2017年12月29日金曜日

『田部井純子 人生のしまい方』 

  という題名の番組を見ました。田部井さんと言えば女性でエベレストに初登頂した人として有名です。山なんかに全く興味のない私が何でこんなに気にしているかというと、あのとき、インタビュー記事を読んで、山に行くにはそれなりの準備を何年もして、お金を集めて、それから決行するのだということを知ったからです。人生ってそんなものだと教えられたのです。何かやろうと思ったら、計画をたてて準備をして決行。あのとき、私も初めて夢を実行に移すことが出来ました。それ以来、人生のお手本として、ずっと注目して来ました。
 エベレスト登頂は快挙でしたが、その後の人生は?とか、家庭は?とか、性格は?とか。最初から山には興味がなかったので、その他の山の偉業には目が行きませんでしたし、著作を読んだ訳でもありませんが、その名前が出るたびに、ちらちらと見ていました。
 ガンを発症して、治療を続けながら、東日本大震災後の東北の高校生達を元気づけようと毎年富士山に一緒に登っているという話は聞いていました。今回、映像で、その様子を見ることが出来ました。1000人の計画で、およそ半分まで達成し、亡くなったようです。
 その強さは、私には全くないもので、ただただ参りました。

2017年12月21日木曜日

欲張り

 刑事フォイルが何度も再放送されて、ポール・ミルナー役のアンソニー・ハウエルも大ブレイクしているようです。
 改めてフォイルの魅力って何だろうなと考えてしまいました。人として『頭がいい』という一言に尽きる気がしますが、必要なこと、必要でないことが整理できて、相手によって、きちんと使い分けられる。その冷静沈着さと切り替えの早さですよね、目につくのは。仕事のできる大人なんです。小人は、頭の中にあることをみんな一緒くたにして、言い訳と共に相手に押し付けてしまう。これでは仕事にならない。つまり集中力ということでしょうか。
 でも、普通の人は小人です。みんなあれもしたい、これもしたいと欲張りなんです。それらがみんな頭の中に渦巻いていて、何でもかんでもしゃべってしまうのです。決められないのです。
 亡くなった女優の大原麗子さんは、これも亡くなった俳優の渡瀬恒彦さんと結婚していた時期がありましたよね。その時、女優を辞めて家庭に入ってほしいと言われたのだそうです。でも、どうしても役者としての欲があって、離婚してしまった。歳が行って、病を得て、一人になった時、渡瀬さんに会いたいと無理を言って弟さんを困らせたそうです。
 結局、選んだ道で成功したのですから、間違いではなかったかもしれないのですが、愛も家庭も欲しかったのです。
 小人の私は家庭も子供も、仕事も夢も、みんなほしいと思っていて、何一つ満足にはできなかった気がします。
 このところ、一生の仕事とは、みんなどうやって見つけるのだろうと考えていましたら、屋根修理を頼んだ屋根屋さんが、「近所の屋根屋にアルバイトに行って、そこで見様見真似で覚えて、そのまま屋根屋になってしまった」と言っていました。『イタリアの小さな村』でも、腰痛持ちの大工さんが、やっぱり近所の大工さんを手伝っていてそれが仕事になったと言っていました。親の仕事を手伝っていて、そのまま後を継ぐケースもあるでしょうし、こういうインターンのようなことをしてから一生の仕事を得るという人の話をよく聞きます。私のように大学を出て、求人募集を見て、フロント係のような仕事について、結局何も身につかなかったのを顧みると、それが正当なのかなとこの頃思いました。
 まあ、これからでも遅くない、私には何ができるのだろう。

2017年12月15日金曜日

否定的に言う癖

 前に、『一言が抑えられるようになり』と書きました。抑えられなかった若いころは、押して知るべしです。
 私の対人恐怖症は、あの頃のpost-traumatic stress disorder ((略 PTSD))心理的外傷後ストレス障害の一種ではないかとこの頃思います。この言葉はもともとは軍人さんが戦場での経験が忘れられなくって起こる心理的障害のようです。それに比べたら、私のなんか耳垢にもなりませんが、それでも、歳を重ねるにつれ、埃のように心の中に積もってくるのです。
 最初はどんなところから始まったのかと考えました。子供のころです。テストの点数を考えるとき、できなかったと考えていれば、100点を取った時の喜びは大きくなり、悪い点を取った時の落ち込みは少なくなる。気の小さい私は落ち込みを少なくするためにいつも否定的に考えていたのです。テストって子供のころは日常茶飯事でしたから、沁みついてしまったのでしょうね。
 それがいいこともありました。子供たちの点数にも反映されて、一切文句は言いませんでした。でも、それが無関心となっていたことも否めません。夫に対してもです。
 つまりいつも自分に集中していて、誰かと気持ちを共有するということがなかったような気がします。自分の気持ちに反することがあると、パッと否定的な感情が出てきたように思います。だから、身近にいた家族や友人は被害を感じたことと思います。やがてその反応も感じで分かるようになり、怖くって、人にものを言えなくなり、対人恐怖症ぽくなったような気がします。
 それに気が付いて直すようになったのは、わずかながらも年金をもらうようになって、時間とお金にゆとりができてきてからです。
 広島カープを応援するようになり、若い選手たちを見ていると、みんな一様に「きっと出来る、やる」と言うのです。最初は『できなかった時の落ち込みが来るのではないか』と他人事ながら心配していたのです。でも、この頃は、ファンが、「元気を貰った」というのはこういうところなんじゃないかと思うようになりました。私も選手の皆さんに引きずられるように運動を続けられていますから。
 もう一つは日記のようなブログを書いているせいもあると思います。日記を書きなさいと子供のころに言われますが、生活の資を稼がなければならない忙しい毎日の中でいつの間にか忘れてしまうのです。それと同時に自分の心を見直すこともなくなり、自分流を押し通すようになってしまったのです。
 この歳になってやっと、少しずつ、否定的な一言が抑えられるようになり、人と話ができるようになりました。まだまだ自己中心的な癖は治りませんが、いつかは物事のいい面を見て、肯定的なことを言えるようになりたいと思います。例えば広島の緒方監督が、来年の開幕投手について、「全員に期待している」と言ったように、みんなに勇気を与えられるような。

2017年12月8日金曜日

私には何ができたのだろう。

 『山女日記』を一度だけ見ました。湊かなえさん作の漫画をドラマ化したもののようです。それは山岳ガイドになった女性が、山岳ツアーを引率して山に登り、その都度都度でドラマがあるという設定のようでした。
 「山の仲間は家族と同じ」というセリフにも感動しましたが、それよりも、気になったのは山岳ガイドという職業でした。いわゆる、好きなことを仕事にした女性の話ですよね。
 私、来年70歳になるのです。私、職業として、何にもなれなかった女性です。大学時代の友人には、職業を選んで全うした女性もたくさんいました。その引け目が同窓会に行けない、行かない理由かもしれません。
 今でも考えるのです。私には何ができたのだろうかと。
 山女は無理です。運動神経が悪かった。体形が肥満だったせいもあって、一度も山と言われる山に行ったことはありませんでした。
 専攻の英語、生半可で使い物にならなかった。突き進んで極めるよりは、できないことが恥ずかしくって、逃げました。
 文章、好きで、小説も何度か試みましたが、のめりこむ事はできませんでした。忙しさを理由にしましたね。
 スポーツ選手はあこがれますが、自分を鍛える根性はなかったと思います。体型を整えることさえできなかったのです。
 要は根性なしと甘えが肥満の私という人間のすべてだったような気がします。
 でも、未来も少なくなったこの歳になると切実に考えるのです。私には何ができたのだろうかと。この先何ができるのだろうかと。
 少なくとも、人にやさしくできるように心がけようと思います。ヨガやピラティス等を毎日続けるようになって一年、呼吸が深くなったせいなのか、怒りを覚えることが少なくなった気がします。
一言が抑えられるようになり、その分、人の心を穏やかに受け止めることができるようになった気がします。
 これを続けて行けば、私にもできることが見つかっていくような気がします。やっぱり、体と心は表裏一体で、両方が健全でなければいけなかったのですね。この歳になってわかりました。

2017年12月1日金曜日

私のあの帽子は


 急に寒くなった今年、急いで冬物を出したのですが、どうしても冬の帽子が出てきません。何度も同じ箱をひっくりかえしては「ない、ない」を繰り返していました。
 何度目かに洋服ダンスの中を探していた時、真黒な帽子が目に留まりました。それは何年も前、私がニットの生地で着やすいロングの喪服を作ったときに余り布で作ったものでした。その帽子はニット生地だったせいもあって、実によくフィットしました。
 『無いならこれでもいいか』と出してきて洗いましたが、黒は家族に評判が悪かったのです。そこで、これと同じようなものを作ればいいと考えて、暇な私はまたリフォームで忙しい日々を送ることを考え付いたのです。
 早速、前回の型紙を探しましたが、見当たりません。これもあちこち探した後に、諦めて、黒の帽子から測ったり写したりしながら型紙を作りました。布は? 小さくて着れない昔のスカートが何着かありました。と考えて、引っ張り出してきたのが4枚。それと二重になっている厚手のエリマキ、これで五個はできると裁断に取り掛かりました。
 帽子はカーブが多いので、縫うのは大変でした。ま、そこはいい頃加減の私ですから、適当に押っ付けました。
 接着心を入れたので、出来栄えはなかなかでしたが、アイロンづけのこの接着心の着きが悪いのです。これは失敗。洗濯ができない。でも考えると、夏の帽子なんかほとんど洗えませんから、一冬、二冬持てばいいかと考えました。余った布でリバーシブルのを一個作りましたから、全部で六つ。元となった黒い帽子も入れると七つ。並べてみると、実に壮観な眺めです。思わず写真を撮ってしまいました。
 それでも頭は一つしかないんですから、どうしようと考えてしまいました。よくよく考えて、色の違う三つくらいを出しておいて、あとはまた洋服ダンスの中に入れておこうと思いました。
 それにしても、私のあの冬の帽子、どこに行ったんでしょう。