に陥ってしまうのです。そうそう、自分だけは知っているのです、自分の悪いところを。
 先日、登山家の田部井淳子さんのインタビュー番組を聞いていましたら、田部井さんも福島から東京に出ていた大学時代、田舎出の劣等感からノイローゼのようになってしまったという話をされていました。『ああ、私と同じだ』と思いました。
 もちろん同じではないのです。田部井さんのあの大きさは生来のものですよね。
 田部井さんは私より約十歳年上です。女性で初のエベレスト登頂に成功されたというのは、私が社会に出てうろちょろしていた頃か、結婚した頃だったでしょうか。
 その後、何かをしたいと思っていてもどうしていいかわからずに悶々としていた私は、田部井さんが書かれていた記事を読みました。そこには、『女性だけでエベレスト登頂を』と誓い合って、準備していた生活が書かれていました。まずお金、確か、ピアノの先生をしてお金を貯めていたと書かれていたように思います。もちろん訓練、体調管理、持って行くものの準備、山の装備は特殊でしょうし、お金もかかったと思います。そして、ご主人に子供さんを託しての出発だったようです。
 あのとき、私は、背中を押されるように、自分の希望を叶えてくれそうな機関を探し、両親に子供達を頼み、お金の準備をしてアメリカに出発しました。
 あのときから、田部井さんの事は、先生とも恩人とも思って、陰ながら感謝してきましたが、今回また、新たに田部井さんの人生を垣間見せてもらって、私もそうしたいと思う事が多々ありました。
 ひとつは身内への考え方。ご主人と幼い娘さんを残して行った訳ですが、「もし自分に何かあったときはと考えなかったんですか」という質問に、「夫もいたし、子供は幼くても、もう既に一個の人間ですから、心配はしませんでした」と答えています。『よいご主人でお幸せですね』と憎まれ口をききたくなりますが、でもこれは仕事をする人の心構えですよね。
 息子さんは思春期に荒れたそうですが、それも一個の人間の成長過程と捉えたと言っていました。
 そして、数々の山に登って、老年と言われる歳になってから、シャンソンにも挑戦し、ブログも書き、運転免許も取り、大学院も卒業し、癌も克服したそうです。この癌の克服は、田部井さんならではです。抗がん剤を打ち、次の抗がん剤までの間に、行けそうな山に登るのだそうです。そうして、きっと抗がん剤をうまい具合に体中に廻したのでしょうね。癌が消えてなくなったのだという事でした。誰にでもできる事ではありません。
 現在、震災で被災した子供達を千人、富士山に登らせたいというプロジェクトをしているそうです。『山に登れば自信が湧いてくるはず』と言っていました。
 私自身はお風呂にも入れない山行きなどする気は毛頭ありませんが、『何かをしたいと言うと、きっと誰かが助けてくれるから、何かしたい事があったら、大きな声で言った方がよい』と言っていました。
 NHKの連続ドラマ、『マッサン』の週間タイトルの『渡る世間に鬼はなし』を地で行っているようですが、十年短い私の生きてきた経験でも、今読んでいるアメリカ史を見ても、やっぱり鬼はいるんです。どれが鬼か、見分ける力をつけ、本当にやりたい事を見つける事が大事だと思いました。本当にやりたい事でなかったら、傍迷惑になりますから。
 でも、やっぱり田部井さんは、私にとって人生の先生であり、見習うべき人に変わりはありません。ベニシアさんもそうです。見習うべき人は他にも何人かいます。

2015年1月29日木曜日


イタリアの小さな村

 こういうタイトルの番組があります。いつも同じような話ですが、好きで時々みています。
 構成はイタリアの小さな村に住む、たいていは二人の人物に焦点を当てて、その人のこれまでの人生、例えば戦争中の話とか、ドイツに出稼ぎに行っていたが、生まれ故郷の村に住みたくって妻と二人で帰ってきた人の話とか、ずっと村で羊飼いをしている人の話とか、村の大工の話とか、夫に先立たれて、一人で働いて,子供達を育て上げた女性の老後の生き様とか、一つ一つが一人一人の物語なのです。
 誰でも一つだけは物語が書けると良く言われますが、その物語の集合なのです。時々は飽きてしまう事もあります。でも、誰の人生にも学ぶべき事があるように、テレビに映った遠いイタリアの人々の人生にも学ぶ事はたくさんあります。
 例えば、子供達を独立させて、一人で生活しているおばあさん。太っていて私と同じ、毎日ヨタヨタと坂の下の畑に行って、野菜や野草を摘んで、食事を作り、誰にも迷惑をかけずに、神様に感謝しながら生きています。未来の自分をみているようです。
 独身の若い人たちも出てきます。みんな、しっかりと自分のやりたい事を持ち、未婚にしろ、バツイチにしろ、周りの人は、それぞれの生き方を尊重して何も言いません。今は日本もそうなってきていますが、見習わなければと思います。
 中でも、今、私が見習っている事は、イタリアのマンマの心意気です。どんなに急がしくっても、パスタを捏ね、外に出た子供達の分まで食事を作り,できるだけみんなで大きな食卓を囲んでいます。なんて大らかなんだろうと思いました。それらを見ていて、いつの頃からか、私も日曜日に娘達の家族の分も料理を作って、一緒に食べるようになりました。やり始めると、料理の腕の悪さに気づかされ、テレビの料理のアイディアなどが目に止まります。
 こうした生活は忙しいですが、きっと生きている楽しみなのです。近所に住む老人家庭をいつも気にかけている商店主の女性の話も出てきましたが、あのボランティアも、きっと生きていればこそできる満足感があるのかもしれません。
 こうして他の人の人生をかいま見せてもらって自分の人生に取り入れ、人は成長して行くような気がして、時々は見せてもらっています。

2015年1月22日木曜日


老いるという事

  正月を挟んで一ヶ月後、一月十一日。
 糖質は食べてしまいました。サツマイモを食べると便秘が治るのです。でも、少し胸焼けも経験しましたので、量は少しにしました。で、おかげさまで一キロ減です。これで満足です。月に一キロずつ減ってくれれば十分です。食べすぎたら翌日減らすようにして、このペースだけでも維持して、腰や膝への負担を減らして行けるようにしたいと思います。
 
 先日、近くに住む友人としばらくぶりにおしゃべりをする機会があって、そのとき初めてご主人が亡くなった事を聞きました。大動脈剥離と言っていましたが、救急車で行って、もう翌日には亡くなったようです。
 お話しした事はありませんでしたが、よく家の前などをお掃除していたお姿を拝見していたので、そんなに急に亡くなっていたなんて、信じられませんでした。
 そのとき、九十四歳まで生きた姑が言っていた言葉を思い出しました。『周りの人たちが、どんどん居なくなってしまうのよ。若い人たちも,懐かしい人たちも』。
 『ああ、それが老いるという事だな』とこの頃私も思います。
 もう、父も母も居なくなりました。叔父も、叔母も。
 ご近所でも、すぐ前の家に一人で住んでいた頼りになるおばあさんが消えるようにいなくなりました。その向こうの家の親切なおばあさんも九十歳で、亡くなりました。ごみ捨て場の近くに住んで、ごみ当番のとき、忙しくって手の回らなかった働き盛りだった私達の代わりにごみ置き場を掃除していてくれた,一人暮らしのおばあさんも、いつの間にか亡くなって、家も取り壊されて畑になってしまいました。いつもニコニコと話しかけてくれていた優しいおじさんは交通事故で。
 考えると、あの人もこの人も。
 これが、老いるという事なんだなあと思います。そして、老いるという事は、あの人はこんないい事をしてくれた、あんな優しい事をしてくれたと、人生の先達達の生の遺産をいっぱいポケットに詰め込む事なんだなあとも思います。
 私も負けずに、これからでも、人に優しく、徳を積みたいものだと思います。

2015年1月16日金曜日


カープ女子

 今年(14年)はやったこの言葉。私は昔からカープ女子なのです。黒田投手がアメリカに行く前から。1対0で買ったとか負けたとか、そんな試合ばっかりの広島の選手達と黒田投手を応援して、楽しくストレスを発散して生きてこられた話は前にもしたでしょうか。
 8年前、ファンの皆様に応援されたり、悲しまれたりしながら、黒田投手が大リーグに挑戦したときには、興奮してアメリカの友人に、下手な英語で手紙を書いたりもしました。それ以来、放送が無いときはネットで見て応援していました。
 でも、いろんな野球記事やブログなどを見ているなかで、球団と同じように私たちもきっと帰ってくると思っていました。それが本当になったのです。
 黒田フィーバーと誰かが言っていましたが、そのニュースを見て、多くの方々が喜びのブログを書いていました。『来年こそは優勝』と喜ぶ人もいましたし、『たとえ来年結果が出なくっても、帰ってきてくれただけでいい』と涙の出るようなブログを書いている人もいました。
 皆さん、涙という言葉を多く書かれていましたが、私も涙を流しながら読んでいました。
 中に阪神ファンの方のブログがあって、『新井さんもそうだけど、どうしてみんな広島に帰るんだろう』というような指摘があって、やはり8年前の新井選手の涙の阪神移籍会見を思い出しました。黒田選手が涙ぐんだという移籍会見は見ませんでしたが、新井選手のは見ていたのです。『そんなに悲しいなら行かなきゃいいのに、球団も引き止めてあげればいいのに』と思ったものです。
 新井選手はやはり今年、阪神から大幅ダウンの提示を受け、自由契約になり、更にそれより低い年俸で広島に帰ってきました。出場機会を求めてと書いてありましたが、よほどの努力をしなければ、いくら実績があってもプロの世界では機会は奪えません。それでも『広島に』と思わせる何かがあるのでしょうね。
 よっぽど人徳のある誰かがいるんでしょうか。
 数年前、ユーティリティプレイヤーと言われた『キムタク』が,巨人に行き、引退後は巨人のコーチになって,広島戦のために帰ってきた広島市民球場の本塁ベース上で倒れて、脳溢血のために亡くなられましたが、あのときも何か気持ちのようなものが感じられて、泣けました。
 内田順三コーチは熱心な指導が買われて,ご高齢なのに、巨人と広島を行ったり来たりしていますが、彼なんでしょうか。オーナーなんでしょうか、社長なんでしょうか。新任の緒方監督なんでしょうか。
 来季は、マエケンも残ってくれるようです。そういう仲間意識なんでしょうか。
 私は黒田選手がいなくなれば、もうヤンキースもMLBも見ませんが、松井選手がFAになったときも、あの球団には何か冷たい気持ちが垣間見える気がしました。あのFA選手の争奪戦を見ているとアメリカの球団ってみんなそうなんでしょうか。

2015年1月14日水曜日


コンクリートの代わり

 こんな狭い敷地でも,毎年毎年草取りには苦労しています。狭い敷地なんだからコンクリートで覆ってしまえば手間いらずなんですが、建てた当初、そう言われたんですが、まだ排水もできていなかったので、これから土を掘り返す事もあるだろうと、土のままにしてありました。
 やがて排水もでき、増築もしたんですが、その頃はお金がありませんでした。家はどんどん古くなって行くので、またいつか立て替えるなり、しなくてはならないと思うと、わずかな蓄えを『今、修理には当てられない』という気持ちがいつもあります。
 わずかな貯金を小さな修理ではなく、根本的な大きな修理か、中古住宅でもいいので住み替えに使わなければならないのではないかと思っているのです。だから、草取り不要のコンクリートには使えないのです。
 で、床の張り替えで大量に出た、古ーペットを廃棄しないで残しておいたのです。弟が古カーペットを、広い敷地に申し訳程度に敷いていましたが、あれが草防止なのだとあとで知りました。それをお隣の駐車場でもしていました。
 それで、私も、大量に出たカーペットで、裏から横から、目一杯敷こうと思って、今朝、筋トレをしてウオーミングアップをして、敷き始めました。風に飛ばされないように所々に重い石や瓦を置きました。
 そう言う訳で、昼も食べずに三時間、もう止めたいと思うほど労働してしまいました。今夜から、また足腰が痛くなりそうです。
 でも、胆石の手術から一年半、完全に立ち直ったと思いました。ありがたい事です。手術後、痛みをこらえてやっていた草取りも、これで少しは楽になりそうです。

2015年1月7日水曜日


風呂床

 家の中でも水回りは一番最初に弱ってきます。台所、トイレ、風呂です。
 築37年のわが家でもご多分に漏れず、台所の床は張り替え、レンジも取り替え、バスタブと便器も取り替えました。あの頃は一体式のシステムバスではなく、タイルの床に据え付けのバスタブ、外付けのボイラーでした。ボイラーは給湯式だったのがすぐにだめになって、穴をあけた循環型にして、それが東日本大震災まで三十年近くもちました。今のは三台目ですが、その熱効率のいい事。長持ちしたからいいとは限りません。今は灯油も今までの半分以下で済みます。もちろんこれは、やはり大震災でだめになった太陽熱温水器を新しくしたせいもあるのです。両方とも性能が上がっているのです。
 太陽熱温水器が経済的であると思っているわけでは有りませんが、環境に優しいという事で納得しているのです。
 そのタイルの床はとても腕のいいと評判の職人さんが、貼ったもので、かつ私はお掃除苦手人間ですから、ごしごしなんて、週に一度もしませんで、バスタブを入れ替えてくれた職人さんにもほめられるくらい、きれいに保っていたのです。
 それも、大震災後、割れ目が入って、あの頃、保険金をもらった人も居たようですが、わが家では考えもしませんでした。多分、地震保険には入っていなかったような気もしますが、でも、とにかく、家は壊れるものとしか頭に無かったのです。
 娘がコーキング剤を塗りまして、それがあまり上手じゃなく、最近また穴があき始めました。さて、どうしようかと考えたのです。床張りのDIYで気を良くしていた私が、DIY好きの弟がしたように、上にもう一度タイルを貼るのはどうかと言い出しますと、娘が,ネットも参考にしてみたらと言います。それでネットを調べてみると、新しい材料が出てきて、それはクッション性もあってタイルの上にも貼れると書いてありました。
 で,また、DIYショップに行き、まずタイルのところで、相談しました。タイル担当の方が言うには、タイルの上に塗る接着剤は置いていないというのです。一旦もとのタイルを外してやり直すのだと言います。これではできません。そこで、ネットで見た、新しい材料のカタログを見せてもらいましたが、材料だけで三万円、現物は無くって、どう工事するのか見通しが立てられませんでした。
 さて、と、『弟に聞いてみよう』と一旦家に帰って、風呂床のコーティングをはがしてみましたら、割れ目がくっきりと出てきました。そこ一カ所だけ割れ目を埋めればなんとかなりそうです。そこで、埋める材料を買いにまたDIYショップに行き、今度はセメント売り場で事情を話し、おすすめのセメントと、目地剤を買ってきました。そのセメントはタイルの上にも塗れると書いてありましたから、弟が使ったのはこれだなと思いました。弟はこのセメントを塗ってその上に新しい大きなタイルを並べたようです。私にもできそうでしたが、私はほんの少し使って、割れ目を埋め、外れた小さなタイルをのせました。目地剤は使わないで返品して、九七七円なりで、以前よりきれいになりましたから、今はこれでいいと思います。
 いろいろ騒ぎ回ったおかげで、この次だめになったら、やる方法も見えてきました。結局、家って、こうして補修、補修を繰り返して住んで行くんだなと,またまたこの歳になってわかった気がします。