2013年10月24日木曜日

自費出版 

 写真の豊富な夫の本と違って、私の本は文章だけですから、安くできるだろうと考えたのです。それで、一番安いと言われる印刷製本屋さんのページを検索しました。ところが、何度見てみても、高いのです。
  100部で10万円といったら、一冊千円です。私は一冊千円で売りたかったのですが、それで原稿料も、販売手数料もと思うと、500部以上作らないと採算が合わないのです。私の本なんて、10部売れれば充分と思っていましたが、10部だと一冊あたりがもっとずっと高くなってしまいます。大変な誤算でした。
  その後、コンピューターに詳しい友人に、その事を話す機会があって、聞いてみましたら、その方は、ちょっとした冊子なら自分で手作りすると言っていました。つまりこの間の房総旅行を企画した方ですが、その時私達に見学先の冊子式のパンフレットを作ってくれたのです。A4版の薄い冊子でしたが、確かに本の体裁をしていました。40部作ったのだそうです。
  その時、手作りの仕方を教えてくれましたが、素人は一度聞いても覚えられません。そこはネット検索とばかり、調べてみましたら、ありました。まだはっきりと印刷製本の道筋が判ったわけではありませんが、30部、これにしようかと心が動きました。
  私は洋服も手作りするくらいですから、割と器用なのです。手本とする本はたくさんありますし、機器類も、インクジェット、レーザーの両プリンター、古いですがコピー機、等、ありますから、『何とかできる』と踏んだのです。これもチャレンジです。
  でも、一晩寝床で考えました。コピーというのは普通一枚八円です。200ページの本なら、コピー費だけで一冊千六百円です。そこまで考えると、素人の手作りは意外と高くつくのかも知れないと思えました。
  それでも、一冊だけは作ってみようと思います。印刷製本を頼むにしろ、見本があった方が便利ですし、本作りの基本的な用語や工程を知っておく事は、人に頼むときでも役に立ちます。その印刷製本屋さんのホームページを見るだに、使われている用語が全く判らず知識のなさが思い知らされているのですから。それに、紙質等も自分の目で見て、手で触ってみなければ判りません。
  うまく行ったら、いつか印刷屋さんに頼んで、ちゃんとした本を作り、ショップに並べようかという所まで思いは進んで行きました。

2013年10月18日金曜日

リセット、リスタートの物語 

 春頃にネットショップを思い付いて勉強を始めた時から、かれこれ一年になろうとしています。
  その読んだ教科書の最初に書いてあったのが、『企画書を作りなさい』という事でした。それで、一ヶ月ごとの行動計画のようなものをエクセルに打ち込みました。幸い私一人の事ですから、人に判ってもらうようなプレゼンテーションなんか要らないんです。時々は開いて、予定の修正をしたり、成果を書き込んだりしていました。
  昨年、最初に企画書に書いた事で、うまくいった事は、商品の展示でした。娘に教わったスキャナーで簡単に写真が撮れたこともあって、本格的に展示を始めたのは『古物商の許可がいらない』と知った九月頃からだと思いますが、それからおよそ半年くらいで、予定のほとんどを並べ終える事が出来ました。最初は一年半くらいと見込んでいたので、格段の時間短縮です。
  確かに商品の数に比例してページビューも増えました。  駄目なものもありました。『ブログを書いて集客を見込む』というのは今や誰も来なくなってしまいましたし、吉江氏のような『コンテンツビジネス』や教科書に書いてある『サービスを組み込む』という項目は、今のところ、全くイメージすら沸いてきません。やはり、人に言われてするのは難しいのです。自分の発想を膨らませるしかないのです。
  次の段階の企画としては、『自分の本を自費出版してエブリカラーに並べる』というのが書いてありました。次はこれにチャレンジしようと思います。
  何を隠そう、元々、私は物書きになりたかったのです。今までに何編かのフィクションやノンフィクションを書いては新人賞に応募していました。もちろんどれもボツ、もう、疾っくに新人の範疇には入らない歳になってしまいました。
  それで、若い頃の『浜崎あゆみ』さんが、自分の詩を印刷して、路上で売っていたという伝説を思い起こして、『自分で作って自分で売ろう』と考えたのです。こういう行動は若い詩人にこそ似つかわしいと思いますが、六十過ぎのおばあさんでもネットなら恥ずかしくはないでしょう。顔も身体も見えませんから。
  最初に考えたのが、五十三歳頃から書き始めて九年書き続けた『人生リセットの物語』です。その後はこの『人生リスタートの物語』。
  これらがうまくいったら、夫の本を再び作ろうと企画しまして、再来年度の企画書に書き込みました。二年分の企画です。その後に、エブリカラーの見直しが来るわけです。

2013年10月11日金曜日

本を読むようになりました

  いざ、人に売ろうと思って本を並べていても、ときどき、『ああ、これは読みたい』と思う本が出て来るのです。そういうときは、ショップ、エブリカラーに入れるのを止めて、枕元の箱に入れておきます。
  そういう本が箱にいっぱいになって、いっこうに減りません。私は元々、気分屋で読むのが遅いのです。つまり集中力が無くって、気が散るせいか、いろいろの事は同時進行で割り方良くできるのですが、一つの事を完成させるのに結構長い時間がかかるのです。
  それが人生の波を乗り越える上で悪いという事ではないと、今は思いますが、物書きとしてはマイナス要素だと思います。つまり、本を読んでいても他の事が頭に浮かんで来て、なかなか前に進まないのです。そうすると、一つの本を読むのに、一ヶ月以上もかかってしまいます。たくさんの知識を必要とする物書きは、昔から本をたくさん読みなさいと言われていたので、先ず、この時点からして劣等感でした。
  私の知人は私に本の話を新幹線に乗っている間中しても飽きない人ですが、実はそれに刺激されて、私にはあまり似つかわしくない『ゲド戦記』なるファンタジー小説を読んでしまった事があったのですが、その後、やはり房総旅行で会った時に、塩野七生のローマの本を読み尽くしたと言っていました。私に「貸してあげましょうか」と言ってくれたのですが、丁重にご遠慮しました。この遅さですから、一年かかっても読み終わらないでしょう。
  でも、最近、本の読み方にもいろいろあるのだという事を、テレビで見て実はホッとした事がありました。朝まで一気に読むという荒俣宏さんのような人ばかりではないのです。その中にあちこちに読みかけの本を置いておくと言う方がいました。トイレに一冊、風呂に一冊、電車で読むようにカバンに一冊、もちろん枕元に一冊。みんな違う本なのだそうです。しおりは入れないで、どこまで読んだかは自分の記憶力で探すと言っていました。同じところを読み返してもいいという大らかさが必要のようです。そうすると頭の体操にもなるそうです。
  これはいいと思いまして、今は、枕元が主ですが、玄関先、バッグの中、いつも寄る図書館と、あちこちに本をチラバしました。これで準備万端と思いましたが、なかなかそうも行きません。それでも、まあ、これで月に一冊ぐらいは読んでいるのですから、格段の進歩です。

2013年10月6日日曜日

テレビの影響 

 昨今、まるでテロ行為のような無差別殺人のニュースが散発的に聞こえてきます。この歳になると、『どうしてだろう』等と考える事も避けて通りたい気分ですが、テレビに逃げ込み気味の私が好きで見ているサスペンスものも影響しているのかなあと思ってしまいます。
  あれって、必ず人が殺されるのです。そして、殺された後の段階だけなら、死体を見せるだけで済みますが、その殺人の場面まで映し出すのです。手近な石で殴り殺したり、ハンマーを使ったり、首を絞めたり、階段を突き落としたり、どれも簡単に殺人が出来てしまうのです。
  意外と神経質な夫は、私の趣味を『気持ちが悪い』と吐き捨てるように言いますが、嫌悪感を持っている方が健全なのかも知れません。
  私のように人ごととして見ている分にはいいのですが、『ああ、意外と簡単だ』と思ってしまう人や、知識として取り込んでしまう子供達に、影響が出ているのではないかと心配する人がいるのは当然です。サブリミナル効果というのもあります。私でさえときどき感じますから。
  わが家では、親達も子供達もテレビゲームはほとんどした事がありませんが、テレビゲームの悪影響を言う人もいます。ゲームというのは野球だってサッカーだって、相撲だって、戦いです。戦って相手をやっつけるのです。スポーツが良くてテレビゲームが駄目というのもおかしな話ですが、テレビゲームは自分の身体に、汗と痛みを感じないから、人の苦労や痛みが判らないとよく言われます。
  それではやっぱり私のようにテレビスポーツ観戦ばっかりしている人は、人の痛みが判らないのでしょうか。そんな事はありません、人間がしているのを見ていれば、『ああ大変なんだな』とか、『負けて口惜しいだろうな』とか、プレイヤーに対して同調する心が出てきますから、ちょっとは違うような気がします。
  テレビゲームは人ではないのです。軍隊の司令官が戦いのゴーサインを出すように、危険な戦いのゴーサインを心の通わない架空の兵士や、死なずに起き上がるサイボーグに出しているので、いつの間にか、世の中は無機質なもので、意のままにしてもいい存在であると錯覚してしまうのでしょうか。
  でも、こういう意識って、甘やかされて育った子供には昔からありますよね。私もそうでしたから。それでも、長く生きて来ると、どこかの時点で頭を叩かれるのです。判らせられるのです。そして、私のように対人恐怖症になるのかも知れません。そうしたら、対人恐怖症も人間としての進歩、通るべき関門と言うべきでしょうか。
  何が言いたいのか判らなくなってしまいましたが、人はやっぱり優しく教育し,されるべきだと思います。色々な経験をして、お互いに庇いあいながら生きるようにすれば、ストレスも減り、例えテロの仕方は知っていても、相手を思いやれれば行動にまで走ることはなくなると思います。私がそうできたかという事は置いておいて。