2013年11月22日金曜日

消化器外科

  MRIの結果、腫瘍は『腺腫』という良性腫瘍だったと若い先生が教えてくれて、「ステロイドはちょっと多めでしたが、手術に差し支えないでしょう」とゴーサインが出て、十日経った手術予定日の前日に再入院しました。
  これだけの難関を通り抜けて来たのですから、覚悟はできていたのですが、もしかしたら、友人もしたという内視鏡手術で簡単にできるかも知れない等と甘い期待も持っていたのです。 もちろん、準備は開腹になった場合の必需品を全部揃えました。内視鏡で出来ない場合は開腹になると言われていたのです。
  執刀してくれる若いお医者さんとは、その日始めて会いました。家族と研修医の先生を交えた四人で説明を聞きましたが、そこでまた、『ええ、聞いてないよ』という事に出会いました。胆石の手術というのは、胆嚢ごととってしまう事なのだそうです。娘と私で、思わず声を合わせてしまいました。「ええ、胆石をとるんじゃないんですか」。
  きっと先生は、内分泌内科での私のドタキャンを聞いていたのだと思いますが、黙って、私が結論を言うのを待っていました。私もここまで来て、やらないとは言えないと思いました。「お願いします」という他、選択の余地はありません。
  それからがまた初体験の連続でした。内視鏡手術というのはお腹に四個の穴を開けて、鉗子を差し込むらしいのですが、一番大きな穴はおへそのところで、そこから、切り取った胆嚢を取り出すらしいのです。で、先ず、おへその消毒。次に途中で大便が出たりしては大変ですから、下剤を飲んで、大便を出し、浣腸して全部出し切ります。食事はもちろんとれません。小便は手術室に入って麻酔をしてから、すぐに管をつけるのだそうです。  翌日、T字帯と言う紙のふんどしをつけて、手術室に入り、背中に麻酔を打たれてからは、多分丸裸だと思うのですが、本人は知らぬが仏です。
  「こんな大きな石がとれましたよ」と先生に言われて、目を覚ましましたが、意識が戻ったときは集中治療室にいて、夫が、「五時間もかかった大手術だったよ」と言って、帰って行きました。『という事は、開腹だったんだあ』と思いました。手術後一日は集中治療室で、麻酔の中でうつらうつらしていたのです。
  翌日に看護師さんが迎えに来て、車椅子で部屋に戻るのだと言いました。とんでもありません。「本当に痛い。どうしても駄目」と言う私の為に、優しい看護師さんは部屋からベッドを運んで来てくれ、ベッドに移して、そのまま、皆さんに見られないように急いで部屋に戻してくれました。
  次に交代した看護師さんは厳しくって、「点滴をしているのだから点滴に鎮痛剤を入れてくれませんか」という私に、起きて経口の鎮痛剤を飲めと言って聞きません。
  実は私は三十代の頃に耳下腺腫瘍の手術をした事があるのですが、その時は、術後、顔はひん曲がっていたのに、ほとんど痛みを感じなかったような記憶がありましたので、この痛さにはびっくりだったのです。腸閉塞を起こさない為に、一日過ぎたら、動かすというルールがあったようでした。「それでもどうしても痛くて起きられないから先生に頼んで点滴にして欲しい」と言うと、実は一本だけ預かっていると言って点滴に入れてくれました。その点滴が早かったせいか、身体が冷たくなって来て意識が遠のき、『死んでしまうのじゃないか』と思いました。看護師さんは厳しいだけでは駄目ですね。
  夕方執刀医の先生が廻って来て、「僕もがんばったんだから、藤久さんもがんばって起きて下さい」と言いました。確かに開腹手術は先生も大変だったろうと思いました。『これは殺し文句だなあ』と思いましたが、差し出された先生の手にすがって起きてみましたら、何とか起きられました。その日から痛みと運動と麻酔の兼ね合いの日々が始まったのです。
  確かにお腹を切った私も大変でしたが、外科の先生というのは、本当に大変な仕事のようです。ほとんど毎日手術をしているのではないでしょうか。私が入院した日にも手術をしていると言っていましたし、翌日は私の手術でした。私の隣のベッドにはその先生が膿んでしまった盲腸の手術をしたと言う女性がまだいました。手術の時に集中して、完璧にやって、後は切り替えないと、心配でいられないだろうと思います。後を引くタイプの性格では耐えられないのではないでしょうか。
  一週間して、抜糸をして貰うと、随分と楽になりました。お礼の言葉をいろいろと考えましたが、「おかげ様で、あと三十年は生きられそうです。ありがとうございました」と言いました。これが本心です。軌道に乗って来たようにみえるショップの事を考えて、また続けてやれそうな気分になって来たのです。
  シャワーを使ってもいいと言われましたが、とてもそんな気力は起きません。翌日退院。まさに一週間の大攻防でした。