格言、金言
いわゆる自学をしながら、ずいぶん世の中のことが分かったような気になっていましたら、先日、ガンと頭をたたかれるような発見をしてしまいました。
それは物置というか、作業部屋というか、そんな片隅の部屋にずっとかかったままになっていた古いカレンダーでした。それは格言が書かれたカレンダーだったので、片隅の部屋だったこともあり、5月のままになって放置されていたのです。
で、五月は『言い訳をする心を捨てないと、何度でも同じ失敗を繰り返す』というもので、そこを通るたびに何度も目にしていました。ある日、『あれ、これは私が自学で学んだことと同じことだ』と気が付きました。私が『やせ我慢』の中に書いた『自分中心でいつも言い訳をしてその場で踏ん張れない『私』のことです。神父さんのお母さんだけではなく、昔の人は知っていたんだと思いました。
釣られて、六月も見てみました。『他人のために役に立つ喜びの中に、人としての生きがいがある』。これは執事西園寺一の生き方です。私も娘や孫のために毎日ドライブをしていますが、このために自分自身を健康に保ち、生きがいになっていると思います。
七月は『自分の都合だけを考えていると、他人の迷惑には気が付かない』。これは私が対人恐怖症気味になっている原因です。いつも自分中心で動いてしまうのです。そして後になって、迷惑をかけてしまったかなあと後悔ばかりしているのです。
八月は夫婦の話なのでもうパス。
九月は『忍耐とは自分を抑える事ではない、希望をもって耐えることである』。これも
老人には向いていないような気がしますが、あえて言えば、ウクライナの戦争が終わって、人々がこの寒さから解放されるように、私たちも今希望をもって耐えるということでしょうか。
十月は『今できない事にとらわれていると、できることまでその機会を失う』。これも私のことです。いつも夢遊病者のように夢ばかり追いかけているのです。今できるチャンスがあってもしり込みして身体が動かない。スポーツ選手のように瞬発的にとは言いませんが、身体も頭ももっと動けるようにしておかないと、現実に生きていることにはならないと、この頃少しわかってきました。
十一月、『自らを律する厳しさがないと、物事の判断が甘くなる』。これも自分中心で自分に甘い私のことです。ボケっとしているからです。
十二月『金銭は人の心の器量のままにその真価を発揮する』これは私のことではありません。金銭には縁のないミニマリストなので。