2013年12月27日金曜日

名優とは

  昔、声帯模写の先代江戸家猫八さんの出ていたドラマを見たとき、この人はすごい俳優にも成れる人だと思ったことを覚えています。
  江戸家猫八さんと言えば、昔々、『お笑い三人組』という長寿番組に出ていましたし、そこで有名になったのですが、私はその時から、何か違和感を持って見ていたのです。お笑いにしては眼が鋭すぎるし,顔が暗すぎるのです。子供心に、どこか作っているお人好しという感じがしていました。
  その猫八さんが、サスペンスのようなものに出ていて、悪役をやっていたとき、『すごい』と思ったのです。『なぜか』、そのときは分かりませんでした。
  でも、今なら、何となく分かるような気がします。きっと、あれが猫八さんの『地』の部分なのだろうと思えたのです。人間は普通の生活では地を出さないように、用心して生きているのです。つまり、演技をして、自分を押さえながら生きているのです。ところが実際は、人間は表に見せる良い面と内に抑えて見せない悪の面があるのです。そう言う面が、役を演じることでほとばしり出たと言えるのではないでしょうか。
  つまり、名優とは、心のうちに、様々な灰汁を持ちながら、現実世界では、上手に切り替えて、まるっきりお人好しのように振る舞える人です。そうすると、猫八さんは名優ではない、正直な人だったかもしれません。
  それに引き換え、あれだけ、悪人から善人までいろいろな役をこなして、エピソードもいっぱい残して亡くなった三国連太郎さんが、徹子の部屋に出たときの、『もの柔らかさ』を奇異な眼で、違和感を持って見てしまいましたが、そう言うことだったのだと今は思います。あれが、この世で生き残るために本人が演出した演技だったのでしょう。そして、地は様々の役を演じるときに出していて、それである意味、ストレスを発散していたのだろうと思います。
  これは歳を重ねて分かることです。歳を取るということは『何となく分かる』ということが増えて来るのです。悪いことばかりではありません。

2013年12月21日土曜日

著者が買い上げ 

 昨年七月の初売り上げから一年目,また新しいストーリイが生まれました。
  高い値段を付けてあった限定版の専門書が売れたのもニュースですが、それよりすごいニュースは、千円を付けてあった小さな、装丁も地味な本が売れたことでした。本当に思わぬ本が売れるのです。
  その本は、元新聞記者が書いたと言う時事エッセイでした。ちょっと読んだのですが、私たち団塊の世代の、もう一つ前の世代のことだったと思います。使用感もうすく、アマゾンにも載っていませんでしたので、小さい本でも千円にしておいたのですが、正直、売れるとは思っていませんでした。
  注文が来た時、本を出して来てみましたら、あっと驚きです。
  その本は、鈴木さんに謹呈された本で、著者のサインと判が押してありました。夫がその鈴木さんから戴いたらしいのです。『しまった』と思いましたが、後の祭り、仕方が無いので、正直に本の様子を書いて、「それでも良かったら」と書いてメールを出しました。
  そしたらなのです。注文者は著者の娘さんで、お父さんに頼まれて、これではない、別の昔の著作を探していたのだそうです。それでこれに行きあたったというのです。まるで小説のような話で,この本のことは著者自身も忘れていたということでしたが、鈴木さんのことは、思い当たるらしく、こんな職業の人ではなかったかと聞いて来ました。夫に確認しましたが、「その鈴木さんは知っているが、本をくれたのがその人かどうかは忘れてしまった」ということでした。
  私は夫が昔、遊び歩いていた北の方の、著者が勤めていたことのあるという病院の名前を夫から聞いたことがあったので、そちらの方ではないかと言いましたが、定かではなく、とにもかくにも、本は著者の手元に帰ったのです。
  戴いた本だし、注文者は著者だし、『どうしようかな』と思いましたが、千円を戴きました。むしろ千円にしておいて良かったと思いました。余り安くしておいたら失礼だったろうし、高くしておいたらお金は取れなかったろうと思います。商人らしく、『いけしゃあしゃあ』と著者に売りつけてしまいました。

2013年12月12日木曜日

年を重ねると、皆同じになる

  私みたいにテレビばかり見ていると気付くのですが、若い頃はきれいな人と、そうでない人の差が歴然です。
  ちょっと海外の例ですが、あの美しい、イングリット・バーグマン主演の『ガス灯』に、若き日のジェシカおばさん、アンジェラ・ランズベリーさんが出ていたのです。こんな事を言っては失礼この上ないのですが、それは確かに役柄通り、美しさも主人と小間使いの差でした。
  でも、今比べたらどうでしょうか。バーグマンさんが生きていたら、ジェシカおばさんとそんなに変わらないと思いますよ。
  ジェシカおばさんにも、ときどき、ゲストで『若い頃はきれいだったろうな』と思わせる老女優さん達が出演されますが、今となってはジェシカおばさんとそんなに変わらない美しさです。
  だから何を言いたいかと言うと、ちょっと痩せて、姿勢よく、身ぎれいにして、きびきびと行動すれば、私のように若い頃は箸にも棒にもかからなかった人でも、美しかった人と互角に対峙できるのだという事です。歳をとると、そんなに変わらないのです。
  だから、歳をとっておしゃれになる人が多いのではないでしょうか。
  かくいう私も、「身体は一つよ」と娘に言われながら、お下がりもお上がりも貰って、ワードローブを一杯にしています。たくさんあれば、どれかとどれかが合うのです。それで大成功、洋服を買う必要なんか全く無くなります。その為には痩せて、どれでも着られるようにしておかなければなりません。この努力だけで良いのです。

2013年12月5日木曜日

本や開店一周年

  開店は昨年の六月二十二日でした。いろいろあったせいもあって、あっという間に一年が過ぎてしまいました。誰も気にしてはいないでしょうが、年次報告を出さないといけません。おかげ様でたくさん買って頂きました。年間総売上は十二万五千円、およそ三十冊。仕入額は考慮に入れませんが、経費を差し引いても、十二万円くらいの純利益になったと思います。もちろん、夫と私が細々と経営する会社の経理に合算しました。
  ところがです、新しいものがどんどん打ち込まれている間は、しかも、それが値段も判らない素人で、グンと安かったりした時期は週に一、二件の注文が来て、さほどお金にはならなくっても忙しい、忙しいと言っていたのですが、一年目も近付いた五月、六月になると、月に一、二件の注文がくれば良い方という干上がった状態になりました。
  一年間の経験で、だいたいの値段の付け方が判ってきましたので、一般的な値段になったのでしょう、お客様には高い値段設定になってしまったのかも知れません。
  家のショップ、エブリカラーには二十二万円のレア本を筆頭に十万円台、数万円を付けたレア本もありますが、そういう本は専門性の高い一冊しか売れませんでした。高くても五千円くらいまでなら何とか売れました。世の中堅実なのです。まあ、それも良いでしょう、動画の絵描きに専念しましょう等と負け惜しみを言っていましたが、ある日ふと気がついたのです。
  それは、まだ違和感の残るお腹の筋肉にむち打って、家の草取りをしていた時です。『そうか、この時期は草取りの時期なんだ』と思ったのです。私だって、草取りに忙しくって、絵の一枚も未だ描けていないのですから。世の中の皆さんだってそうなはずです。
  加えて、野菜等も実り出す夏になるとみんな忙しく身体を動かすようになるのではないでしょうか。そうするとコンピューターなんかあまりさわらなくなるのです。昨年も、夏には、商品は揃っていなかったとは言え、お客さんはほとんどありませんで、注文が来るようになったのは暮れ頃からでした。
  そういう事ですから、ここは気にしないで、草取りも家事も忙しいのですが、絵を描く事に専念しましょう。少なくとも一個の動画くらいは完成させたいものです。

2013年11月28日木曜日

企画書変更

 退院して三日目くらいに痛み止めが無くなりました。強い薬だから飲まない方がいいと先生も思っていたらしいし、薬嫌いの私も飲みたくはなかったので、余分にもらって来なかったのです。「家にはまだ座薬があるから大丈夫です」と強がりを言ったのです。でも、やっぱり痛いのです。動くと痛い、食べると胃が動いて痛い。開腹は胃の真上なのです。
  ほとんど座っているか、寝ているか、身の置き所に困るというのはこういう事なのでしょう。そうすると気持ちが滅入って来るのです。一種の鬱です。何も出来ないという事は辛い事です。始めて病人の気持ちを自分の事として受け入れました。
  家でもシャワーを使う気力はなくて、やっと十日目くらいに恐る恐る身体を洗いました。傷を洗ったのは三週間くらいしてからで、傷には感覚はありませんでしたが、確かにぴったりとくっついていました。ひと月位してから、初めておへそを洗ったら、タオルに血がにじみました。診察を受けに行った時に、先生に話しましたら、すぐに見てくれて、「ちゃんと着いているから心配はいりません。でも石鹸で洗うだけでいいですから清潔にしておいてください」と言われました。それで、消化器外科とは縁が切れたのです。
  今やっとひと月が過ぎて、痛みも大分薄れ、少しずつ家事もするようになって、落ち着きを取り戻して来ました。やっと何かをしよう、何かが出きると思えるようになったのです。これが、希望というものでしょう。体が元気でなければ、希望も持てないのです。
  それで久しぶりに、コンピューターの『企画書』のページを開いてみました。本を作る計画がびっしりと書かれていました。でも、本をまとめる予定だった四月、五月は終わってしまったのです。入院にお金を使ってしまいましたし、力の入らない体力、気力に自信も無くなりました。本を売る自信はもっと無くなりました。
  さてどうしたものかと考えていましたら、テレビで、『泣ける動画』というのが何百万回も見られているというニュースを見ました。色も着いていない下手な絵でした。ストーリイは苦労して成功した夫婦、幸せになったのに夫が友人の保証人になって全てを失ってしまい、荒んだ生活をするようになる。妻はじっと耐えて暮らしていましたが、病気になり、入院してしまう。やっと気がついた夫が駆けつけたときはもう帰らぬ人になっていて、普通ならそこで終わるのでしょうが、その動画は先があって、やがて夫も死に、二人は仲良く天国に昇って行くというもののようでした。そのとき、『動画ならただで出来るのでは』と閃きました。ただなら売れなくても良いわけです。
  ブログは誰も来なくなってやめてしまいましたから、文章だけでは人は見てくれないと気付かされました。『泣ける動画』の話を聞いていましたら、紙芝居で良いわけです。 この一年、傷の養生をしながら、これをやってみようと思いました。ストーリイに合わせて、絵を描いても良いし、写真をとってもいい、音声は自分で入れようと思いました。何せ、役者に憧れた時期もあったのですから、今からやっても良いのです。若い時には出来て、歳をとったから出来ないという事は無いのです。矢沢永吉さんも言っていましたが、『歳をとってもする事がある』という事はありがたい事です。そして、『動画で稼ぐ人びと』のように収入につながればもっとありがたい楽しい事になるでしょう。

2013年11月22日金曜日

消化器外科

  MRIの結果、腫瘍は『腺腫』という良性腫瘍だったと若い先生が教えてくれて、「ステロイドはちょっと多めでしたが、手術に差し支えないでしょう」とゴーサインが出て、十日経った手術予定日の前日に再入院しました。
  これだけの難関を通り抜けて来たのですから、覚悟はできていたのですが、もしかしたら、友人もしたという内視鏡手術で簡単にできるかも知れない等と甘い期待も持っていたのです。 もちろん、準備は開腹になった場合の必需品を全部揃えました。内視鏡で出来ない場合は開腹になると言われていたのです。
  執刀してくれる若いお医者さんとは、その日始めて会いました。家族と研修医の先生を交えた四人で説明を聞きましたが、そこでまた、『ええ、聞いてないよ』という事に出会いました。胆石の手術というのは、胆嚢ごととってしまう事なのだそうです。娘と私で、思わず声を合わせてしまいました。「ええ、胆石をとるんじゃないんですか」。
  きっと先生は、内分泌内科での私のドタキャンを聞いていたのだと思いますが、黙って、私が結論を言うのを待っていました。私もここまで来て、やらないとは言えないと思いました。「お願いします」という他、選択の余地はありません。
  それからがまた初体験の連続でした。内視鏡手術というのはお腹に四個の穴を開けて、鉗子を差し込むらしいのですが、一番大きな穴はおへそのところで、そこから、切り取った胆嚢を取り出すらしいのです。で、先ず、おへその消毒。次に途中で大便が出たりしては大変ですから、下剤を飲んで、大便を出し、浣腸して全部出し切ります。食事はもちろんとれません。小便は手術室に入って麻酔をしてから、すぐに管をつけるのだそうです。  翌日、T字帯と言う紙のふんどしをつけて、手術室に入り、背中に麻酔を打たれてからは、多分丸裸だと思うのですが、本人は知らぬが仏です。
  「こんな大きな石がとれましたよ」と先生に言われて、目を覚ましましたが、意識が戻ったときは集中治療室にいて、夫が、「五時間もかかった大手術だったよ」と言って、帰って行きました。『という事は、開腹だったんだあ』と思いました。手術後一日は集中治療室で、麻酔の中でうつらうつらしていたのです。
  翌日に看護師さんが迎えに来て、車椅子で部屋に戻るのだと言いました。とんでもありません。「本当に痛い。どうしても駄目」と言う私の為に、優しい看護師さんは部屋からベッドを運んで来てくれ、ベッドに移して、そのまま、皆さんに見られないように急いで部屋に戻してくれました。
  次に交代した看護師さんは厳しくって、「点滴をしているのだから点滴に鎮痛剤を入れてくれませんか」という私に、起きて経口の鎮痛剤を飲めと言って聞きません。
  実は私は三十代の頃に耳下腺腫瘍の手術をした事があるのですが、その時は、術後、顔はひん曲がっていたのに、ほとんど痛みを感じなかったような記憶がありましたので、この痛さにはびっくりだったのです。腸閉塞を起こさない為に、一日過ぎたら、動かすというルールがあったようでした。「それでもどうしても痛くて起きられないから先生に頼んで点滴にして欲しい」と言うと、実は一本だけ預かっていると言って点滴に入れてくれました。その点滴が早かったせいか、身体が冷たくなって来て意識が遠のき、『死んでしまうのじゃないか』と思いました。看護師さんは厳しいだけでは駄目ですね。
  夕方執刀医の先生が廻って来て、「僕もがんばったんだから、藤久さんもがんばって起きて下さい」と言いました。確かに開腹手術は先生も大変だったろうと思いました。『これは殺し文句だなあ』と思いましたが、差し出された先生の手にすがって起きてみましたら、何とか起きられました。その日から痛みと運動と麻酔の兼ね合いの日々が始まったのです。
  確かにお腹を切った私も大変でしたが、外科の先生というのは、本当に大変な仕事のようです。ほとんど毎日手術をしているのではないでしょうか。私が入院した日にも手術をしていると言っていましたし、翌日は私の手術でした。私の隣のベッドにはその先生が膿んでしまった盲腸の手術をしたと言う女性がまだいました。手術の時に集中して、完璧にやって、後は切り替えないと、心配でいられないだろうと思います。後を引くタイプの性格では耐えられないのではないでしょうか。
  一週間して、抜糸をして貰うと、随分と楽になりました。お礼の言葉をいろいろと考えましたが、「おかげ様で、あと三十年は生きられそうです。ありがとうございました」と言いました。これが本心です。軌道に乗って来たようにみえるショップの事を考えて、また続けてやれそうな気分になって来たのです。
  シャワーを使ってもいいと言われましたが、とてもそんな気力は起きません。翌日退院。まさに一週間の大攻防でした。

2013年11月17日日曜日

東病棟

  お向かいの彼女のやっとの思いがかなって、私と同じ主治医の先生が首を縦に振ってくれて、彼女が退院した後、先生が私の所にやって来て、言い辛そうに、湾曲に言ったのです。
  「胆嚢を写したMRIで、偶然にも副腎に腫瘍があるのが見つかってしまったんです。内分泌内科の先生のところに行って、話を聞いて来て下さい。」
  腫瘍と聞いて、さすがの私にも緊張感が走りました。今は癌でも治るらしいとは聞いているのですが、副腎というのはホルモンを出す器官で、そこを傷つけたらどうなるのだろうかと、そんな知識が頭をよぎりました。
  私が行かされたのは内分泌内科の部長先生のところでした。その地位になるとあまり外来の患者さんは見ないで、私のような突発的な患者さんを見る事が多いようです。先生は副腎に腫瘍が見つかったという事以外、あまり病気の説明はしないで、検査の日程ばかり気にしていました。その中で一言、「25日に手術を受けるなら、開腹した時に一緒にとってしまう事が出来るかも知れない」と言ったのです。「本当ですか」と私も聞き返しました。開腹手術を二度もやるのは大変な事です。その点では先生も私も意見が一致したのです。「じゃあ、お願いします」と私も言ってしまいました。
  先生は重大そうな検査の日程を先に決めて、その後、主治医の先生に電話をし、「東病棟に移ってもらうから」と言いました。さすがの私もふらふらして、退室するときは意気消沈していました。でも、お任せするしか無いのでしょう。
  私は六十四歳と五ヶ月です。まだ年金は正式に受給年齢に達していないのです。みんなこうして年金をもらう歳になると病気になって貰わないで死んでしまうのかしらと思いました。口惜しい気持ちです。
  それに加えて実は東病棟は、数年前に父が一ヶ月ほど入院して亡くなったところでした。翌日に東病棟に移動して、これはどんな運命なんだろうと考え込んでしまいました。
  その日の午後に、新しく主治医となった若い先生が面談をしてパンフレットを示しながら、私の副腎腫瘍の説明をしてくれました。「腫瘍は左に大きいのが、右に小さいのがあります」。「ええ、両方ですか」と、私。『初耳だよ』と思いました。
  次に検査の説明です。最初の一週間は尿を貯めておいてする検査、その間に副腎のMRI。次にステロイド剤を飲んで、副腎がそのステロイド剤を感知してホルモンを出すのを抑えられるかどうか、ちゃんと機能していれば、身体に余分にあるのを感知して、一定量に保つ為に出さないのだそうです。つまりホルモン過多にはならないんだそうです。
  そして最後は部長先生が張り切って予約を取っていた時間のかかる検査でした。それは放射性物質を注射して、一週間後にそれが左右どちらの副腎に集まっているかを見るのだそうです。放射性物質は発光するので、集まっているのが判るし、大きくても小さくても集まっている方が悪性なのだそうです。「放射性物質ですから、ヨーソ剤を一緒に飲んで頂きます。」と、若い先生はこともなげに言いました。
  本当にその時初めて聞いたのです、悪名高き、ステロイド剤や放射能を身体に入れるなんて。ましてや原発事故の後で配られたと言うヨーソ剤を飲むなんて。
 次に手術の説明でした。手術は腫瘍をとるのではなく、副腎をとるのだそうです。また『ええ』です。先生は副腎は二つあるので、片方をとっても機能は衰えないと言いました。でも、腫瘍が二つあるなら、仮に大きい方をとってしまって、今度は小さい方もとなったら、ホルモンが出なくなってしまうのではないかと思いました。しかも、胆石と同じ先生が執刀するのではなく、別の泌尿器科の先生が執刀するのだそうです。また、『聞いてないよ』です。
  その晩、先生から、パンフレットをお借りして、読みました。そのパンフレットには内視鏡手術も可能と書いてありましたので、先生に聞きましたら、まだそこまで信頼できないのだと言っていました。
  やっぱりこんなときは死んだ人に頼ってしまいますよね。『お父さんどうしよう』と何度も聞きました。父は何とも答えてくれませんでしたが、翌日来た娘が、インターネットで調べたのだと言って持って来た知らせは、『副腎腫瘍はほとんどが良性』というものでした。お医者さんは『良性でも腫瘍はとる』というのが原則だと聞いた事がありましたが、『ほとんどが良性』なんて、言ってくれませんでした。今は癌ならば血液検査でも判ると言われています。血液は何度もとって調べているはずです。ホルモン過多の症状と言われるものも今まで感じた事はありません。
  その晩、決心して若い先生を訪ね、「手術はしない事にしたい」とお願いしました。部長先生と板挟みになる若い先生は困惑したようでしたが、『今回初めて説明を聞いたのだ』と言うと、「僕がもっと早くに説明にいけばよかったですね」と言って理解を示してくれました。それで、検査はステロイド剤までとして、放射性物質の検査はキャンセルしてもらいました。
 担当の看護師さんは、落ち込み加減の私に『やりたくない事はやりたくないとはっきり言っていいのよ』とエールを送ってくれましたが、泌尿器科や外科と連絡を付けてくれていた部長先生には娘も一緒に散々に怒られてしまいました。
  その夜、また父の事を考えました。わが家は癌家系ではないので、父も母も老後は認知症になりました。認知症の大変さを見せてもらった私は、『癌で死ぬか、認知症で死ぬか、どちらかだよ』と父に言われたような気がしました。癌は恐ろしいと言われていますが、死ぬのは同じなのです。むしろ、家族に迷惑をかける率が少ないのではないかとさえ思いました。
  その病棟は内分泌内科ですから。他の二人の患者さんは糖尿病の患者さんでした。先生方も一緒になって、一生懸命血糖値のコントロールを試みていましたが、なかなか難しそうでした。父も糖尿病でしたが、ホルモン等の代謝はなかなか人がコントロールできないのです。

2013年11月15日金曜日

吐いた

 それまでも何度か感じてはいたのですが、案外短時間で収まってしまうので、『食べ過ぎたんだ』と思っていました。その腹いたの起こる間隔が回を追うごとに短くなり、苦しむ時間もだんだん長くなって行き、とうとうある晩、吐いても浣腸をしても、治まらないので、『これは駄目だ』と感じて、真夜中に仕事をしている娘に頼んで、近くの病院の救急センターに連れて行ってもらったのです。
 そこで、液しか出て来なくなるまで吐き続け、ふらつく足でトイレにも行っている間に、点滴や痛み止めの処置をして貰い、レントゲンや簡単なエコー検査もして貰いました。
 最初に聞かれたのは『今まで胆石と言われた事はありませんか』という事でした。何せ、長じてからはあまりお医者さんに行った事のない人ですから、そんな話になった事はありませんでした。結局、あまりはっきりした診断は下されず、一人の先生は『胆石』、もう一人の先生は『胆管炎じゃないかと思うから、なるべく早い時期に消化器内科を受診した方がいい』と言うアドバイスをくれて、痛み止めの座薬を貰って帰されました。
 翌日は日曜日で、痛くなると座薬を使って寝ていました。月曜日には約束があったので、少し治まった状態でやり過ごし、火曜日に何も食べずに消化器内科へ。きっと検査があるから、食べない方がいいと思っていましたが、実際食べられなかったのです。エコー検査の写真を見た先生は『胆嚢炎です。即入院』と言われましたが、翌日も約束があったのです。『すぐに入院は出来ない』というと、『それでは外来で直すようにしますか』と柔軟に言ってくれました。
 それでも、翌日も痛みが引かないのです。約束は娘が代わりに行ってくれると言うので決心して、夫に付き添われて、入院の準備をして再び病院へ、午前中に入院させてもらって、午後、『痛い、まだか』と待ちながら、やっと四時頃、胆嚢の膿を抜き取ってもらいました。
 二、三日、食事は出来ませんでしたが、痛みは無くなり、普通の状態に戻りました。その状態で周りを見回すと、その部屋は六人部屋でした。
 お隣は91歳のきれいなおばあさん。下痢と腹痛で入院したようです。長くいても治らないようで、最後は皆さん、どこかの施設に入ってもらって退院させようと躍起でした。頭のしっかりしたおばあさんの言った、『長生きも骨だ(骨が折れる)』という言葉がよく理解できました。
 その向こうの窓際は癌の患者さんだったようで、手術はもう出来ないと言われたようでした。その向かいの腸閉塞で入院したという若いお母さんに、「手術が出来るという事はまだ治る可能性があるという事だから、がんばりなよ」と言って励ましていました。一人暮らしだったけど、今度退院したら、息子の嫁さんが仕事を辞めて、子供達と一緒に来てくれると嬉しそうに隣のおばあさんに話していました。胆嚢の癌だと言っていたような気がします。退院後に陽子線治療を受けるのか、がんセンターのようなところへ行く紹介状をもらっていました。
 向かい側の真ん中のベッドは点滴だけのなれた感じの患者さんで三泊四日くらいで退院して行きました。
 出入口側の私の前のベッドは七十代後半の女性で、娘や息子は遠くに住んでいるので、八十代の夫を施設に預けて、町の介護タクシーに乗ってやって来たのだと言っていました。『これからはこういう人達が多くなるだろうなあ』と思わせるような典型的な例で、いつも『早く帰らなくては』と足掻きしていました。
 『みんなそれぞれに苦労があるのだなあ』と思いました。
 やがて、私はこのままでは何度でも胆嚢炎を引き起こす可能性があるので、胆石の手術を受けた方がいいと勧められ、消化器外科の偉い先生のところへ家族とともに行かされて、簡単な説明を受け、出来るだけ早い日程で手術をお願いしてきました。その為のMRIやCT、更には胃カメラは、そのまま入院して消化器内科で受ける事になったのですが、すべてが初体験の私は戦々恐々で、お向かいの彼女に話しましたら、彼女は既に七十代の前半の時に胆石の手術を受け、指輪に出きるほどのきれいな胆石を取り出してもらった、『何でもお任せした状態で、やってもらえばいいのよ』とアドバイスしてくれました。
 でも、その間にもショップにお客さんが来てくれたのです。娘が退院日を書いて待ってもらいました。ありがとうございます。

2013年11月8日金曜日

自分を認めてもらいたい人は

 夫は昔、友人のお医者様に『過適応なんじゃないか』と言われた事がありました。
 家族以外の誰に対してもそうですが、サービス精神が旺盛なのです。家と外の顔の差が極端なのです。会社をやっていた若い頃は、接待、招待と称して、仕事関係の友人を誘っては毎晩のように料理屋さんで飲み続けていたました。
 家族は全くの対象外で、どこにも誘ってくれませんし、食事にも連れて行く等と言いませんので、苦しい生活の中で、請求書を廻される会計係の私は、絶望もいいところでした。
 本当にどうゆう性格なんだろうと思っていましたが、確かにあの言葉は当たっていたかも知れないと今は思います。
 つまり、自分の大好きな人、憧れの人に自分を認めてもらいたい一心なのです。サービス精神を通り越して、まるで子供のように追いかけ回していたような気がします。
 夫が末っ子だったという事もあるかもしれません。つまり、周りの大人は全部自分を庇護してくれる存在のように思えて、甘えていたのかもしれません。
 最近、夫も歳をとりましたから、認めてもらいたいと甘えられる先輩達はほとんどいなくなりました。この頃少しはしゃんとして来たように思えますが、同時につまらなそうでもあります。
 しかし、私はこれがまともな生活だと思います。私もそうでしたが、若い頃は人に認めてもらいたいものなのです。そうある事を願って、一生懸命努力します。ほとんど叶いませんが。やがて、認めてもらいたい人達が死んでしまうと、やっと気付くのです。自分にとって何が大事なのか。私達もその年代に達したと言う事です。

2013年11月3日日曜日

前に進むのが恐怖 

 時々、こんな事を感じる事があります。心が立ち止まってしまって動けなくなるのです。一種の鬱でしょうか。
  チャレンジという表題通り、今しているネットショップ、エブリカラーはすべて初めての事ばかりなんです。一歩一歩、未知の山へ踏み分けているのと同じなのです。
  注文の来ていないメールページを開けたときは淋しく感じますが、いざ、注文が来ていると、今度はドキッとして、家中に『きた、きた』と触れ回ります。口に出して家族に伝える事によって、家族の承認と応援を得たような気になって、どこか安心するのです。どこかに、何かをするという恐怖感があるのです。
  古物商の許可を取るという項目が、なかなか踏み出せなくて、六月末から開いたショップ、エブリカラーに、新刊の三冊しか並べていないときが、二ヶ月も続きました。やっと、九月になって、自分で自分のお尻を叩きながら警察署に行ったのです。前に進むという事が、心理的にこんなに大変なものなのは私だけなのでしょうか。
  注文が入ると、すぐに商品を見つけて、返事を書き、緩衝剤でくるんで、発送の準備をするのですが、一つ一つ確認しながら進めている行程のどこかで、お金を貰うという後ろめたさを感じているのです。まさに、吉江氏の言われた『お金を貰う後ろめたさ』です。だって、労働をボランティアで提供している人もいるのです。家にある古本はもう、読まれない本なのに、それに値段を付けて売るという事に、どこかあさましさを感じてしまいます。軽蔑されているかも知れないという思いが頭をよぎる事もあります。気弱になって『もう止めてもいいかな』という気が頭をもたげる事もあります。
  そんな時、「いけしゃあしゃあとやれ」という吉江氏の言葉は背中を押してくれますが、それでもときどきは心が立ち止まってしまいます。それを、今度は家族の励ましが後押ししてくれるのです。『ここまで来たのに止められない』と思わされます。これが社会の一員として生きるということです。
  等といい子ぶっていますが、これでも随分と商人らしくなりました。レア本には高い値段を付け、自分の本を作って売ろうとまで考えているのですから、厚顔も甚だしくなって来たのです。まだまだ引き下がりませんよ。後にはこの『チャレンジ』という壁があるのですから。壁を背負って立っているのですから。目の前の課題を一つ一つ征服して行くしか無いのです。

2013年10月24日木曜日

自費出版 

 写真の豊富な夫の本と違って、私の本は文章だけですから、安くできるだろうと考えたのです。それで、一番安いと言われる印刷製本屋さんのページを検索しました。ところが、何度見てみても、高いのです。
  100部で10万円といったら、一冊千円です。私は一冊千円で売りたかったのですが、それで原稿料も、販売手数料もと思うと、500部以上作らないと採算が合わないのです。私の本なんて、10部売れれば充分と思っていましたが、10部だと一冊あたりがもっとずっと高くなってしまいます。大変な誤算でした。
  その後、コンピューターに詳しい友人に、その事を話す機会があって、聞いてみましたら、その方は、ちょっとした冊子なら自分で手作りすると言っていました。つまりこの間の房総旅行を企画した方ですが、その時私達に見学先の冊子式のパンフレットを作ってくれたのです。A4版の薄い冊子でしたが、確かに本の体裁をしていました。40部作ったのだそうです。
  その時、手作りの仕方を教えてくれましたが、素人は一度聞いても覚えられません。そこはネット検索とばかり、調べてみましたら、ありました。まだはっきりと印刷製本の道筋が判ったわけではありませんが、30部、これにしようかと心が動きました。
  私は洋服も手作りするくらいですから、割と器用なのです。手本とする本はたくさんありますし、機器類も、インクジェット、レーザーの両プリンター、古いですがコピー機、等、ありますから、『何とかできる』と踏んだのです。これもチャレンジです。
  でも、一晩寝床で考えました。コピーというのは普通一枚八円です。200ページの本なら、コピー費だけで一冊千六百円です。そこまで考えると、素人の手作りは意外と高くつくのかも知れないと思えました。
  それでも、一冊だけは作ってみようと思います。印刷製本を頼むにしろ、見本があった方が便利ですし、本作りの基本的な用語や工程を知っておく事は、人に頼むときでも役に立ちます。その印刷製本屋さんのホームページを見るだに、使われている用語が全く判らず知識のなさが思い知らされているのですから。それに、紙質等も自分の目で見て、手で触ってみなければ判りません。
  うまく行ったら、いつか印刷屋さんに頼んで、ちゃんとした本を作り、ショップに並べようかという所まで思いは進んで行きました。

2013年10月18日金曜日

リセット、リスタートの物語 

 春頃にネットショップを思い付いて勉強を始めた時から、かれこれ一年になろうとしています。
  その読んだ教科書の最初に書いてあったのが、『企画書を作りなさい』という事でした。それで、一ヶ月ごとの行動計画のようなものをエクセルに打ち込みました。幸い私一人の事ですから、人に判ってもらうようなプレゼンテーションなんか要らないんです。時々は開いて、予定の修正をしたり、成果を書き込んだりしていました。
  昨年、最初に企画書に書いた事で、うまくいった事は、商品の展示でした。娘に教わったスキャナーで簡単に写真が撮れたこともあって、本格的に展示を始めたのは『古物商の許可がいらない』と知った九月頃からだと思いますが、それからおよそ半年くらいで、予定のほとんどを並べ終える事が出来ました。最初は一年半くらいと見込んでいたので、格段の時間短縮です。
  確かに商品の数に比例してページビューも増えました。  駄目なものもありました。『ブログを書いて集客を見込む』というのは今や誰も来なくなってしまいましたし、吉江氏のような『コンテンツビジネス』や教科書に書いてある『サービスを組み込む』という項目は、今のところ、全くイメージすら沸いてきません。やはり、人に言われてするのは難しいのです。自分の発想を膨らませるしかないのです。
  次の段階の企画としては、『自分の本を自費出版してエブリカラーに並べる』というのが書いてありました。次はこれにチャレンジしようと思います。
  何を隠そう、元々、私は物書きになりたかったのです。今までに何編かのフィクションやノンフィクションを書いては新人賞に応募していました。もちろんどれもボツ、もう、疾っくに新人の範疇には入らない歳になってしまいました。
  それで、若い頃の『浜崎あゆみ』さんが、自分の詩を印刷して、路上で売っていたという伝説を思い起こして、『自分で作って自分で売ろう』と考えたのです。こういう行動は若い詩人にこそ似つかわしいと思いますが、六十過ぎのおばあさんでもネットなら恥ずかしくはないでしょう。顔も身体も見えませんから。
  最初に考えたのが、五十三歳頃から書き始めて九年書き続けた『人生リセットの物語』です。その後はこの『人生リスタートの物語』。
  これらがうまくいったら、夫の本を再び作ろうと企画しまして、再来年度の企画書に書き込みました。二年分の企画です。その後に、エブリカラーの見直しが来るわけです。

2013年10月11日金曜日

本を読むようになりました

  いざ、人に売ろうと思って本を並べていても、ときどき、『ああ、これは読みたい』と思う本が出て来るのです。そういうときは、ショップ、エブリカラーに入れるのを止めて、枕元の箱に入れておきます。
  そういう本が箱にいっぱいになって、いっこうに減りません。私は元々、気分屋で読むのが遅いのです。つまり集中力が無くって、気が散るせいか、いろいろの事は同時進行で割り方良くできるのですが、一つの事を完成させるのに結構長い時間がかかるのです。
  それが人生の波を乗り越える上で悪いという事ではないと、今は思いますが、物書きとしてはマイナス要素だと思います。つまり、本を読んでいても他の事が頭に浮かんで来て、なかなか前に進まないのです。そうすると、一つの本を読むのに、一ヶ月以上もかかってしまいます。たくさんの知識を必要とする物書きは、昔から本をたくさん読みなさいと言われていたので、先ず、この時点からして劣等感でした。
  私の知人は私に本の話を新幹線に乗っている間中しても飽きない人ですが、実はそれに刺激されて、私にはあまり似つかわしくない『ゲド戦記』なるファンタジー小説を読んでしまった事があったのですが、その後、やはり房総旅行で会った時に、塩野七生のローマの本を読み尽くしたと言っていました。私に「貸してあげましょうか」と言ってくれたのですが、丁重にご遠慮しました。この遅さですから、一年かかっても読み終わらないでしょう。
  でも、最近、本の読み方にもいろいろあるのだという事を、テレビで見て実はホッとした事がありました。朝まで一気に読むという荒俣宏さんのような人ばかりではないのです。その中にあちこちに読みかけの本を置いておくと言う方がいました。トイレに一冊、風呂に一冊、電車で読むようにカバンに一冊、もちろん枕元に一冊。みんな違う本なのだそうです。しおりは入れないで、どこまで読んだかは自分の記憶力で探すと言っていました。同じところを読み返してもいいという大らかさが必要のようです。そうすると頭の体操にもなるそうです。
  これはいいと思いまして、今は、枕元が主ですが、玄関先、バッグの中、いつも寄る図書館と、あちこちに本をチラバしました。これで準備万端と思いましたが、なかなかそうも行きません。それでも、まあ、これで月に一冊ぐらいは読んでいるのですから、格段の進歩です。

2013年10月6日日曜日

テレビの影響 

 昨今、まるでテロ行為のような無差別殺人のニュースが散発的に聞こえてきます。この歳になると、『どうしてだろう』等と考える事も避けて通りたい気分ですが、テレビに逃げ込み気味の私が好きで見ているサスペンスものも影響しているのかなあと思ってしまいます。
  あれって、必ず人が殺されるのです。そして、殺された後の段階だけなら、死体を見せるだけで済みますが、その殺人の場面まで映し出すのです。手近な石で殴り殺したり、ハンマーを使ったり、首を絞めたり、階段を突き落としたり、どれも簡単に殺人が出来てしまうのです。
  意外と神経質な夫は、私の趣味を『気持ちが悪い』と吐き捨てるように言いますが、嫌悪感を持っている方が健全なのかも知れません。
  私のように人ごととして見ている分にはいいのですが、『ああ、意外と簡単だ』と思ってしまう人や、知識として取り込んでしまう子供達に、影響が出ているのではないかと心配する人がいるのは当然です。サブリミナル効果というのもあります。私でさえときどき感じますから。
  わが家では、親達も子供達もテレビゲームはほとんどした事がありませんが、テレビゲームの悪影響を言う人もいます。ゲームというのは野球だってサッカーだって、相撲だって、戦いです。戦って相手をやっつけるのです。スポーツが良くてテレビゲームが駄目というのもおかしな話ですが、テレビゲームは自分の身体に、汗と痛みを感じないから、人の苦労や痛みが判らないとよく言われます。
  それではやっぱり私のようにテレビスポーツ観戦ばっかりしている人は、人の痛みが判らないのでしょうか。そんな事はありません、人間がしているのを見ていれば、『ああ大変なんだな』とか、『負けて口惜しいだろうな』とか、プレイヤーに対して同調する心が出てきますから、ちょっとは違うような気がします。
  テレビゲームは人ではないのです。軍隊の司令官が戦いのゴーサインを出すように、危険な戦いのゴーサインを心の通わない架空の兵士や、死なずに起き上がるサイボーグに出しているので、いつの間にか、世の中は無機質なもので、意のままにしてもいい存在であると錯覚してしまうのでしょうか。
  でも、こういう意識って、甘やかされて育った子供には昔からありますよね。私もそうでしたから。それでも、長く生きて来ると、どこかの時点で頭を叩かれるのです。判らせられるのです。そして、私のように対人恐怖症になるのかも知れません。そうしたら、対人恐怖症も人間としての進歩、通るべき関門と言うべきでしょうか。
  何が言いたいのか判らなくなってしまいましたが、人はやっぱり優しく教育し,されるべきだと思います。色々な経験をして、お互いに庇いあいながら生きるようにすれば、ストレスも減り、例えテロの仕方は知っていても、相手を思いやれれば行動にまで走ることはなくなると思います。私がそうできたかという事は置いておいて。

2013年9月30日月曜日

動画で稼いでいる人 

 人生は『早めにやりたいことを見つけた人が勝ち』と、昔、英語塾をしていた時に生徒さん達に言っていました。でもきっと、一番見つけられないでいたのは私だったかも知れません。あれからいろんな仕事を転々としました。
  と言っても、家庭もあり、身軽に動けるわけではありませんから、いやな事も好きな事も、必要に迫られて、ほとんど同時進行のようにして、やっていたのです。だから、能力の問題もありましたが、何がやりたかったのか、未だに良く判りません。そして、六十三歳からネット本屋になったのです。
  そんなある日、テレビを見ていましたら、『動画で稼いでいる人』というミニ特集がありました。あまり気にも留めずに見ていたのですが、確か、二件か三件の例が報告されていたと思います。
  一人目は、定年後の生活の補助収入として、ネット動画を投稿して、広告収入を得ている人の例でした。元々写真が好きだったのでしょうね。写真機はもちろん、いろんな機器類がところ狭しと並んでいました。どのくらい稼げるのかは言っていなかったと思います。でも、娘が聞きかじりで、月に20万くらいになるのだと言っていました。
  しかし、だからと言って、私がこれを真似できるわけではあません。彼はこれが好きなのです。
 二人目は独自の化粧法を開発して、自分がモデルになり、皆さんに公開したところ、思わぬ反響を呼んで、それが、良い収入であった為に会社を辞めて動画投稿専門になったOLの話でした。収入になる動画の数が多ければ、OLの給料よりよかったと言う事でしょう。そして、彼女もまたこういう生活が好きなのでしょう。いや、OLの生活より好きと言うべきかも知れません。
  やりたい事なんて、みんな手探りで探しているのです。五感を働かせて、これよりこれ、あれよりこれ。そして、いつの間にかやりたかったところに流れ着くのでしょう。私のような、仕事をよく変える人は、昔は『辛抱が足りない』といわれたりしましたが、今は『ストレスで病気になる』と言われる時代でもありますから、やっぱり、好きな事を探して仕事をして行く事は大事のような気がします。
  そういえば、他の番組では、大根農家の女性が、変形した大根を人のように装わせて、『逃げる大根』なる動画をコマドリで撮影し、投稿して話題になった話をしていました。『大根の生産出荷は単純作業で、ストレスになる事もあるけれど、その中にこうした楽しい事を織り交ぜて行くと、毎日に変化と弾みがつく』というような事を言っていたと思います。彼女は生活の中に『辛抱』と『ストレス発散』の両方を見事に取り入れたのです。
  写真のコマドリぐらいなら私にも出来そうな気がしますから、いつか、私にも撮りたい対象が出て来たら、挑戦したいものだと思います。そういえば、ユーチューブの閲覧者が10億人を超えたそうです。

2013年9月24日火曜日

出会いについて 

 『出会いをありがとう』というのはビジネスマンの話だと思っていました。ビジネスマンは出会いがなければ仕事にならないですからね。
  でも、『生きていくという事は出会いの連続なのだ』とこの頃思います。
  例えば、私は小学生の頃、シェークスピアに出あって、その頃、シェークスピアの全てを理解したとは言えませんが、物語を作る人に憧れたのです。その後も憧れは続き、英文学を専攻しましたが、私がシェークスピアに近付けたとは全く言えませんでした。でも、その出会いから一つだけ生まれた事がありました。家族を引き連れてのヨーロッパ貧乏旅行です。そのとき、イギリスのストラッドフォードアポンエイボンに行ったのです。シェークスピアの生まれた町を一度見たかったのです。その町は何百年もの間、そういう人達でにぎわっているようでした。これも出会いではありませんか。
  もう一つ感じたのは、先日、房総一周旅行に参加させてもらった時の事です。その旅行は友人が企画して、夫を講師に招いてくれ、毎年一回同じようなメンバーが、元気な顔を確かめあうように参加する楽しい旅行でした。
  今回友人は夫が修理工事をした事のある飯縄寺を取り上げてくれ、そのお寺のご住職と、やはり以前に訪ねた事のある行元寺のご住職が、「今日あるのは先生との出会いのお蔭」とお話の中に取り上げてくださり、夫も面目躍如の思いをさせて頂きました。
  でも実は数年に渡る工事をしていた頃はいろいろ問題も起こりまして、その事を忘れられない対人恐怖症の私は戦々恐々だったのです。それを見事に昇華させてくれたのは、多分企画した友人の根回しと『波の伊八』だったのだと思います。
  房総は昔から江戸に近かったのです。江戸からお寺さんに来る道中記もあったと聞いています。それが、修理も無事なった近年、ご住職が「誰か来てくれますように」と天狗さんに頼んでいたところ、何日目かにJRの方達が来て、文化財修復支援事業で仁王門を修復してくれ、更に『デスティネーションキャンペーン』という企画で、この地方のお寺の広告をJRすべての車輌に掲げてくれたのだと言っていました。もう一つのお寺にもそのようなビラが貼られていました。その中心にいたのが波を彫らせたら並ぶもの無しと言われた『波の伊八』だったのです。
  最初に行った飯縄寺の結界欄間には『天狗と牛若丸』という最高傑作の一つと言われる繊細な欄間彫刻がありました。もう一つの行元寺さんには『波に宝珠』という横波の波涛に宝珠が浮かぶ様子を描いた欄間彫刻があります。これを見た葛飾北斎が『神奈川沖浪裏』という浮世絵にその描法を用いたのだそうです。『これはやがてゴッホやクローデルの波に転生し、またドビッシーの交響曲『ラ・メール』の誕生になったと言われます』と説明書に書いてありました。
  大きく実るにしろ、小さく実るにしろ、毎日は確かにこういう出会いの連続のような気がします。
  私の私のショップ、エブリカラーにしてからがそうです。最初のお客様で緩衝剤を入れ忘れ、次からは注意しました。送った商品が届かなくて、お客様と一緒に探しまわり、危機管理を学びました。お客様の代引きのご希望に添うように学習して出来るようになりました。音楽関係のような失敗学習もありましたが、大量注文を頂いて箱で送る方法も学びました。適切な(と思われる)値段もアマゾンやお客様の反応を見て学びました。つまり、アマゾンに載っていない本の引き合いが多かったのです。やがて、そういう本は高く売れるのだという事に気付きました。
  大きな実りばかりを期待しないで、小さな出会いも楽しんで大事にして行けば、年齢に関係なく、やがて成長につながるのだと思いました。

2013年9月22日日曜日

愛くん 

 今、NHKの連続テレビ小説は『純と愛』です。ホテル経営という目的意識を持った女の子と、双子の兄弟に死なれてしまっておかしくなってしまった男の子が結婚して一緒にホテル経営を目指すという物語ですが、今この時点では、まだ結末は判っていません。
  その男の子、愛くんはどんなところがおかしいかと言うと、人と目を合わせると、相手の心が見えてしまうのです。そうすると、恐ろしくて相手の顔を見られない。少しでも相手の心に悪意を感じると、口も利けないし、近付く事も出来なくなってしまうのです。
 そんなふうですから、仕事にもいけないので、純さんが外で働いて、才能豊かな愛くんは得意の料理やコンピューターの知識を駆使して、純さんを内から支える生活を始めるわけです。
 で、何に感激してこんなストーリー説明をしているかと言うと、作者の着眼点です。『相手の心が見えてしまって恐ろしくって』という経験は誰にでもある事なのですよね。『目を見ると』とか、『顔を見ると』とかという極端な事ではなくっても、『言葉の端々』とか、『態度』とか、『表情』とかに出た相手の感情に恐怖を感じる事は誰にでもある事ではありませんか。特に、世の中、勢いよく生活している人に対する時に。
  『気後れ』がするというのかも知れませんが、私の『対人恐怖症』もその種のもののような気がしたのです。
  で、愛くんは、純さんの愛情に守られて生活しているうちに、だんだん相手の顔を見ても心が見えなくなって行くのです。それは今度は自分の方に勢いが出て来たからだと思います。自信が着いて来たという事です。自分から発信する勢いです。
  『なるほど』と思いました。
  自分の事を振り返ってみますと、子供の頃の私は、親の権威に甘やかされて勢いが良かったのです。世の中の事をあまり知らずに結婚したものですから結婚後もそうでした。あまりの勢いに夫は『恐ろしい』と言った事もありました。ある意味では世の中への恐怖に対抗しての勢いだったのかも知れません。
  それが、やっと生活が落ち着いて、お金の心配をしなくても良くなって、自分も落ち着いて内省するようになり、同時に人びとの顔や社会状況も見回せるようになってみると、今までの自分に対する評価が気になり出したのです。『悪い事をしたな』とか、『恨んでいるだろうな』とか、そればかりではなかったはずなのに、そればかりが思い浮かんで、人に近づけなくなってしまうのです。
  愛くんの恐怖心も、その家族全員の苦しみも、死んでしまった双子の弟に『なぜもっとしてやれなかったのだろう』という後悔ばかりが浮かんで来るからなのではないでしょうか。
  私もお蔭で、身内には随分優しくなりましたが、新しい人間関係を築こうとは思わなくなりました。
  ある意味、『歳をとって丸くなる』と言うのはこういう意味なのかもしれないと思う事もあります。誘ってくれる友人知人には申し訳ないですが、『良い事なのだ』と思う事もあります。そして、理想の境地は、『周りのみんなに優しく、恐怖感を感じさせない勢い(自信)を持つ事だ』と、今は思います。
93㎆入りました

  ショップには全体で100㎆入れていいのですが、最初から、余裕を残して95㎆くらいにしようと思っていました。後から入れたいものが出て来たときのために空けておきたかったのです。
  およそ90㎆前後になった頃、そろそろ、入れられそうな本も底を突き出しました。本棚の上の方にあった、夫のお仲間たちがつくった専門書、たくさんあっても、もうほとんど読まなくなってしまったものなので、「入れていいか」と聞きましたら、「いい」ということだったので、42冊ほど,レア本として、高めの値段を付けていれました。
  これで、やっと91㎆を超えて行き、更に後は何かと探しましたら、本棚の一番下にある大きな本に気がつきました。重要文化財の美術全集です。美術全集は二種類あって、古い方は諦めて、上の娘が貰うことになっていたのですが、もう一種類のこちらは入れてみようかということになり、クリーニングをしながら、点検してみますと、三巻ほど紛失していました。これだけ大きい本ですから、どこかにまぎれていること等は考えられませんから、無いものとして、一冊ずつ写真を撮り、29冊アップして行きましたら、やっと、93㎆を超えて行きました。
  「これで終わりにする」と家中に宣言しました。後は私の枕元にあってまだ読んでいない本や、読みたいと思って外してある『生活の世界歴史』10巻を入れれば、95㎆くらいになるだろうと計算したのです。時は2月、前年6月の末に、最初の三冊をいれてから、夏休みを挟んで、正味7ヶ月、まさに計画通り、入れられそうな本はほとんど入れました。後は時々手直しをしながら、見つけた本をちょこちょこ入れながら、お客様の注文を待っていれば良いわけです。万歳、一段落。
  早速、3月Ⅰ日に計12冊の大量注文を頂いてしまいまして、ここで初めてゆうパックという、箱で送る経験をさせて貰いました。何事も勉強です。
  学んだことの一つは、ゆうパックはゆうメールと違って、手紙を入れてもいいのだそうです。だから、入っていないかどうか、中を見せてから封をするということは必要ないようでした。知らなかった私は領収書を別便で送ってしまいました。
  もう一つ、これは重量だけでなく、箱の大きさでも値段が変わるのです。一応ネットで、値段を調べてから郵便局に行ったのですが、私が調べたのは縦横長さが60センチ以内という値段でした。実際郵便局員の女性が測ってくれると、80センチギリギリで、彼女はテープを貼り直して縮めてくれ、80センチに収めてくれました。それでも予定より200円オーバー。良い勉強になりました。
  それで、12冊減ったのだから、㎆は減ったろうと思いましたら、一つが5冊セットのものだったので、まだ92㎆以上ありました。二年後くらいには全面的な手直しをしようと思っていますが、その頃までにどのくらい減っているでしょうか。楽しみです。
仕事はハードなもの 

 二月始めにも四件ほどお買い上げいただきました。一番うれしかったのは自費出版の新刊をお買い上げいただいたことです。そうなんです。それが売りたいばっかりにショップを開いたのです。手持ちの中古本の販売はおまけのようなものです。勿論売れなければ困ります。家もいっぱいですから。
  その中に、ファッショングラフィティなる、およそわが家の所蔵本としては似つかわしくない本がありました。夫が知り合いの方から頂いたか、買ったか、著者のサイン入りでした。
  それはとても大きくて重いペーパーカバーの本で、中は見るもまばゆい民族衣装のオンパレードのようでした。ようでしたというのは、わが家ではそういう本を好んで見る人はいないのです。夫の興味は建築、歴史、宗教。私は文学、歴史、ハウツー本。娘は歴史、映画,漫画。嫁に行った上の娘はこれに占いの本が入ります。
  だから、本の中はとてもきれいだったのですが、重い本なので、何度かの引越しでぺ—パーカバーの上部に擦り傷や破れができてしまっていました。帯も日に焼けて緩んでいました。こういう装丁の本は傷み易いのだと思いますが、アマゾンに出ているのを調べても、中身はこれだけ豪華な本なのに、高い値段のついているものはありませんでした。  で、中身で勝負とばかり,著者サインにも後押しされて、値段を少し高めに設定しました。
  お客さんは同じものを二冊買ったのだそうです。そして比べてみたら、私の送った本がみすぼらしいのに高いと言って、お叱りのメールを頂きました。  大分ショックでした。確かに表面はみすぼらしいのです。だから、最初に『ごめんなさい』と書いて,高い理由も書いて、『返品でもいいですよ』と書いて返信しました。初めての返品かと思いました。そこはすぐにへこたれる私ですから、しばらく意気消沈していました。
  けれどもすぐに、メールが来て、『表紙を見てショックを受けてあんなメールを書きましたが、中はきれいでしたので、このまま頂いておきます。大事にします』と書かれていました。感謝のメールを送りました。だって、家ではあの本の居場所は無かったのですから。
  もう一つ、意気消沈したことがありました。最初の頃、いらないものの代表として、古いレコードがあったので、音楽関係という項目をつくって安く、並べてありました。そこの注文が来てしまったのです。『どうしよう』と思いました。レコードプレーヤーだって、とっくの昔にありませんから、聞こえるのかどうか,確かめるすべもありません。一晩悩んだ末に、一応送って,向こうで確かめてもらうことにして、「もしダメだったら廃棄して下さい」と書きました。
  その上にもう一つ攻められるべきことがあって、私は聞いたことの無いレコードだったので、『未使用』と書いてしまったのです。でも中を見たら、『使用感あり』で、多分、娘のものだったのでしょう。これを書きましたら、即、返信があって、その方は、未使用のものが欲しかったようです。未使用のレアなレコードから専門の業者に頼んでCDをつくるのだと言っていました。『プロなのだなあ』とちょっと背筋が寒くなりました。その時は、もう送ってしまった後で、結局向こうで廃棄してもらうことにしました。
  勿論、慌てて音楽関係のカテゴリーは削除しました。これも意気消沈しましたが、『自信の持てない商品は並べない』というのは当たり前のことなのです。学習させてもらいました。
  で、しばらく、沈みがちだった私に、最初に読んだ営業マンの吉江氏の『いけしゃあしゃあとやれ』という言葉が浮かんできました。夫も、「引きずらないことだよ」と励ましてくれましたが、元々、すぐに忘れてしまって引きずらない名人の夫はこういうときはいい手本になります。
ビフォーアフターより安い 

 ところで、この暮れ正月、夫と私は大げんかをしました。
  いえいえ、本の事ではありません。夫がいつもの脳天気を起こして、NPO法人の理事長になると言い出したからです。昔、財団法人の理事長になって大変な思いをした事を、事務方をした私は忘れないのに、得意顔で名刺を配っていた夫は覚えていないのでしょうか。仲間内で推薦されたのだと言って、ニコニコして帰って来ました。
  大げんかになりましたが、怒るよりも呆れ果ててしまった私は、今回はそこで止まってはいませんでした。
  「私も年金が入る歳になったし、ビフォーアフター用にと貯めていた貯金もあるから、この際、家を買って離婚する。この年でもうあんな思いをするのはいやだから」と、さっそくコンピューターで家探しを始めました。
  お金のなかった昔は、子供達もまだ独立前で、どんなに不本意で大げんかをしても夫の言う事に従うしかなかったのですが、今回はお互いにわずかずつでも生活の資になる年金があり、本屋さんは諦めるにしても、少しだけ、自由になるお金がある。それが私の行動を後押ししてくれました。
  それに、『ああこれでこの脳天気と縁が切れる』と思ったら、淋しさよりもホッとする気持ちの方が正直強かったのです。
  更に驚いた事には、コンピューターで一千万円以下で買える家を探してみると、地価の下がったわが家の近くでは結構あるのです。少子化の時代ですから、家余りの時代でもあるのでしょう。その中の一軒は、高速道路の近くで何か問題もあるのかと思いましたが、七〇〇万円超くらいで、築十数年でした。大きくはありませんでしたが、私と娘には充分です。テレビで見ていても『ビフォーアフター』のリフォーム工事には少なくても一千万円はかかっています。中古物件を探した方が安いのではないかと思ってしまいました。
  最初のうちはさほどおおごとだと思ってもいなかったらしい夫は「このところは中古住宅も値上がりしているらしいよ」等と叫んでいましたが、私の本気度が増すに連れて、「俺は断ったんだけど、どうしても押し切られてしまったんだ」と言い訳をしながら、お仲間に断りの電話を入れ始めました。
  それから、二、三日して、お仲間全員に断りの手紙を出して、やっと一件落着しました。まさに夫婦はときどき戦争ですね。
  夫もまだ何かしたいし、出来ると思っているのでしょうが、今まで失敗の方が多くて、不安な思いも何遍もした事を思えば、七十歳も超え、健康面でも問題を抱えているこの先、気楽な仕事以外は出来ないはずなのです。私だってそうです。失敗の可能性のある仕事は、歳をとってからはしてはいけないのです。
ふるさと文庫 250冊

  いよいよ棚二列に並んだ『ふるさと文庫』の番です。前にも何度かお話ししましたように、お金のない時代に、夫が毎月、5、6冊、三、四千円払って、買い続けていたものでした。お金を払って、そのまま手近の本棚に並べてしまうのです。苦しい生活をしていた私はついに堪らなくなって、「もうダメ」と言いました。それが本棚に二段,今でも残っているのです。数年前、古本屋さんに来てもらって持って行ってもらったものの中にはそれらは入れられなかったのでしょう。何せ、読んでいないのですから。
  きっとそういう人が多かったのでしょう、アマゾンの古本コーナーには大抵のものが出ています。皆さん読み切れずに,古本屋さんに渡してしまったものが多いのではないでしょうか。私の叔父は読んでいると、昔,言っていましたが。
  だから、値段を調べるのは楽でした。家のは、ちょっと焼けがあってもほとんど未使用ですから、高めの値段設定になってしまいます。『こんなにたくさんあるのに、この値段では売れないだろうな』と思いながら入れて行くと、中には『あっ』と驚くような高い値段のついたものも出て来ます。それと、冊数が余り出ていないものはけっこう高いのです。ですから、アマゾンに出ていないものは、高い値段にしても良いのでしょうが、それは需要と供給の問題ですから、なかなかそうもできません。
  そう言えば、最初の頃、まだ『ふるさと文庫』を集中して出していなかったときに、一、二冊出したものがありました。アマゾンに載っていなかったので、二倍の値段にして出しておいたのですが、早々に買って下さった方がいて、その本は同じものが二冊あったのですが、後で同じ方がもう一冊も欲しいと注文してくれました。
  勿論『ダメ』と言いました。だって、最初の一冊を読んでいないということでしょう。どうしちゃったのでしょう。『せっかく未使用のいい方を送ったのに』と、腹を立てるのもお客様に対して失礼なのですが、行方が気になってしまいます。
  それで、最初の方で入れた本の値段を見直して値上げをしました。そうしましたら、正月から二月初めにかけて、週に一冊の割で来ていた注文がぱたりと来なくなってしまいました。
  いいんです。本当に欲しいと思って下さる方が来て下されば。月に一冊だって、年に一冊だって。  このあと、希少本の報告書の類いも入れて、いよいよ、80㎆になりました。
22万円の本が棚の上にあったのです

  夫が姑の絵の勉強用にと買ってあげた『芥子園画伝』という本が夫の本棚に並んでいましたので、今は使わなくなってしまったあの本達もショップにアップしなければならないと棚から下ろしていましたら、その先に箱があったのです。何が入っているのか、『また要らない紙類かしら』と思いました。事実、要らない紙類の入った箱が棚に並んでいた事もあったのです。
  中に入っていたのは『三愚集』という本でした。本と言っていいのかどうか。その外箱の中に帙という布ばりの箱があって、その中に小口を金で輝かした布ばりの本が眠っていたのです。
  三愚というのは、小林一茶、夏目漱石、小川芋銭の事です。つまり、その本は小林一茶の句を、夏目漱石の書で、小川芋銭が絵を描いて本にしたのです。それを当代一流の和紙を使い,当代一流の職人の手で仕上げ、金で輝かして、装丁に出来る限りの贅を尽くしたのです。その初版通りに作り上げた限定300部の復刻版でした。
  その初版を作った人が、小林一茶も寄寓したと言われる、お金持ちの醸造業の家の婿養子さんで、その家の跡取りが、復刻したようでした。
  その婿養子さんは、跡取りが成長すると分家して、事業を興し、やがて失敗してしまったようですが、その方のお孫さんが夫の知り合いだったのです。
  その箱の中のパンフレットに、お孫さんの書いた晩年の婿養子さんの様子がかかれています。わび住まいで生活していても、いつもキチンと居住まいを正していたが、かっての文化人としての華やかさはもう無かったというふうに書かれていたと思います。
  つまりは芸術家のパトロンだったのですね。何となく判ります。夫も同じような事をした事がありましたから。パトロンでいるのは楽しかったでしょうね。有名人がみんな子どものように慕って頼ってくれますから。終にはこんな本も作ってしまったのでしょう。
  この本を定価通りの22万円で出しました。本当に世の中にこういう本を所有したいと思う人がいるのだろうかと思ったのです。欲しかったのはもしかしたら、作った本人だけではなかったかと私には思われたからです。
  夫は買ったなんて一言も言わずに、棚の隅に隠してあったわけですから、世にも珍しい人種の部類なのです。これで60㎆。

2013年3月8日金曜日

一月は四件五冊も売れました

  正月はみなさん時間があるので、インターネットを見るのでしょうか。一月の前半に注文が相次ぎました。と言っても、一月全体で見れば四件ですが、それでも、こんなにたくさん来て下さるのは初めてなので対応に追われました。
  一人目は、鹿島信仰の本を買って下さった方で、「振り込みは会社から」と言われ。その連絡が土日を挟んだせいか、振り込みに二日くらいかかってしまって、急いで送って、結局、金曜日に着いたようでした。一週間かかってしまいました。  次の方は代引きでと言うので、代引きを勉強して、メールを送ったのですが、どうも私の手違いらしくてメールが届かなかったようで、再度メールが来て、結局、電話をかけて、代引きで送ったのですが、これも一週間かかってしまいました。
  三人目は、「銀行振り込みで」、というので、会社の口座を教えたらすぐに「振り込んだ」と連絡が来て、でも、それが金曜日だったので、「入金は来週かな、それでは遅くなってしまう」と、一応親切心のつもりで、その日のうちに350円のレターパックで送ったのです。  次の週の火曜日にのんびりと、入金確認のメールを送ったら、「まだ荷物が着いていない」と焦った様子のメールが入りました。
  『エーツ』です。ドキドキしてしまいましたが、レターパックは追跡機能があるので、郵便局へ行って番号を調べてもらえば、どういう状態か判るはずです。あわてて駆け込みましたら、レターパックというのは基本的に速達扱いなのだそうです。だから「金曜日に出してあるから、土曜日には着いたはずだ」と言われて、こちらはホッとしましたが、受け取っていないあちらは、今度は大変になって、レターパックの番号を向こうの郵便局でも調べてもらってくれて、結局、金曜日には「受け取れた」というメールを送ってくれました。謝ってしまいました。これも一週間。
  この件では自分の危機管理の無さを思い知らされて、恐ろしささえ感じました。  四件目は二冊お買い上げ戴いたのですが、凄くスムーズに行って、『一番安いゆうメールで送れた』と喜んでいたのです。でも、もし、これが「無くなった」と言われたら、追跡機能が無いのですからどうしようもなくなります。
  次からは手渡し機能の着いた五百円のレターパックも用意して、それから、手渡してもらえる、覚えたばかりの代引きも選択肢に入れるようにしました。お客さまも品物と交換でお金が払える代引きを好むようですし、代引きだと、品物を早めに送れるのです。お金が振り込まれるまでに一週間はかかりますが、荷物が届くのは注文から二日くらいで完了します。
  ビジネスはもっとしっかり勉強してやらないと駄目ですね。トラブルの元で、精神衛生上も良くないです。

2013年2月28日木曜日

本 読みたい本が出て来てしまいました 

 『生活の世界歴史』という本が十冊揃いでありましたので、さっそくアマゾンで値段を調べさせてもらいました。元の値段は1200円ですから、こういう全集ものはあまり高くないのだとは判っていても、何となく面白そうなので、きっと原価割れなんかにはなっていないだろうと期待していましたら、とんでもない、一冊四、五百円なのです。がっかりしてしまいましたが、一応ガレージセールのカテゴレーへ、美しい表紙も撮って載せて、アップしました。こんなに美しい表紙で、こんなに面白そうな表題で、且つ、こんなに安い値段だったら、すぐに買い手が付いてしまうだろうなと思うと、何となく一度も読んでいないで手元から無くなってしまうのがもったいなくなりました。
  先ず、生活から見た世界史というのが面白そうですよね。それが、一、古代オリエントの生活、二、黄土を開いた人びと、三、ポリスの市民生活、四、素顔のローマ人、五、インドの顔、六、中世の森の中で、七、イスラムの陰に、八、王権と貴族の宴、九、新大陸に生きる、これは猿谷要先生の執筆です。十、産業革命と民衆、という具合に、時空を超えて世界を旅するように人びとの生活が覗けるわけです。
  皆さんきっと面白いと思ったのでしょうね。夫が買った本は1975年の初版本でしたが、その後、1985年にも再発行されているのです。そして、新しいそっちの方は原価並みの値段が付いているのです。よく、初版本は高いと言われますが、そんな事はないようです。家のショップで売れた本を見ても、皆さんやっぱり新しい本を好まれるようです。だから、わが家の1975年版は同じにおもしろくっても、夫しか読んでなくって、あまり使用感がなくっても安くなってしまうのです。
  きっと、絶対買い手がすぐに付いて、私が例え読んでいても、引き渡さなければならないときが来ると、危機感を覚えて、一度アップした十巻を全部削除してしまいました。これなら安心して読めると思って、今寝室に二冊ぐらいを持って行って、読み始めています。
  『中世の森の中で』から読み始めていますが、確かに面白いです、ヨーロッパの童話になんであんなに森が出て来るか初めて理解しました。ヨーロッパの昔々は森が多かったのです。森に隔てられて村があり、その向こうには顔も知らない、言葉も判らない人びとが暮らしていたのです。そして、森がだんだんに切り開かれて行くと、人々は外敵を恐れて,村を城壁で取り囲むようになったのです。城壁の起源を初めて知りました。
  中世になると、暗黒の時代と言われますが、群雄割拠した粗暴な時代で、騙したり、殺したりは珍しくもない時代だったようです。なるほど、その暗黒の意味が分かりました。
  もうほとんど忘れかけている世界史の知識を総動員して照らし合わせて、理解するのですから、結構大変です。基礎知識のいる本のようですから、まだ好きなヨーロッパなら大丈夫ですが、これがインドや中国、古代オリエントとなるとどうでしょうか。不安を感じながらも、『これで世界が判る』と期待しています。

2013年2月23日土曜日

読んでしまいました 

 最初はそれはそれは大変で、何度も諦めて、何日も放り投げておいたのです。でも、何とか最初の導入の部分、周りの紹介等の部分を通り過ぎると、その後には、いよいよ主人公一人一人の気持ちの部分が入って来て、読んでいる方も気持ちが入れやすくなってきました。それでも、主人公が若い時には若いなりに、考えも浅くって面白くないのです。作者は人の成長に合わせて、考えも成長させるのです。それが半ばを過ぎる頃にやっと判ってきました。
  それと、物語を展開させる手法です。先ず、思わせぶりな言葉やそぶりを描写するのです。読んでいる方は『何の事だろう』とあれやこれやと自分でも考えてしまいます。それが、なかなか当たらないのです、だから意外な成り行きに、『なあるほど』と思わせられてしまうのです。
  最後のクライマックスは大活劇になって、胸のすくような思いもします。そして、主人公の報復、全く想像もできませんでした。『さすがピューリッツア賞受賞作だ』と思わせられてしまいます。
  ここまで来て、『ああ、ハウランド家の人びとのことか』と判ったのではないでしょうか。まさに、作者のシャーリー・アン・グロウはこんな書き方をしているのです。
  主人公の祖父はいつも『自分が本当にやりたいと思う事をやればいいんだよ』と主人公に言います。私もそう思います。私はそれしか出来ませんから。でも、最後に、それしか出来ないでそうする事がどんなに人に影響を与えてしまうかが判るのです。それでも、人間はやっぱりそれ以外では生きられないのです。
  後は、翻訳の事です。今回、翻訳者は猿谷要さんという有名な歴史学者でした。専門はアメリカ南部史です。それで、この白人と黒人の複雑にからみ合う物語の翻訳に抜擢されたのです。実は私、この先生の授業を受けた事があるんです。『アメリカ南部史』なんて興味がありますよね。でも、今では全く何を聞いたのか覚えていません。つまり、先生は学者さんだったのです。いろんな知識があって、この部分にはこれも付け加えなければならない、これも話しておかなければならないと思う事が多かったんだと思います。決して一つのストーリイとしての南部史にはならなかったような気がします。だから、私のような単純な頭には残らなかったのだと思います。
  その先生の真面目な学者らしさが、この小説の翻訳の最初の部分を見ると判ります。言葉一つ一つを正確に訳そうとしているのです。それがイメージとしてまとまらないのです。だから読み進むのにあんなに苦労したんじゃないかなと思いました。それが、最後の頃は大分いい加減に崩れて来て、『この言葉はどう繋がっているのよ』と思うような表現がありますが、それでも主人公の様子が見えるのです。
  私如きがこんな事を言うのはおこがましいのですが、私も時々訳をやってみて、『これだけ辞書通りにやっているのに日本語で通じないというのはどういう事よ』と腹を立てている、まさにそれと同じ事だと思ったのです。翻訳は、きっと、自分でイメージして、そのイメージを表現する日本語を使わなければいけないのでしょうね。まさにシェルダンの超訳です。
  そういうわけで、『読んでしまった』ので、これもちょっとだけ値下げしておきました。

2013年2月15日金曜日

十日が過ぎました 

 『レア本だ』とばかり、高い値段をつけてしまって、それを注文してくれてしまったお客様がいて、夜も眠れないほど頭を悩ませてしまった三件目が、何ごともなく終わりそうな気配です。
  振り込みはとうとう来ませんでした。来たらどうしようと暇があるとそればかり考えていたのです。
  一週間が経ち、普通はそれで、キャンセルになるらしいのですが、メールだけでも来るかもしれないと、後少し待っていました。でも、十日が過ぎて、やっと肩が軽くなった気がしました。
  顔を見る事のないやり取りで、もっと説明したいとか、言い訳したいとかいう思いもあるのですが、これが、対面の人間関係だったら、もっと気持ちが重く、後々まで尾を引いていただろうなと思います。どこの誰だか判らない、そういう関係で済ませられるのは、精神衛生上も、楽なほうです。
  『すぐに、値下げをしたら、悪いなあ』と思っていましたが、また新しい人がその値段を信じて来てしまってはまずいので、いろいろと理由を書いて、『値下げを断行しました』と書きました。
  やはり、お客さんが納得する値段にしておかなければならないのです。それでないと、お客さんに不服が出るのはもちろんですが、こちらも自責の念に苛まれるのです。今回のように、売れそうな本も、「ちょっと待って下さい」とぐずぐずして売り損なってしまうのです。チャンスは出会い頭にしかないのです。今度こそ、一呼吸で売れるように準備しておきましょう。
  そういうわけで、ついでにいくつかの値下げも『断行』しました。
  そうして、年明けから一層用心深く、本を探して、値段を決め、ショップにアップする作業を続けています。この作業はこの頃楽しみさえ感じるようになりました。いくら社会を避けている私でも、こうして値段を調べて、同じ本が売られていると思うと、うれしいのです。『こんな値段で売っていいんだ』とか、『こんな本はないだろう』と思っていた本があったりすると、何か、自分も社会に肯定されているような、参加しているような気持ちになるのです。それで、ますます、夫の本棚から持って来る数が多くなって、いよいよ50㎆を超しました。

2013年2月8日金曜日

値段が変わっていました

  オープンから半年になるのを機に、最初にいれたイナックスブックレットの値段の見直しをしました。驚きです。
  『リカちゃんハウスの博覧会』、最初見た時、二万円からで最大三万円で出ていたのです。『家にもあればいいのに』と思っていたら、きれいなのが出て来たので狂喜乱舞して、その中間をとって、二万二千円くらいで出してあったのです。
  今回見たら、何と五千円のが二個も出ていました。『どうしよう』と思いますよね。一度出した値段を変えるのはなかなか難しいのです。それでも、『本の状態を照らし合わせて、なるべく中間の値段をとる』というのが、新米古本屋の私の寄って立つべき位置でしたから、急いで二万円に下げました。こういう『お問い合わせが一度も無い』というのは、値段も動かし易い気がします。
  もう一つ『トーネットの椅子』という、椅子屋さんの本は、最初一冊も出ていなかったので、八千円くらいにして出してあったのです。今回見たら、二万七千円で出ていました。『本当に売れるのかな』と眉唾でしたが、これも二万円に直しました。『技術で成功した人の本は珍しく貴重なのかも知れない』と思えたのです。
  あとは、まだ新品があると書かれていた本類は原価に戻しました。もし売り切れたときのために、少し高めにしてあったのですが、また見直せばいいのです。
  もう一つ、見直しのきっかけになったのは、イナックスアルバムの新しい本を見つけたからでした。『日本建築のレトリック』というその本の市場価格を調べてみると、驚いたことに、二千八百円のと、十一万二千円のと、二冊出ていました。これも『どうしよう』と思いますよね。何でも中間主義ですから、五万円くらいで出しておきました。これも、やっぱり眠れなくなりました。眠れない頭で考えてみると、十一万と出した方は、桁数を間違えたんじゃないかと思いました。そこで叉むっくり起き上がって、二千八百円と一万一千円の中間あたり、七千円くらいにし、更にもう一度、本の状態を照らし合わせて、五千六百円に直しました。
  本当に値段を付けるのは難しい。『安く売っていただいてありがとう』と言われるのは却ってすっきりしていいことなのかもしれません。
  まあ、それも、100MBに達したら、また見直しをして考えましょう。

2013年2月1日金曜日

ついに誰も来なくなった 

 商品の数が増えるに従って、ショップを覗いてくれるお客さんの数は格段に多くなりました。それに反比例するように、ブログのページビューは減り続けました。
  全世界に向けて公開されている、グーグルのブロガーだからなのでしょうか。英語で説明されている為に、システムが判らない部分も確かにあるのです。説明では『誰か他の人のリーダーになって下さい』と再三言われます。でも、知らない人のブログを見るのは何となく憚られるのです。興味のある内容のブログはサーチで探しても読むのですから、私のもサーチに引っかかるだけでいいのです。
  全世界規模だから、サーチに引っかかりづらいのではないかと、日本の小さな会社のブログに変えようかとも思いました。ヤフーはテーマ別にコミュニティーを作って興味のある人が探しやすいようなシステムを作っていたような気がします。でも、そこでも、やっぱり日が経てば、ビューアーは少なくなって行ったような気がします。
  そこで、考え方を変えました。ブロガーは野放しである代わりに制約が少ないのです。日記代わりにしている人もいると聞いた事もありました。私もそうしようと思いました。『ショップオーナーの成長日記』です。
  それにショップにまだ半分しか商品が並んでいない今、本を探して来て、値段を調べ、スキャナーで撮って、ネットにアップするという作業をしながら、たまに来る注文に全身全霊で答え、孫のお守りもし、夫の病院にも付き添い、家族の健康を考え、家政もするとなったら、『ブログは日記程度の方が却って楽かもしれない』と考え直したのです。
  いつの日か、百歳になった『ショップオーナーの成長日記』を読みたいと言ってくれる人の為に書き続けようと思います。

2013年1月25日金曜日

正月に 

 やっぱり正月になると、皆さんネットを見て下さるようです。二日に駅伝を見終えてメールを開けてみると、またゼロショップからメールが来ていました。
  正直『今度は何だろう』と思いました。二件目の注文は来て送ったばかりです。時々、『有料のショップにしてはいかがですか』と言うメールが来るので、『それかな』と、恐る恐る下に繰って行きました。
  そうすると、下の方に、注文された本の名前が書かれた行が出て来るのです。出てきました。それを見てハッとしてしまいました。『困ったな』と言う感じです。それは昔の月刊の出版物のようなものでした。そういうものでしたから『レアな本』に属しました。アマゾンでも高い値段が付いていて、私もそれにならって、高い値段をつけて出していたのです。今まで売れたのにはない高い値段でした。
  『どうしよう』と例によって夫に相談しました。夫は『いい本だよ』といいました。それは判るのです。写真も豊富だし、中身は濃いのです。でも、昔々の雑誌は今のと違って、そんなに高級に見えないのです。チャチイのです。
  しかも、二冊あったのですが、今回取り出して見ていたら、一冊のページが外れてしまいました。それほど古いという事です。
  それで、『もしかしたら、この方はお年寄りで、表紙に乗っていた学校の卒業生なのかもしれない、それなら、その学校だけを撮った写真集がある』と思い出して、振込先を送るメールに、本の状態を書いて、『こういう立派な写真集もあるのですが、高い値段なので、よろしくご検討ください』と書きました。
  後で、『馬鹿な事をした』と後悔しました。『こんなものを高く売りつけて』と言われたくない為に、いい子ぶって、あたふたし、更に、『もう一冊買ってくれ』と言っているようなものです。
  プロフェッショナルな古本屋さんになっていないという事です。買う買わないはお客さんの判断なのです。私がとやかく言う事ではないのです。今回だったら、本の状態を詳しく書いて、『それでも良かったら』と書くべきだったのでしょう。
  それで、振り込みがあったら、『そのあまり大きくはない雑誌の他に、店でメインに売っている夫の著作の一冊を『宣伝とサービス』の為に同封しようとか』、素直に、『あとで後悔しない為に、三分の一ぐらいに値引きしてお返ししますとか』、どうしたらいいだろうと、眠れない夜に、むっくり起き出して、発売元のホームページで調べたところ、これらの本は『友の会の会員』に配布されたもののようでした。従って、わが家の年代物はレア本ですが、発売元では古いものはコピーサービスで対応しているようです。この一文を見つけて、ある程度ホッとして、急いで本の説明に付け加えました。
  高い値段を付けても後悔、低い値段をつけても後悔,古本やさんとは結構大変な仕事です。この頃、50MBにしたい為に一冊一冊を急いで入れているので、値段調べがいい加減になっているきらいもあるのです。反省して他の書店の値段も調べてみようかという気持ちになりました。

2013年1月18日金曜日

多喜二ブーム 

 不況になって一時期、小林多喜二の『蟹工船』がまた読まれ出したと騒がれていましたが、今でもそうでしょうか。
  実は、昔々に買って、多分古本屋さんで買って、読まずに飾りっぱなしだった本を、ショップにアップしたのを機に読もうと思って、枕元に置いておいたのを、この冬休みに終に読み切ったのです。
  『おりん口伝』と『続おりん口伝』です。前者は第八回田村とし子賞、また、百合子・多喜二賞をとったとも書かれていました。読み始めると結構重い感じで、癒し系に慣れていた私にはなかなか前に進めませんでしたが、中頃まで読み進めると、先が気になるようになりました。読み終わった今は、久しぶりに、まだ本の世界にいるような感じで秋田弁を口走りながら暮らしています。
  話し言葉が秋田弁なのです。きっと東京育ちの人や若い人には古典のようで辞書がいるでしょうね。私は関東の北の端、茨城も、栃木寄りの田舎で育って、まわりがみんな、あれに近い言葉をしゃべっていたので、分かったのです。しかも全編それで貫かれていて見事です。
  昔、藤沢周平さんの『山伏記』というのを読んだことがありますが、最初は山形弁で書かれていたのに、最後の頃は編集者と読者の要望に負けたかのように標準語になっていて興ざめした覚えがあります。
  著者は、松田解子さんという方で、十年くらい前に亡くなったようです。おりんさんは離れ瞽女ではなく、秋田の三菱荒川鉱山で働いていた夫に嫁ぎ、夫亡き後、仲間の応援を得ながら、必死に働き、二人の子供を育てている鉱山働きのおりんさんでした。私はもしかしたら、『離れ瞽女おりん』の原作本と間違えてこの本を買ったのかもしれません。昔のことで覚えていませんが。
  松田さんは荒川鉱山出身と書いてありまして、これはお母さんがモデルであると言われているようです。
  話は明治時代です。その時代の、劣悪な鉱山の労働環境、足尾銅山で有名な環境被害がここにもあります。足尾だけかと思っていましたよね。でも、あちこちにあったのでしょうね。わが家の近くの日立にも、有名なお化け煙突がありました。私達はそれが煙害をもたらすから、お化けと呼ばれるほど高く造られたなんて夢にも知りませんでした。観光名所だと思っていましたから。
  地底の労働は過酷で、鉱夫は最後はみんなヨロケと呼ばれる、いわゆる『塵肺』で、若くして病気になったり、亡くなったりします。それも正規雇用ではないので、景気の動向によっては人員整理の対象になって辞めさせられ、長屋も出なければならなくなります。そして戦争にでもなれば、また多くの人員募集がかかるのです。それでも人が集まったのは、多分、それでも他より仕事があったのでしょう。
  これはおりんさんの物語ですが、それだけではない、その当時の鉱山の生活と社会の動きが実感として判るように描写されています。
  私の学生時代は70年安保の時代でしたが、私がこれを買った当時、これを読んでいたら、どう変わっていたでしょうか。やっぱり、のほほんと育った私は、連帯なんか、理解できなかったでしょうね。
  今になって、これだけの歳を重ねて、自分の不幸も人の不幸も、社会の様も少しは見聞きし、寄る辺ない恐ろしさも少しは理解できるようになって初めて、『同情』という、人と同じ気持ちになれたような気がするのです。おりんさんの気持ちもがんばりも『自分もした』という思いがあるからわかるような気がするのです。
  今の時代と同じです。ここを逃げ出しても、他に行っても仕事は無い。試練は、辛いけど、自分という井戸を深くして、きれいな水が湧くようにしてくれるような気がします。  古本ですが、出会えてうれしい本でしたので、ちょっとだけ値下げしました。誰かにも読んでもらいたいような気がしたのです。

2013年1月11日金曜日

ここで注文が来たら 

 その他にも、夫の書斎には大型の単行本や雑誌等もありまして、大型本で書棚を一つ占領していました。その書棚の整理をしながら、値段を確かめたり、写真を撮ってアップしたりしていると、本当に夢中になってしまって、『こんな最中に注文が来たら面倒だな』等と不遜な事を思ったりしていました。
  幸い、それらの大型本も何とかクリスマス前に片が付いて、40MBも突破して、『後は、来年』と思っていたその朝に、注文メールが入っていました。
  これがショップ開設以来二件目です。やっぱり『うれしいー』と言って、夫に報告しに行きました。今回は残念ながら夫の著作ではなかったのですが、でも、所蔵本で、値段の判らない本でした。もう一冊同じような題名の本があったので、それと同じ値段にしておいたのです。
  最初は『本当にこれでいいのかしら』と思いました。もう一冊の方は出版社の出した単行本で、装丁もしっかりしていましたが、注文された本は財団が出版したせいか、報告書のような装丁だったのです。よっぽど『これでいいんですか』と聞こうと思いましたが、写真が豊富できれいでしたから、『これでいいのかもしれない』と思い返して、振込先を送りました。
  それこそ、速攻で振り込んでくれて、私も翌朝速攻で準備をして郵便局に持って行きました。年内に届くだろうかと思いながら。
  その翌日、注文主さんから、届いたと言うメールが入っていました。実は『長年、探していた本だった』という事でした。『他ではもっと高く売っていたのに、こんなに安く売って頂いて』と書いてありましたので、夫にそういいましたら、『いいさ、いいさ』と言いました。
  本当にそうです。こんなに喜んで頂けるなら、長年夫の書斎に埋もれていたあの本は幸せです。やっと自分のいるべき場所を見つけたでしょう。これが、きっと古本屋さんの醍醐味です。
  今までは、『アマゾンに載っていない本は、値段も判らないし、売れない』と思っていましたが、『アマゾンに載っていない本を探している人もいるんだ』と判りました。
  年が明けて商品アップをスタートしたら、その辺も考慮に入れて商品を選んで行こうと思いました。

2013年1月5日土曜日

いよいよ夫の書斎 

 前にも書きましたが、夫の本は全集ものが多いのです。哲学の全集は、以前古本屋さんに来てもらって売った時に、二束三文で持っていって貰いましたが、美術全集、建築全集、絵巻集成の類いは、いっぱい残っているのです。今回それらを調べてみると、出版年月日が結婚した前後と重なっているのです。それを見て、『ムムム』と思いました。独身貴族のままで、結婚後も買い続けていたとわかってしまいました。しかも、見た跡のあるのは最初の巻くらいです。
  あとは書道をしていた義母のために買ったらしい書道の全集がよく見られていた程度という事は、義母だけは真面目にその全集で練習していたということでしょう。
  増大する本の山に、ダメと言ったのは毎月届く文庫本を買い続けていた時でした。本当に、小さな文庫本が五、六冊毎月届いて、三千いくらかを払い続けていたのです。しかも全く読みもしないで、並ぶところもなくなった棚に押し込むか積んどくか。しかも、その時は会社もうまくいかず、借金がどんどん嵩んでいるときでした。いい顔しいで断れない夫に、『絶対に駄目』と言いました。その後、こういう経験は何度かしましたが、今思えば、あれが最初だったのです。
  犬も喰わない話をしてしまいましたが、この全集もの、結構安いのです。で、美術全集は諦めました。建築の全集や絵巻物の全集は一冊一万円近いものでしたが、これは巻によって値段が違いました。値の上がっているものもあり、下がっているものもありです。それで、全巻揃っているものは、全巻で写真を撮ってショップに並べました。絵巻物は二冊ほど抜けていたので、その内出て来るかも知れませんが、一冊ずつ値段を付けて並べました。
  これらは大型本に属して、スキャナーの画面をはみ出すのですが、あの時代、こういう大型の豪華本が多く出版されたような気がします。バブルに向かっていた良き時代だったからかも知れません。
  これで、30MB突破です。