昔、ソビエト抑留を経験した人から本を頂いたことがあります。
若い頃だったので、世間知らずの私は金も力もなかったけれども若さという武器を持って突っ張っていました。いわゆる偉そうにしていたのです。
その方は、地域で河川の清掃などのボランティアをしていると聞いていました。でも、歳とって、何もすることがないんだろうくらいに思っていました。
今考えると、大変不遜な話です。でも、夫のお仲間は、そういう有閑紳士淑女が多かったのです。
その本を読んだ時、私は、「この本は私の宝物になりました」という趣旨のファンレターを書いて出しました。
農家の、いわゆる次、三男だった彼は、志願して、戦争真っただ中の陸軍に入り、中国戦線にいたために、ソビエトに抑留されてしまいました。誰に聞いても厳しい経験だったと言われるソビエト抑留、どうやって生き抜いたかという経験が書かれていました。
短く言えば、分けあって生き延びたのです。
例えば、一人が仕事先で、食糧を少しでも貰ったら、独り占めにしないで、必ず仲間で分けたと書いてありました。みんながそうすると、少しずつでも体に食糧を入れられたのです。そうして生き延びたようです。
なんとか帰国して家にたどり着いた彼は、長兄の亡くなった家の後を継ぎ、農業をしながら、仲間を集めて、社会貢献をしてきたようでした。
今の世の中、なかなか人と分けるなんかしませんよね。権利意識が強くなってきているのです。
この間、野生のクルミを取りに他人の敷地に入り込んだと訴えられた人の話がニュースになっていましたが、田舎育ちの私はびっくりしました。だって、私の時代の田舎では野生のキノコやワラビを取りに、他人の山に入るのを、誰も見とがめる人はいませんでした。それを誰かが訴えたのだそうです。まさに『木靴の樹』の世界です。木一本だって地主のものです。
そういえば、私は一度熟して道に落ちていた梅を拾ってきたことがありました。道に落ちているものは拾ってもいいんだよと聞いたことがあったからです。でも、誰か見ていた人があったのでしょう、それ以後、その道に梅が落ちていることはありませんでした。この話をすると、若い人には「当たり前」だと言われますが、私は、寒気を感じました。豊かな時代になって、人はますます欲深になったような気がします。
弟が言っていましたが、『金持ちはケチなんだよ、人に分けられる人は決して金持ちにはならない』そのとおりだと思います。
私は、お祭りの寄付さえケチるような生活ですが、食べ物などはできるだけ分けようと思います。それがソビエト抑留を経験した彼の教えだと思っています。