2012年12月29日土曜日

売れない本 その2

  頂き物の本はさすがに気が引けて,なかなかショップにアップできません。が、それでも昔に頂いた本は出すことにしています。せっかく出版されたのですから、ホコリをかぶって朽ち果てるより、少しでも読んでいただけた方がいいに決まっています。勿論、アップしたからと言って、買っていただけるとは限りませんが、カラー写真になって、表紙を見ていただけるだけでもうれしいことです。
  その中でも、どうしても売れない本を、整理をしていた本棚の中にまた見つけてしまいました。
 その本、仮題で「葉っぱに書いた物語」とでもしておきましょうか。
  著者とは、私がアルバイトに行っていた公共機関で知り合ったのです。知り合いと言っても、廊下ですれ違うと「お早うございます」「お疲れさまでした」と言う朝晩の挨拶をする程度の間柄でした。彼は、多分東大出で,生真面目な研究者タイプの小柄な老先生でした。
  ある日、優秀な同僚が、元々同じ専門を研究していたこともあって、先生に誘われて、何かを見せてもらいに行きました。私もたまたま居合わせたので、誘われて見に行きました。研究室は密室だったせいもあって、中に入ると、異様な臭いがしました。やがて、それが研究室のせいではないと分かるのにそんなに時間はかかりませんでした。私は絶えきれない思いがして、見せてもらうとすぐに失礼しました。礼儀正しい同僚は残って、先生と話を続けていました。
  それから何年か過ぎて、久しぶりにアルバイトに行った時、知り合いだった図書館司書の女性に先生が亡くなったと聞きました。そこでこの本をいただきました。
  この本は先生の息子さんから「誰か、知り合いで失礼でなく、貰って頂ける人に差し上げてほしい」と言われて預かったのだそうです。私は知り合いとは言いがたかったのですが、断るのは勿論失礼なので「喜んでいただきます」と頂きました。
  そのあと、司書さんが説明をしてくれましたが、先生は何か、とても大変な病気をしていたのだそうです。奥さんとも離婚して、一人でその病気と闘っていたらしいのですが、風呂に入るとめまいか何かがするようで、ずっとお風呂にも入れなかったようです。『ああ、それで』と思いました。司書さんも臭いには気付いていたのか、ことさらにそのことを強調していました。
  きっと、その本を貰うまで、誰も先生の病気と臭いの関連には気が回らなかったことでしょう。自分一人で耐えていて、言い訳もできないでいた先生は分かってもらいたくてこの本を書いたのでしょうか。
  『いつかは読まなくっちゃ』と思いながら、もう10年にもなってしまいました。いつかは尻にムチを当てて、読まなくてはならない本です。

2012年12月21日金曜日

売れない本 

 値段のつかない本というのもあります。出品が無くって値段の探りようがないというのではないのです。あっても、ほとんど一円の値段しかついていないものです。
  そういうものは出さないことにして、古ければ捨て、まだ読めるか、おもしろそうなら、目立つところにおいて、暇なときに読もうと思いました。
  一番ダメだったのは岩波文庫でした。安かったから、必要もないのに買ってしまって、夫のも私のもそれなりにあるのですが、同じ理由でみんなが持っているということです。それと、劣化が早いのです。紙質が悪いせいか,どんどん日に焼けて真っ黒になってしまいます。笑ってしまいますが、棚の上の方にあると、題名も読めません。
  読んでないのですから捨てるにも惜しくって、今回もそのままになってしまいそうです。もっと更に暇になったときの楽しみに取っておきましょう。
  名作もダメです。新しいバージョンが次から次に出て来るからです。例えば,『ドクトルジバゴ』。映画を見て感動して買ったのですが、あれから何冊も出ています。
  聖書とか、辞書のたぐいも同じ理由で,古物はいらなくなってしまいます。今はネットが辞書の代わりをしますから、更に求められないようです。それでも家にある辞書は,使わなくっても捨てられないですね。
  時代遅れになってしまった本もダメです。例えば『ノストラダムスの大予言』、21世紀は来てしまいました。
  そうすると、私の本は、五分の一ほども商品にならないのです。それでもここ数日で19㎆に到達しました。写真の画質を高くしたこともあるかもしれませんが、まだまだあと81㎆残っています。大まかに計算して、5ヶ月で20㎆とすると、あと20ヶ月、一年と8ヶ月かかる計算になりますが、ここに来て仕事が速くなりました。あと一年くらいで100㎆、並べ終えたいと思います。
  それほど商品が出て来るかと心配する必要はありません。夫の書斎はまだほとんど手つかずです。
  その捨てられないもの部屋がこの間、とてもうれしいことをしてくれました。詩吟の会の発表会に楽譜のカバー用の模造紙が欲しいということになって、「確か、あの部屋に模造紙があったような気がするから見つけて来てあげる」と請け合ったのです。模造紙はあったのですが、枚数が取れません。『さて困った』と周りを見回すと、昔のカレンダーが山のように取ってある中に、ちょうどいい柄のカレンダーがありました。それはバブルの頃のカレンダーだったので豪華なのです。「お宅のゴミの山は宝の山だね」と皆さんに褒められて、気分良く発表会を終えました。

2012年12月14日金曜日

私の本

  このところ、夫の本と交互に自分の古本もショップに打込み始めました。前にもお話ししたように、夫の本は、新刊か、頂き物か、写真の全集ものが多いのです。
  ところが私の本と来たら、教科書か、古本屋さんで買ったか、ハウツウ本かと言う感じです。それもほとんど大学時代に買って読まずに積んでおいたものです。いや、読んだ本は、7、8年前、夫が古本を売ったときに古本やさんに一緒に持って行ってもらいました。だから、残っているのは書き込みのある教科書か、買ってもまだ読んでいない古本か、ことあるごとに見たいハウツウ本かになってしまうわけです。
  『まあ、ガレージセールのところを満たすだけでもいいだろう』と思って、アマゾンで値段を調べてみると、これが驚きでした。結構高いものがあったのです。一番高かったのは何だと思いますか。『定本版綴方教室』でした。これ、小学校の頃に映画かなにかで見て『ぜひ読みたい』とずっと探していたのです。それが、学生の頃、古本屋で見つけて買って、それ以来手元にあるのです。1963年の新装版と書いてありましたから、私が15歳の頃の出版で、買ったのは22歳頃ではないでしょうか。その頃から既に、いかにも古本らしくなっていました。
 内容は吉永小百合さんの『キューポラのある町』のようだったと思います。もう一つ『綴り方兄妹』という映画もあったのですが、そちらの本はついに見つかりませんでした。
  で、アマゾンには、同じものが三冊出ていたのですが、三冊とも5000円の値段がついていました。信じられませんでしたが、一応同じ値段にしておきました。いつか見直すときもあるだろうと思います。
  もう一つ、やはり古本屋さんで買ったぼろぼろの本,こんなぼろぼろだと、皆さん写真は載せないのですね。でも私は載せました。ぼろぼろ具合を説明するより楽です。『ハウランド家の人びと』という本でした。打込むときに始めて知ったのですが、ピューリツア賞を受賞していたのです。若い頃の私は『何代に渡る物語』というのが好きだったので、いつか読もうと思ってしまい込んであったのです。それが3000円の値段がついていましたが、さすがにちょっと後ろめたくって、それでも2500円の値段を付けました。
  ちょっと怪しかったのは、弟の名前の書かれた『弁証法的史的唯物論の終焉 人類普遍の理想社会はどのような社会か (1970年)』という本でした。一人しか出品していなかったのです。その方が3000円の値段を付けていたのですが、『こういう本、誰が読むんだろう』と思いました。弟も読んでいなさそうでしたから、経年劣化以外は新しいのですが、多分授業で買わされた本ではないかと思って、眉唾ながら2500円にしました。
  古本屋さんで買った古い本が良い値を付けているのに対し、ダメなのは、『読むのが辛いノンフィクション』とまだ出ている『ハウツウ本』。
  文学全集の中の一冊はまだなんとか値段がついていました。私のは大学時代に買ったのですから、1970年代頃の出版です。重いし、大きいし、字が細かいので、まだ読んでなくても、これから先も読むことはないだろうと思って、調べてみると、ピンからキリまでいろいろな値段がついていました。で、それに惑わされないように、私は原価を着けました。1970年代の原価ですから、今の値段に比べると3分の1か、4分のⅠくらいです。
  一つ、再版された教科書があって、それは3000円以上の値段がついていましたが、私の本には900円の値段が書いてありました。同じものなら、ちょっとは古くても、充分『お得だ』と思います。
  そう言うわけで、ホコリを拭き取りながら、何年も掃除していなかった私の本箱がきれいになって行くのは、例え売れるわけではないにしても、うれしいものです。ここでやっと16㎆に到達です。

2012年12月8日土曜日

吉行あぐりさんの本 

 最近図書館で借りて読んだのです。題名は『吉行あぐり 102歳の言葉』(石寒太著)です。
  勿論ご両親もですが、三人の子供さんのうち、お二人は先に亡くなったのです。それでも打ちのめされることもなく、愚痴を言うわけでもなく、淡々と強く生きて来られたのにはどんなコツがあったのだろうと思いますよね。
  その一つは、仕事のようでした。『美容師は天職』と思って、97歳まで続けて来られたのです。その間、三十代で夫に先立たれ、借金だけでなく、愛人まで残されたようです。四十代で再婚し、90歳で二度目の夫を見送って、また吉行の性に戻ったと言います。私から見れば充分波瀾万丈で、その間、ずっと働いて来られたわけですから、『よくぞ、よくぞ』と思わないわけにはいかないような一生だったろうと思いましたが、私のように「大変だった」なんておくびにも出さないのです。
 『こだわらない、忘れる』というもコツのようです。お客商売でしたから、『対人恐怖症だ』なんて言っていられなかったと思います。そのコツはこだわらない、忘れてしまうということなんでしょうね。
  そう言えば、この間、バレリーナの森下洋子さんのロングインタビューを聞きました。彼女もバレーは天職と思って大事にしていると言っていました。とにかく踊りたくって練習したくってたまらないのだそうです。そうすると、他のことは些細なことに思えるようです。
  もう一つは、夫が当てにできなかったから、自立したんでしょうね。信仰心もなく、誰にも頼らないように自分を律して来たのでしょう。再婚はそれなりに幸せだったようですが、余り、多くを語りません。語らない人のようです。
  子供たちとも、同じマンションの別の部屋に暮らしていると言っていました。家族が全員B型で、『ゴーイング、マイウエイ』の性格のようです。私もそうですから、親子、夫婦であっても余り干渉しないというのは何となく分かるような気がします。そうするとストレスも余り溜まらないのだそうです。でも、そうしたくってもなかなかそうも行かないのです。やはり達人の至った境地なのでしょう。

2012年11月30日金曜日

『離れ瞽女おりん』を見て思ったこと 

 水上勉さんの原作があるらしいのですが、私は映画で見たのです。
  配役は誰だったでしょうか。今調べてみたら、岩下志摩さんと原田芳雄さんで、監督は篠田正浩さんだったようです。いろいろな映画賞の主演女優賞を総なめにしたと書いてありましたが、配役で覚えていたのは樹木希林さんだけでした。
  でもいいんですよね、覚えてなくっても。大事なのはおりんの一生の物語であって、女優の岩下志摩さんではないのですから。むしろ、女優さんが全面に出ないほど,岩下志摩さんがおりんにとけ込んでいたということなのでしょう。これぞ主演女優賞の面目躍如と言うところでしょうか。
  で、何を思ったかと言うと、目の見えない人のどうしようもない弱さです。誰かの助け無しには生きられないのです。特に何の福祉も整っていないあの時代には、身を捨ててでも誰かにすがらなければ食べるものも手に入れられない。男が「菩薩さまだ」と言ったように、人を疑ったり、嫌ったりしたら、まさに死に繋がってしまうのです。人は無条件で愛し、信じるしか無い、『菩薩さま』でなければ生き残れないのです。
  これ以上は、書くのが難しい。見たくないような世界、味わいたくない苦しさなのです。この頃、歳のせいか、見たくない映画とか、読みたくないストーリイとかがつとに多くなりました。
  でも最後、生きている間は行く当ての無い旅を続けるしかないひとりぼっちのおりんの行路の果て、海を臨む崖の上に赤い布、たぶん腰巻きだったと思いますが、木に引っかかってひらひらとなびいていたのを誰かが見つけたときは、涙とともにホッとしました。やっと安らかになれたんだと。
  このカタルシスを水上勉さんは読者の心に呼び起こしたかったのだろうと思います。
  人の一生は一度きりです。みんなが幸せであるように、かといって、何もできるわけではありませんが、せめて誰にでもやさしくするように努力しなければならないんだとこの歳になって分かりました。
  そう言えば、この間、夫の付き添いで行った大学病院の掲示板に、県が路上生活の人たちや低所得の人たちの医療費を無料にしたり、軽減したりするという張り紙を見つけて、うれしくなりました。何もできない私ですが、わずかでも私の支払っている健康保険料がそういうところに使われたら、こんなうれしいことはありません。これからもできるだけ病院には行かないようにして、少しでもそちらに回れるように努力したいと思いました。というか、元々病院も好きではないのですが。というか、お医者さんとの交渉が苦手なのです。仕方のない時はしますが、わざわざしたくはないのです。何せ対人恐怖症ですから。
棚を造る

  商品が多くなって来ると、ショップがいっぱいになるだけではありません。ショップに載せた商品を分かり易いところに置いておく為の棚が必要になりました。「あれ」と言われたときにすぐ取り出せなくては困るからです。これが確保できるまで商品は増やせません。
  先ず、第一候補は、空いている棚に、段ボール箱に入れた本を名前を書いて載せておく。
 第二には、元あったところに分かり易いように工夫をして並べておく。元あったところなら、新しいスペースを確保しなくてもいいし、分からなくなったときに最初にそこを探すでしょうから見つけ易いと思います。
  第三は、元々あって、余り使わない棚を整理し、棚板を一段買って来て増やす。そこにやはり段ボール箱をいくつか分かり易いように並べて、区切りを付けておく。これも新しいスペースを探さなくて済みます。
  第四候補は、娘がいらない棚をくれるというので、これは一段増やした棚の隣に、地震のときに高いところから下ろした本が縦積みになっているのを整理しながら置こうと思います。そこは客間ですが、余りお客さんも来ないですし、また代わりに来客用に使えるスペースもありますので、棚一つくらいならそんなに邪魔にはならないと思います。それらがいっぱいになったら、それはまだ先のことですが、そこまで行ったらまた考えましょう。
  そんな作業や整理をしながら、見つけたものを入れて行っていたら、13㎆まで行きました。整理ができて、新しい本を発見できて、ついでに掃除もできて、一石何鳥にもなります。昼間は運動、夜はコンピューター、しばらくこんな生活が続きそうです。

2012年11月23日金曜日

説明を入れ直す

  商品が九十九個以上になると、ショップのホーム画面に入り切らなくなるのです。そして、二ページ目は無いのです。
 『あれ、どうしよう』と焦りましたが、カテゴリー別に見れば全部紹介されます。『画面が美しい』と悦に入っていましたが、よく考えれば、どこにあるか分からないショップの画面で商品を探す人はいないのかもしれません。皆さん、興味のあるものを検索してショップのその商品にたどり着くようです。
  いくつか検索画面を見ると、私が書いた商品の説明文が引かれていて、検索エンジンはその文章の中の一致する言葉を探り当ててくれるようです。ということは、もう少しだけ詳しい商品説明が必要なのじゃないかと思いまして、特に新刊の説明文をいれ直しました。人の名前とか、土地の名前とか、検索に引っかかり易い言葉をたくさん入れる為には目次を書き写すのもいいと思いました。
 ついでに夫の本棚から、共著で出版された本を数種見つけて来て、それらは段ボール箱に入った状態で何冊もありましたから、新しいカテゴリーを作って並べることにしました。更に頂き物の児童書、これで11Mbです。

2012年11月16日金曜日

老眼鏡

  ショップやブログを始めるまで、『老眼鏡はかけないで、なんとか回復させる』とがんばっていました。私は元々近眼でしたから、老眼の進みは遅かったのですが、六十歳を過ぎて本当は本が読めない状態にまで至っていたのです。
  ショップを始める為に、本を読まなければならなくなって、それでも無理して裸眼で目をしばたかせながら読んでいました。ついに、『これはダメだ』と思って、100円ショップで老眼鏡を買って来て、布団の中ではそれをかけて読むことにしました。日中の明るい日差しの中ではなんとか読めたのです。
 それが、ショップに説明文をいれ始めると、筆者欄などが異様に小さいことに気付きました。コンピューターの画面の文字は大きくできるのですが、手元の文字が小さすぎて正確に読めないのです。仕方なしにもう一つ、コンピューターの前で使う安い眼鏡を買いました。これは鼻眼鏡にして、画面を見るときは裸眼で、手元の本の文字を見るときは老眼鏡越しに見ることになりました。
 ここまで来ると、老眼鏡は必需品になってしまいまして、売り場があると、必ず覗いて、時には買って来るようになりました。いつも使うわけではありませんからそんなに高いのはいりません。でも、だんだんと手元に無いと不安になって来たのです。
  そう言うわけで、UV対策のサングラス、ブルーライト対策の黄色いツルの眼鏡も入れると、今や七個の眼鏡持ちになってしまいました。あんなに面倒くさいと思っていたのに、全く億劫には思わずに毎日取っ替え引っ替えかけています。
 これらの眼鏡を駆使して、この度は、更に細かい字の洋書のコーナーを作って打ち込みました。これでやっと10MBになりました。まだ全体のⅠ/10です。お客さんが来ないのは当たり前です。まだ充分に商品が並んでいないのですから。

2012年11月10日土曜日

領有権問題の恐怖 

 やっぱり怖いですよね。『中国でデモ』、『韓国でデモ』というふうに大勢で押し掛けられると。
 中国のお金持ちが日本の原野を買っているというニュースは、目に見えないので、さほど恐怖には感じませんが、テレビなどに映った打ち壊しの様子を目の当たりにすると、『大きな武力衝突もあるか』、『負けると、人権をないがしろにすると言われる中国の政治が私たちにも及ぶのか』とまで、恐怖が広がって行ってしまいます。
  領土の問題は、ほとんどが意地と意地とのぶつかり合いで、実益はそんなに無いのではないでしょうか。人も物も損なう武力衝突だけは避けてほしいと思います。
  太平洋戦争では大国アメリカと戦って多大な犠牲を出して負けました。でも、今一番のお友達はアメリカなのです。私の父は兵隊になり、台湾あたりまで遠征しましたが、戦後、外地から帰って来て五、六年でアメリカに一年間の農業研修に行きました。
  戦場で死んでしまった人たちは何だったのでしょう。何の為に戦ったのでしょう。父も疑問に思ったでしょうね。
  それでどうしようと言う手立てがあるわけではありませんが、小さく考えるとこれから先の私たちの生活に暗雲がのしかかって来そうに思えます。でも、大きく考えると、宇宙から地球を見られる時代、ブラックホールが渦を巻いて星を飲み込んでいる事が分かって来た時代に、そんな争いに打ち壊しのような犯罪をしてまで血道を上げている人たちが小さく、かわいそうに見えて来てしまいます。
 日本には『心を大きく持って、お互いを思いやった交渉をしてほしいな』と思います。まさに真の政治家の出番です。

2012年11月9日金曜日

紫蘇の実採りをしていて考えたこと 

 今年の夏は暑くって、九月いっぱいまで汗だくでしたから、まだまだ大丈夫と思っていたら、十月に入って一週間もすると秋本番になってしまいました。
  最後はいつも後悔するのです、穂の先に花がまだあるうちに摘んで塩漬けにしておけば良かったと。秋の庭の整理で忙しいのでちらっと見ては『まだ大丈夫、まだ大丈夫』と少しずつ摘んで漬けては食べていたのです。その頃はまだ香りも強くおいしかったのです。それが「あれよあれよ」という間に堅くなって香りも無くなり、食べてもぼそぼそとしかしなくなってしまいました。
 毎年最後はそうなのですが、それでも昨年は最後まで摘んで漬けて冷凍しておいて、つい最近まで食べていました。昨年はニンニク生姜しょうゆ漬けだったので、固くてもなんとか食べられたのですが、今年は塩漬けだけにしたのでもうダメでした。猛暑のせいで昨年の半分くらいしか成長しませんでしたが、そのまた半分を実のついたまま処分しました。
  この紫蘇の実、ほとんど野生のように育つのです。若い頃は葉も食べられますし、実がなり始めると塩漬けにして、ふりかけのようにご飯にかけて食べられます。お隣のご主人に昨年はニンニク生姜しょうゆ漬けを教わりました。
 私はこの食べ方を田舎で母がしているのを見よう見まねで、かつ、うろ覚えで作りました。なので、私のは摘んで塩で揉むだけの一夜漬けでしたが、あとで聞いたところでは重しをして一冬の保存食として作っていたようです。それをおむすびに着けて田んぼ仕事の昼ご飯に持って行っていたのを子供心に覚えています。
  こういう食べ物の知恵や知識って、きちんと継承しないと伝わらないものだとこの頃つとに思います。わが家でも娘に作ってあげると喜びますが、作り方については娘たちは聞く耳を持たないのです。『いつか聞きたいと思ったときにはもういないよ』と心の中で叫んでいます。時間も限られていますから、何でもとは思いませんが、身近にある材料のレシピくらい教えてあげたいと思いますよね。
  でも、無理強いすると摩擦が起きますからしません。実を言えば、私も聞く耳を持たなかったので、両親から何も継承しなかったのです。梅干しの作り方、実家独自の餅のつき方,たくあんの漬け方。なかなか思うような結果になりませんが、この頃は必要とするものは時々ネットのレシピサイトを見ながらやってみています。
  ネットはいいですね。みんながそれぞれ、教えてあげたい、書き残したいと思うレシピを書いておいて、必要とする人が辿って来る。これなら摩擦の起こりようがありません。こうして、人間は今や顔を合わさなくっても学習ができるようになりました。これだといじめも摩擦も起こりようがありません。
  生涯学習財団の理事長をしていた松田妙子さんが言っていました、『学習と教育は全く違うものだ』と。今や学習には集団生活は必要ないのではないのでしょうか。これは私の持論ですが、学習はもっと機械を活用して、一人一人に適した道を見つけてあげる。学校は教育の方に重点を置いて、社会活動の基本、スポーツ、道徳、友情、集団の中で自分を確立して行く方法等などを指導する。これだけ機器も発達して来ているのですから、ゆとりの教育ではなくても、大人に成長して行く人として必要なことは教えられるはずのような気がします。また教えなければならないと思います。
  対人恐怖症ぎみの私が言うのもおこがましいのですが、いじめのニュース、家庭内暴力のニュースを聞くたびに、『そんなに密着しないで離れていた方が、少しだけでも冷静になれるのに』と思うのです。話が思わぬ方に行ってしまいましたが。

2012年11月3日土曜日

ガレージセール 

 教科書にも書いてありましたが、これはどうしても入れておかなければならないカテゴリーでした。  古本と言うと、特にネットショップでは送料もかかりますから、どうしてもレアものが中心になってしまいます。「どうしてもこれが欲しい」と言うお客さんがネットを辿ってやって来てくれるのを待っているわけです。
  でも、古本屋さんで一番最初に目につくのは店先に並んだ安い本です。そこからだんだんと店の奥に進んで行くのです。ということは、お客さんが一番取っ付き易い安い本のカテゴリーをつくらなければならないのです。
  どこの家庭にも読んでしまって処分に困る小説とかハウツウ本はありますよね。それらをいくつか探して、アマゾンで調べてみましたが、やっぱりネットには向きません。『もったいない本屋』さんは、一冊一円で売っていました。つまりお客さんは送料共ですから251円で買うわけです。これでは古本屋さんの店先に並んだ10円とか、100円の本にも負けてしまうわけです。
  それに加えて、夫のはたいてい新品で買ったか、頂き物でしたが、私のは、古本屋さんか文庫本。一円、つまり251円でも売れない代物ばかりです。しかも新品で買ったハウツウ本は、まだ新品が出ています。
 で、夫が買った、比較的新しい、シドニー・シェルダンの小説をアップしました。上下そろっていますし、ご丁寧に帯までついているものもあります。結局、家庭のものって、Ⅰ、2回しか読んでいないですから本当にもったいないのです。これを原価の三分の一に計算して出しました。
  値段が適当かどうか、検討の余地はありますが、それは、100MB入れ終わったら、また検討することにして、今は探してアップすることに専念することにしました。更に昔、プレイヤーも持っていないのに買ったLPレコード。これで、9MB。まだまだ先は長いです。

2012年10月28日日曜日

国立歴史民俗博物館研究報告

  次にアップするのはこれにしようと思います。16集から34集までそろっているのです。夫は民俗学は専門ではありませんから、全く未読です。私も目次の書いてある表紙しか見ませんから、今回は『未読』と書き込もうと思います。
  『こんな専門性の高いものを買う人が本当にいるのだろうか』と危ぶみながら、アマゾンで調べてみると、これがみんな軒並み高いのです。イナックスより確実に高いのです。びっくりです。更に詳しく出品者の説明を読んでみると、大学図書館の旧蔵品が多く、蔵書印とか抹消印とかのついているものが多いようでした。これに比べたら、わが家の本は確実に高いに違いないと思いました。『所蔵品』という言葉も入れようと思います。
  しかも驚いたことにこれは写真を撮る必要が無さそうなのです。アマゾンにも『画像はありません』とでていました。みんな同じような表紙ですから、アップしても見分けがつかないのでしょう。意外と早くできるかもしれないとほくそ笑みました。
 でも、入れ始めてみると,写真が無いと本当に寂しいのです。それに、わが家のは写真をいれて『どんなに誰も見ていないか』を強調する必要があるかも知れないと思いました。で、やっぱり同じように手間ひまをかけて写真も入れました。これでもやっと8MBです。
  その中の第23集を、実は自分で読みたいと思って、最初はずしておいたのです。江戸時代の庶民生活の研究報告のようでした。見たいですよね。店番をしながら売り物の本を読んでいる古本屋さんの気持ちがわかります。惜しいんです、逃げられてしまうのが。
 でも、きっと基礎知識の無い私が読んでも分からないだろうと思ってまた入れることにしました。それだけ他より少しだけ高めにしました。売れないでいてくれたら、私が読むチャンスが巡って来るかも知れないと思ったのです。
  そうこうしているうちに、第22集が無いのに気付きました。あたりを探しても見つかりません。十年前はあったのですから、あっちこっち移動している間に消えてしまったようです。それで結局、数としては最初の目論見と同じ18冊です。余り気にせず、出て来たらまたアップすることにしましょう。

2012年10月26日金曜日

夫はコレクターまがいだったのです

  一度便器を集めて来て、敷地の空いているところが便器だらけになっていたことがありました。ですから、手軽な本などはいくらでも買ってしまいます。しかも読まないのです。
  書斎はありますが、どんどんどんどん膨れて行って、家中書斎になってしまったこともありました。それである時、「どうしても一部屋開けてくれ」と談判して、元の書斎に閉じ込めようとしましたが、入り切らないのです。さすがに諦めて夫は「古本屋さんに来てもらって本を売ろうかな」と言いました。それでいくらになったと思いますか。トラック一台半、30万円以上になったのです。入院費用が賄えました。
  今私が扱っているのはその残り物です。それでも一部屋あるのです。その中から、「読まない」と言ったものを拾い出して来て、ほこりを拭い、おもてと中身を調べて、どんな本か,誰が書いたか、特徴を書き出します。それからアマゾンで値段を調べて,中間より少し高めに設定します。何せ、ほとんど未読なのです。コレクター商品と言ってもいいのですが、そこまで自信はありません。
  それからやっとスキャナーで写真を撮ってショップにアップするのですが、ある日、ハタと気がつきました。『お客さんはなぜウチの店がアマゾンよりちょっと高めなのか分からないだろう』と。私がここでいくら、読んでないし、レアものだし、きれいなんだと強調していても、写真はアマゾンの方がきれいなんです。
  それで、ショップの説明のところに、ちょっと高めの理由を書いておかなければならないと思いました。まさか『コレクター商品』とは書けません。それほど丁寧に仕舞っておいたわけでもなく、それほど値段を高くしてもいないのです。
  アマゾンに出品しているお店は、『経年劣化あり』とか『書き込みあり』とか、『傷あり』とか、状態を詳しく書いていました。それで値段を決めているようです。私も考えました。『きれい』というのは私の主観ですから、人は違うふうに思うかもしれません。それで、『誰も読んでいない』という事実をふまえで、最初『未読』としましたが、でも考えてみれば、私が特徴を書き出す為にパラパラと中身を見たのです。夫も買ったときは、さすがにパラパラとは見たと思います。それでも誰かが読んだという痕跡はありません。開いたあとがついていないのです。それで、『未使用』と書きました。再度ショップを開いて最初から一つ一つ引っ張り出し、この文字を入れて行きました。
  これで少しでも、商品の良さが伝わればと思います。勿論、汚れなどのあるときは、『経年劣化あり』とも書き入れました。

2012年10月19日金曜日

スキャナーで撮り直し 

 ある日、暇に任せて、手直しをしていましたところ、クリックして大きくした商品の写真がぼやけていることに気がつきました。表紙の副題が読めないのです。やっぱり、カメラで六冊一緒に撮って切り分けたやつはダメなのかと思いました。立体的なやつはカメラでないと写せないのだから、本のように平面的なものはスキャナーで撮るべきだったと後悔して、それから時々写りの悪いのを選んではスキャナーで撮り直しをし,写真を取り替えました。
  そんな編集過程で、違う商品の説明文がついてしまった大間違いも発見。時々手直しも必要のようです。
  一日およそ二時間のショップ仕事のときは,用がなくっても必ず画面を開いてみますが、並んだ画面が美しいのです。一つ一つを取ってみたらアマゾンの方がきれいかも知れませんが、うちの方が写真が大きいので、並んだ感じが圧巻です。と、一人悦に入っています。それを見るたびにスキャナーで取り直して良かったと思います。
  もう一つ、暇だといろんなことをするもので、今月打ち込んだ新しい商品がヤフーで見つけられるかと、名前を打ち込んでみました。『ありました』と思ったら、他所のショップの名前が出ていました。アマゾン以外でも売っているのです。ちょっとがっかり。それで、また焦って、値段を変えようかと思いましたが、止めました。うちの商品に誇りを持たなければダメでしょう。美しいし、初版本だし、レアものなのだから。
  結局、うちの商品は検索できませんでした。まだ、検索サイトに載っていないのでしょう。やっぱり何回もショップを覗いていたのは検索エンジンだったようです。がんばって載せて下さい。その間に私は次にアップするレアものを夫の本棚から探します。さて、どんなのにしましょうか。

2012年10月12日金曜日

アマゾンの値段は日々変わるのです

  INAXの打ち込みを終え、修正もして、今月の仕事はこれで終わりとばかり,のんびりしていたのです。それがある日、何かを修正しようとアマゾンのページを覗くと、値段がドンと変わっていたのです。
  びっくりしてよくよく見てみると、アマゾンで新品もおいてありましたが、中古本を持っている人がそこに出品して売っているのがあって、私は両方見比べながら値段を決めていたのです。ところが、おもてに書いてあるのは最安値で、そこをクリックして開くと、出品している店主が自分で判断した値段がそれぞれに付けられているのです。『可』の本は安く、『良』の本は幾分高く、『新品同様』や『初版本』は更に高く、保護カバーがつけられていたと言う『コレクター商品』は何倍もの値段がついていました。
  『エー』と思って、思わず値段を再チェックしてしまいました。よく見ると、中には一冊売れて、次の値段が出ているものもありました。つまり最安値の『500円』のものが売れて次の値段の『2500円』が最安値になっておもてに出ていたのです。初めはオークションでいきなり高くなったのかと思いましたが、そうでは無さそうです。
  かと思うと、新しい出品があったらしい本は最安値が安くなっていました。つまり、『10000円』を超えていたのに、今は『9999円より』がおもてに出ています。  これは難しいです。『やっぱ自分のの美意識でいいのかしら』とショップに出す値段表をまたつくり直しました。家のはどちらかというと『コレクター商品』に近いのです。集めていただけですから。読んでいないし、ほとんどが初版本です。でも保護カバーなどはつけていませんからそれなりに表紙の角が擦れたものもあります。それで、やっぱりもとの『少し高めに』戻しました。
  もう一つ、お客様の好みを判断するページを見つけました。つまりどの商品にお客様が何回訪れているかを記録したページがあったのです。それはお客様か検索エンジンかどちらかは定かではないのですが、私の予想とはずっと離れていました。難しいですね。
  この値段を付けるというのはおこがましいですけど、店主の醍醐味なのかもしれません。本の美しさ、古さ、必要度、いろんなものを考え合わせて、値段を付けて行くのでしょう。叉しばらくしたら、再チェックしなければならないかもしれません。超レアものだと思っていた商品が、一点出品されていて、値段を下げた例もありましたから。
  私も『どうしても売れなかったらアマゾンのここに出品するという手もあるんだな』とも思いました。これはまだまだ先のことで、出品限度の100MBまで商品を並べてからの話ですが。このままで行くと、夏休みを挟みましたが、今三ヶ月で5MB超ですから、慣れて来たとは言え、あと一,二年はかかりそうです。
今だけに集中する 

 『あるのは現在だけ、今を最高に生きる』という言葉は、昔から言われていましたが、私が実感として分かるようになったのは、つい最近、年金を貰い始めてやっと一息ついた後でした。
  その頃、やりたいことはいっぱいあったのです。しかし、父が亡くなり、母が認知症になり、特有の騒動を起こし出し、足腰が衰えて入退院を繰り返すようになり、加えて夫の糖尿病、それに起因する脳梗塞、入院退院。初孫の世話。『何でこんなに忙しいんだろう。やりたいことはいっぱいあるのに』と足掻きしていました。
  そんな状態の一年半前、東日本大震災が起きました。昼過ぎでしたか。孫と娘が来ていましたから、私は孫を抱き寄せ仁王立ちしていました。
  父が亡くなったときから、死は随分身近に感じられていましたが、その後の津波、行方不明者、原発放射能漏れなどが次々に起こると、もう、やりたいことなんて言っていられません。みんなで知恵を集め、手を貸し合って生きて行けなければならないのですから。
  わが家でも皿は割れ、本が落ち、柱が少し曲がりました。それでもたいした被害は無く、水道や電気が止まり、交通渋滞で孫と娘が帰れなくなったことくらいでした。それらの片付けを娘たちが協力してやり、水道の止まったわが家で、下の娘が抜いていなかった風呂水を管理して水洗トイレの水を間に合わせました。
  あの震災以来、絆という言葉がクローズアップされた感がありますが、私も実感として体験しました。家族がいて自分がいるのです。あれ以来私はやりたいことの一つを忘れました。家族への手助けが最優先になりました。『何と遅い気付きか』と思いますが、とにかく気付いたのです。
  今、私は家族の中心にいます。結構重労働です。確かに昔から中心にいて重労働で、その頃は『逃げ出したい、違うことをやりたい』といろんな夢を見たり追いかけたりしていたのですが、今は掃除機をかけているときでもその時間に集中しています。『明日はこのカーペットを洗濯しよう』とか、『使えない前の掃除機の集塵バッグはどうやったら再利用できるか』とか、洋服の出し入れのときは、『この使わない服の再利用はどんなふうにしよう』とか。昔は『早く終わりにして、次の何かをしなければ』と急かされるようにやっていた夢とはかけ離れた家事が、そこに家族の喜ぶ顔が浮かぶことで夢中になれるのです。
 そこにはもう、思い煩う過去も夢に見る栄光の未来もありません。夢中になっている現在だけです。こうした最良の現在の積み重ねが信頼に繋がり、最良の未来になるのでしょう。イチローさんの名言は『小さなことの積み重ねがとんでもないところに連れて行ってくれる』でしたか。
  やりたい夢はいつかまた始めます。それよりも今は『今が大事』なのです。今しなければ消えてしまうことも人もいっぱいあるのです。過去も未来も思い煩うのは愚かです。やっと認識しました。
  更に考えてみると、父母のことが思われました。本当にたくさん助けてもらいました。私に愛情があるからだと不遜にも思っていたのですが、今はそれだけではなかったのではないかと思われます。あの時代の人たちは戦争を経験しているのです。『みんなで助け合って』というのは言われなくても身に染み付いていたのでしょう。みんなが助け合って同じ方向を向いて、だから戦後の大きな経済成長を成し遂げられたのではないかと思いました。

2012年10月5日金曜日

忙しいと言葉尻を気にしている暇がない 

 実は私は、内にこもるタイプの人間なのです。後悔もいっぱいしますが、執念深く恨みがましい人間です。
  幸い息子はいませんので、嫁姑の確執をすることはありませんが、夫の母である今は亡き姑とは犬猿の仲でした。一言弁解させて貰いたいのですが、姑も同じ性格だったのです。そこに来て、その頃は二人とも専業主婦だったのです。つまり、いつも自分たちの感情にだけ向き合っていたのです。
  娘達が大きくなると、『お宅は娘さんでいいですね』とよく言われましたが、そんなことはありません。今でも言いたい放題言い合っていて、私は「絶対同居なんかしない」と公言しています。
  要は、言いたい放題言い合っている言葉尻が時々遠慮会釈もなく胸に突き刺さるのです。それは近くにいれば誰でも感じることです。じゃれ合っている子犬が時々噛まれて泣いているのと同じです。でも、対人恐怖症気味の私ですから、内にこもってしまうのです。そういう私の娘達ですから、やっぱりみんな内弁慶で近くにいるのです。いないと寂しいのでしょうが、摩擦が多いのです。
  そんな私が、ショップを始めて、ブログを始めて、『どうしたらお客さんが来るだろうか』、『本当にブログは公開されているのだろうか』、『なぜアメリカからトラフィックが来るのだろうか』などと夢中になっていると、娘達の言葉尻が余り気にならなくなって来たのです。
  『生きるってこういうことなのかな』と思いました。つまり、自分のしたいこと、おもしろいと思うことに夢中になっていると、他のことは余り気にならなくなって来るようです。
 『役者は親の死目に会えない』とよく言われますが。それだけ夢中になっているということですよね。他にも社会の第一線で夢中で仕事をしている人たちでは、物理的にも感情的にも親の死目に会えない人はたくさんいると思います。
  その後悔も恐ろしいことですが、でも、私は幸いにも六十代ですから、そのバランスの取り方を知っているつもりです。仕事を楽しみながらも、家族の居心地の良さに心を砕く。感情の棘が気にならなくなった分、大らかな気持ちで家族に付き合って行こうと思います。悪く言えば、あのピン芸人のように『受け流す』生き方でしょうね。
  これも一日二時間、『ああしよう、こうしよう』と夢中になれるショップがあるおかげです。その他の時間で家事もガーデニングも買物も運動もこなさなければならない。忙しいのです、主婦は。

2012年9月28日金曜日

打ち込みをしていると 

 アマゾンの値段表を見ながら、写真をアップし、少し高めの値段をいれ、中をぱらぱらとめくって、内容の確認をし、筆者の名前などを打ち込んでいると、『こんな美しい本を、売らなくってもいいのじゃないか』と思えて来て、値段をどんどん高くして行ってしまう自分に気がつきました。
 でもね、本当に見ないんです。私は専門じゃありませんし、本は様々なテーマに分かれていますから、夫も専門外のものはやはり見ないのです。もしかしたら、あの頃、よく東京へ行っていましたから、ギャラリーを覗いていたのかもしれません。
  それで、ハタと気がつきました。『もし、このテーマの好きな人がいて、その人がこの本に出会ってくれたら、こんなすばらしいことは無いのではないか』と。
 打ち込み始めて、何日かして、そのことに気がついて、もう半分打ち込んだのを、最初から引き戻して、値段をアマゾンと同じに修正しました。この本を探している人がいたら、早く出会ってほしいと殊勝に思うようになりました。私も少しですが、商売の本当の意味に気付いた気がしました。いくら儲かるかじゃないんですね。出会いを演出してナンボなんです。
  ただ一つ、夫も少しは協力したのか、INAXからの礼状の入っていたのだけは少し高めにしました。本当にきれいなのです。
 本て、つくった人みんなの思い入れがあふれていて、みんなそれぞれに輝いているので、値段は、私ごときがつけるのは本当におこがましい限りだということがよく分かりました。謙虚にアマゾンさんの設定に従わせていただこうという気になりました。
  さて、INAXのうち込みもあと少しになりました。こうして商品を点検して並べて行くのもショップ店主の仕事なのですね。お店は、まだまだ、20分の1しか埋まっていません。写真を撮ってアップして、商品をどんどん多くして行くんですね。そうしてお客さまと商品の出会いが実現したら、始めてお店の収入になるのです。何となく分かって来ました。

2012年9月22日土曜日

値段を付ける

  次に値段です。最初に並べるのはINAXブックレット。昔、バブルの頃、INAXギャラリーが展示会を開くたびに展示品の説明と写真を一冊の本にして出していた逸品です。ギャラリーではそれを千円前後で売っていたようでした。
  以前ホームページで売れた二冊のうち、一冊は『立版古』という読み方も分からない、何か、紙芝居のようなものだった気がします。もちろん今は手元にありませんから正確ではありませんが、きっとそういう趣味を持った人が買ってくれたようなレアものだったのです。もう一つは『学校—学校建築の冒険』、これは卒論を書く学生さんのような方が買ってくれたような気がしていました。
  他の本も専門性が高く、写真がフンダンに入り、数人の専門家が説明文を書いています。
 それで娘達に話してみると、『オークションに出したらいい。本当に必要な人なら高く買ってくれるよ』という意見でした。
  『オークションねえ』と思いましたが、一度オークションサイトは覗いてみたのです。でも、案の定、『私には無理』と、すぐに諦めました。
  そうすると、今度は私が値段を決める必要が生まれて来ました。以前二冊売ったときは、私も原価の千円の値段を付けていたのですが、1900年代の終り頃の本ですし、見るたびにきれいなのです。長く所蔵していたのだし、こんなに手間ひまかけて売り出すのだから、原価+手間ひま、レアものの価値、倉庫代、それにインターネット代を加えて五千円でどうだろうかと、強気に思いました。
  そこで娘が一言、アマゾンで中古品の値段を出しているサイトがあるというのです。見てみました。確かに五千円するものもありました。INAXアルバムというのも一冊一緒に入れようと思って調べてみると、それは一万円超でした。でも、千円に満たないものもありました。
  因みに、『学校』は千円超でしたが、『立版古』は三千円超,立体透かし絵と書いてありました。
  と言うことはこれに準じて値段を付けるのが妥当かも知れないと思い、これよりは少し高めに設定しました。家のものは、ほとんどが初版本で、値段も昔の値段がついていますし、今回私がぱらぱらとめくった程度で、本当に誰も読んでいないのです。アマゾンはものによって配送料無料と書いてありましたが、なかなかそうも行きません。こうして高くはなってしまうのですが、あちらが無くなってしまったら、こちらに注文が来ると思ったのです。
  そしてアマゾンにも出ていない、本当のレアものはいくらにしましょうか。

2012年9月16日日曜日

あきない 

 来訪者が来ているのか、いないのか、よく分からない状態で、お店を開いていると、将来が不安になります。このまま、誰も来ないで終わってしまうのか、それとも千客万来になるのか。これは普通のお店の人と同じだと思います。
  まだ開いたばかりだというのに、『十年したら仕舞おうか』などと考えていたりします。そんなとき、夫の言った言葉を思い出します。「商売を『あきない』というのは飽きないでするからなんだ」と言ったのです。
  その時はただ『なるほどうまいことを言う』と思って聞いていたのですが、今は実感として分かります。商売には『飽くなき工夫』と共に『飽きない忍耐』が必要なのです。それがまた商売の醍醐味でもあるのでしょう。そういうアイディアにも辛抱にもあまり自信はありませんが、努力することに意義があるのかもしれません。
  そういう状態で、『古物商の許可』を取るときも悩みました。将来誰も来ないなら、二万円近くは無駄な投資です。でも『後ろには引かない』と思うなら、これは前に進む道です。それで、前に進む道を選んで警察に申請に行ったのです。これが無ければ、商品の工夫に多様性が発揮できないのですから。
  お金がかかりますから、『先ずATMで下ろして』と思い、八時半に警察につきました。ATMもまだ開いていないので、ドアの開いていた警察に先に行き、説明だけでも聞いて来ようと思いましたら、警察も「九時から」と言われ、それでも書類を取り出して来て説明を始めてくれました。
 「ネットショップを始めたのですが、古物を売る為には古物商の許可がいると書いてあったので」と正直に言いました。
  担当の方が、「古物商を始めるには、いろんな書類がいるんだ」と言いました。「つまり、古物を仕入れて売るわけだから、」とそこまで言われたのを聞いて、私のとちょっと違うと思いました。
 「仕入れはしないんです。手持ちのものを売るだけですから」
  「ああ、それなら許可はいらないです」
  何となくホッとしました。担当の方もホッとした様子だったのを見ると、書類というのがそうとう複雑で、大変なのだろうと思えました。
 「良かったね、一万九千円も取られなくって」と言われて帰って来ました。

2012年9月13日木曜日

JPGで

  スキャナーの設定をしてくれたときに娘がフォトスタジオというアプリケーションを入れてくれました。最初スキャナーで、コピーをするように取って、それをフォトスタジオできれいに切り取り、サイズを指定して小さくすると、出来上がりです。
  次にそれをショップにアップしたのですが、ショップ画面を覗いてみてびっくり、出来過ぎなのです。最初にアップしてあったメインの本が霞んでしまいました。
  これはメインの本も取り直しをしなければならないのではないかと覚悟を決めましたが、六冊ずつ撮った写真の方を、フォトスタジオで切り取って、一冊ずつにすると、同じような画質になるかも知れないと推測し、やり始めました。最初のうちはどうにかうまく行ったのですが、突然、『JPGで』という警告が出て、画像がアップできなくなってしまいました。そこで娘に聞きたいと思いましたが、やっぱり真夜中でした。
  翌日、起きて来た娘に聞いてみましたら、「よく説明を読んでね」というつれない返事。娘も忙しいのだろうと思い、またコンピューターに向き合って再挑戦しました。でも同じです。とうとう行き詰まって、「『JPG』とはなんぞや」とネットで調べてみました。『圧縮イメージ』なのだそうです。そう言えば、最初に切り取ったときに、保存をどうするかと言う選択肢がいくつか出て来たような気がしていましたが、その時は確か、『JPEG』でしていたような気がします。それでもダメだったんです。
  その時ハタと気がつきました。六枚ずつの写真はプレビューのJPEGイメージと書かれていたのです。このプレビューのまま、一枚ずつ切り取ることはできないかと思いまして、やってみたら、できたのです。フォトスタジオを使わなくても良かったのです。保存のときにJPEGを選んで保存すると、それをショップは受け付けてくれました。ちょっと分からないことに、フォトスタジオでつくった画像は受け付けてくれるものとくれないものがあるのです。
  フォトスタジオとプレビューの違いは『サイズ』と『KB』の違いのような気がします。フォトスタジオは『サイズ』と『KB』を小さくできるので、無料のゼロショップのように『100MB』しか商品を並べることができない小さなショップは、大きい『KB』だと商品の数が少なくなってしまいます。しかし、それはまた後で考えましょう。何せまだ、『ⅠMB』も使っていないのですから。
  それで、今は、スキャナーとカメラ、フォトスタジオとプレビュー、『完全に』とは言えませんが、どれも使えるようになりました。進歩です。

2012年9月8日土曜日

商品数を多くする工夫 

 最初のお客様も一段落して興奮が収まると、『もしかしたら、これが最初で最後かも知れない』と、またぞろ不安が頭を持ち上げました。
  ショップの方も余り見られていないようでした。こちらは私が手直しの仕上がり具合を見る為に覗いた分もカウントされるので、リンク元URLを見ると私や検索エンジンロボットが覗いた分がほとんどのようです。来訪者のものと思われる検索サイトのようなものもたまにありましたが、それが本当に来訪者なのか検索エンジンなのか全く分かりません。
  それで不安になって、ネットショップの本を辞書代わりに読んでいましたら、『商品の数の多いショップの方が売上が多い』というくだりがありました。単純に考えてもお客様のニーズの数だけ商品があれば売れるわけです。叉、検索エンジンにも引っかかり易いのかもしれません。
  確かに、以前、ホームページで隠れてお店を開いていたときも、5、6年の間に二冊売れたのはいずれも夫の手持ちのレアな古本でした。ショップに並べた3冊ではなかったのです。
  『でも増やすと言っても』、とためらいがあります。古本を売るには古物商の許可を取らないといけないと、例の教科書本に書いてありました。でも、でもなのです、このシリーズの本は家では一度も読まれていないのですから、つまり、洋服で言ったら『袖を通してもいない』のですから、ある意味、新品なのです。古物商の許可は時間ができたら取リに行くとして、そんな新古本は並べてもいいのじゃないかと思って、先ず、あの写真撮りと格闘しました。
  電池が充分ではなくって、電池を買いに走り、次に本を出して点検、冊数が多いので、六冊ずつ並べて数回に分けて取りました。でもそうすると、一冊ずつが小さくって肝心の表紙の美しさが見られません。
  そこで娘が、昔夫が買って、一度しか使っていなかったスキャナーで取ることを提案してくれました。

2012年9月1日土曜日

農薬列島

  首相官邸周辺の原発反対デモの話が、余り大きく取り上げられることも無くどんどん大きくなっているようです。私も行かなければならないと思うのですが、何時に変わらぬ忙しさを理由に延び延びにしています。
  これは、反体制のデモではないので行き易いのですが、私にはもう一つどうしても提言しておきたいことがあります。もう既に多くの方が指摘されていることで、私が今更言ってもそれこそ、形にはならないデモのほんの一員にしかならないことなのですが、それでも、これは60年の歴史を経て、私のような凡人でも気がついたという真実です。
  昔々、私が子供だった頃、農家のわが家は広い屋敷を持っていました。あまりに広い屋敷内の草取りを一人でする母を気遣って、父が除草剤なるものを始めて導入しました。父の愛情のたっぷり詰まった除草剤は散布され、母は翌日から暑い中を草取りに這いずり回る労働から解放されるはずでした。その頃は他にも田の草取りという田んぼの中を這いずり回る仕事もあったのです。旧暦のお盆に向けた屋敷の草取りだけでも手が抜ければ、母もどんなに助かったか知れません。
  翌日、台風が来ました。一夜明けて、木の枝が引きちぎられ、緑が散らばった台風一過の裏庭で、食用に飼っていた池の鯉が白い腹を見せて浮かんでいました。全滅です。『雨で除草剤が流れ込んだんだ』と父が言っていました。そのとき、子供心に除草剤は毒なのだと思いました。その後、田舎では除草剤を飲んで自殺する人の話もよく耳にしました。田舎では手近な毒だったのです。
  あれから半世紀、父も亡くなり、母も認知症になってしまいましたが、今や除草剤は全盛です。跡を継いだ弟や従兄弟たちは、広い屋敷を持て余し、『除草剤が無かったらどうしようもない』と言います。不動産屋の管理する空き地には草一本生えておらず、草むした墓地などどこにもありません。農地でさえ、パッチワークのように薄茶色の畑が目立ちます。
  私のような凡人は、見過ごしていれば何でもないことなのに、なぜこんなに気になるのかと言うと、化学物質過敏症の知り合いがいるのです。ある知り合いということにしておきますが、彼は除草剤の毒の臭いが分かるのです。近くに行くと苦しくなるらしく、泣きますし、近づきたがらないのです。防虫剤や殺虫剤はもっと過激で、かけられたゴキブリのように苦しがります。どこに混ぜ込まれているのか分からない抗菌剤でも感じ取って苦しがります。
  私たちには分からない毒素を感じ取るのですから、まるで超能力者のようです。でも、未来の見える超能力者が幸せとは限らないのと同じように、毒素を感じ取れる彼も、決して幸せではありません。毒を感じたら避ければいいと思うかもしれませんが、除草剤がまかれ、殺虫剤がまかれ、抗菌剤が揮発する夏には彼の居場所は無くなるのです。もちろん墓参りにも、公園にも、果物の実る田舎にも行けないのです。
  私たちの住む地域では放射能検知器を持つ家庭が増えていますが、この毒素検知器も作れば売れるのではないでしょうか。放射能だけではありません、毒素は確実に存在するのです。撒いているのですから。
  美しい果物の為に消毒は欠かせないし、労働の軽減の為に農薬はある程度仕方の無いことなのかもしれません。しかし、自分達の健康のためにも、できるだけ少なくする工夫と行動をしないといけません。今は機械も良くなりましたから、草を根こそぎにしなくっても、草刈りでもいいはずです。抗菌剤を使わない表示をしてくれれば、一生懸命日に当てます。ゴキブリやネズミはホイホイに任せます。蚊取り機は過敏症の彼によると蚊取り線香よりも水性蚊取りの方が毒性が弱そうです。今は蚊取り線香も昔のものと違うのかもしれません。寝るときはテント式の蚊帳を掛けると安心です。少し労働は多くなりますが、地球を健康にする為には原発反対のデモと同じくらい大事なことだと思います。
  そう言えば、昔々、こんな状態を見越した小説を書いた有名な女流作家がいたような気がします。まだ読んでいないので、今度図書館で探してみましょう。

2012年8月26日日曜日

後ろ向きにならないこと 

 一週間経っても二週間経っても誰も見てくれた気配か無いと不安になります。ネットのヘルプのコーナーでよくある質問はブログやショップを止める方法なのだそうです。
  でも、私は止めないのです。どうやったら見てもらえるか時々開けて修正したりしていました。
  特にブログは厄介で、アメリカ発のトラフィックというのがついて来て、消せないのです。アメリカ人が私のブログを読むはずもないし、一度開けたら、ファッションショーのようなページで、英語だし、『これがスパムか』と思い、報告しましたが、『スパム除去のシステムをつけてあります』と言うテロップが出ただけでした。
 『トラフィックがついていて離れないのだ』といくら言ってもダメでした。
  ところが月が変わるとそれも消えたのです。何か手を打ってくれたのかと思って安心していると、すぐに今度は四つもついていました。今度は加えてロシアと韓国とドイツからも来ていました。もう絶対に開けませんが、何なんでしょうね、これは。
  前に止めた人のURLを貰うと前のつながりがそのまま着いて来ると聞いたことがありますが、それなのかもしれません。しばらく静観することにしました。
  それよりも大事なのはどうしたら人に読んでもらえるようになるかです。とにかく来訪者はアメリカとロシアと韓国とドイツのこのトラフィックの方々だけのように見られるのです。来訪者がなければ、『ブログで収益』なんて見込めません。『アドセンス』という収益システムに申込だけはしてあったのです。焦りました。
 二週間目には不安になってブログの本も何冊か借りて来て読みました。いろいろ書いてありましたが、ただ一つ納得したのは、『中身の濃いコンテンツを書くことだ』と書いてあったところです。まじめに人に受け入れられるように自分の発信したいことを発信し続けなければいけないのだということです。そういう方々のブログをいくつか紹介していましたが、それこそ種々様々でした。自分が一番興味のあることを掘り下げているのです。
  で、『アドセンス』は承認されたようですが、リンクは張らないことにしました。どうせ収益になりそうも無いなら、広告の無い簡素なページの方が、ありがたいですし、読んで下さる方にとっても読みいいのではないかと思ったのです。
  さあ、がんばって書いて行きましょう。

2012年8月25日土曜日

初めて注文が来た

 その日、外泊して昼頃に帰って来て、メールを開くと新しいメールが二通も来ていました。一つは自動メールを送信したというショップからのメール、もう一つはそのお客様からの送り方の指示を書いたメールでした。
 『わー、どうして』という感じでした。『誰も見てくれていないかも知れない』と思っていたのに、見てくれていた人がいたのです。『バンザーイ』と心で叫びながら、口では「どうしよう、どうしよう」と叫んで、夜中仕事をしていて、昼まで寝ている娘に相談しようとして、気がついて思いとどまり、テレビを見ていた夫のところに行って叫んでいました。「注文が来た。まだ一ヶ月も経たないのに」。
 夫の返事はこれ叉変なもので、「もうすぐ『下』が出るよ」。夫の『もうすぐ』はあまり当てにはならないのですが。やがて起きて来た娘は「上まで聞こえたよ」。
 ショップを開いてから一ヶ月弱ですが、『このまま誰も見てくれないで、前みたいに一年二年と経って行くのじゃないか』と、何となく不安で否定的で、落ち着かない日々でしたが、いっぺんに自信が湧いて来ました。理由もなくやって行けそうな気になって来ました。
 急いでコンピューターの前に座って重さを量り、送料を決めて払い込みをお願いするメールを出しました。出してしまってから、心配になってまた計算し直したりするのはいつものことです。
 払い込みの手紙が来て、一刻も早くとレターパックに入れ、近くのポストまで行って、ポストに入れてしまってから、『そう言えば』と、ガサガサと音がしていたことが気になりました。それで例の教科書に『詰め物』というのが載っていたのを思い出しました。緩衝剤です。家に娘が寒さ対策にいいと言って買った緩衝剤がいっぱい残っていたのを思い出しましたが、もう後の祭りです。
 発送済みのメールに『もし不都合があったときは』と書いて送りましたら、ご丁寧に『無事つきました』と言うメールが送られて来ました。ありがとうございます、最初のお客様。

2012年8月18日土曜日


ブログのこと

 ブログを書くと、そこに広告がつけられて、見た人がクリックするとお金がもらえる『アドセンス』というサービスがグーグルにあるそうだという話は娘から聞いて知っていたのです。この際ですからショップの集客の為にもブログを始めようと思いました。
 でも、そんなにうまく行くとは思っていないのですよ。今まではヤフー派でしたから、ヤフーにホームページを持っていたこともありました。有料だと勝手に広告をつけられることが無いというので有料にして、禁止と言われていた本を売るページを紛れ込ませて、でも五年で二冊しか売れなかった話はしましたよね。その後無料のホームページにしたのですが、何か余り好ましくないリンクが張られて、びっくりして止めました。今となってはどうやって止めたのかも全く覚えていません。
 あと、アンケートも二社ですが答えています。まじめに答えていると、二社だけでいっぱいです。それで、収入は年間にしても二、三千円程度。以前はそれで宝くじを買って一攫千金を夢見ていたのですが、一攫千金なんて夢のまた夢です。分からないのですよね、やってみないと。
 だから、ブログで収益なんて聞いてもほとんど信じてはいないのです。でも、ビジネスウーマンになる為にはできることは何でもしないとなりません。書くことは好きなので、先ず、第一関門はクリアです。
 で、早速眼鏡をかけて、ブログのコーナーをクリックしました。そこで知りました。ブログってサロンのようなものなのですね。同じ趣味のお友達と情報を共有しようと勧められます。でも、それは対人関係が苦手だからインターネットで仕事をしようと思っている私にはこの上ない違和感でした。それでも、ここで諦めたら何も始まらないわけです。後に引かないように自分を追い込む為のブログなのですから。これは背にした壁なのです。
 そう考え直して、まじめに基本情報に向き合いました。でも、最初に顔写真を要求されて、またどっきり。『そう言えば、あの名取裕子さんだって、裸になった映画があったっけ』とか、鈴木砂羽さんは、画家のご両親に、『いつも、「自分を表現しなさい」と言われていた』とか、思い出しました。自分を表現するには顔を見せるのは当たり前かなと思って、更に考えた末に、数年前のトルコ旅行で小さく写っている写真を選びました。それをアップして基本情報に移りましたが、次々に私的なことが聞かれるのです。さすがに全部は答えられませんでした。
 この間、テレビで梅ちゃん先生の堀北真希さんが部活帰りの田舎道でジャージ姿のままスカウトされたと言っていましたが、『よくそんな話を信用して乗れたものだ』と思うのは私だけでしょうか。でも、乗ってみなければ何も始まらないのです。
 それで、これでエイヤーとアップしてしまいましたが、いざ、それが若い人たちのはじけるような明るい情報の中に出て来ると、何とも場違いな感じがして、『やっぱり、ホームページの方が良かったか』と、今度は消しにかかりました。でも、一度アップすると全部は消せないのだそうです。特に写真はいくらやっても駄目でした。
 それでまた考えました。『ここがクリアできなければ先に進めない。一度やろうと思ったことをまた臆病で止めてしまうのか』と自分に問い直しました。今までと同じ、また元の木阿弥です。
 そして、また、基本情報をいれ直して、トルコの風景だけの写真をもう一枚いれ、顔写真を取り下げました。消すことはできないみたいです。
 それから最初に書いた『百歳まで生きるなら』をコピーしてブログのページに貼付けました。何も無い、文章だけのブログです。共有する友も仲間もいない一般公開でした。
 ヤフーのホームページで、ダイエットの文章を書いていたときは毎週30人くらいの訪問者がありましたが、今回はだいぶ不安です。『ネットの闇の中に消える』と誰かが言っていましたが、『ブログの波間に消えて行き』そうな感じです。
 それから、広告を貼付けるアドセンスという契約に申し込みました。すぐにできるものと思って、何度も押しましたが、審査に一週間かかるのだそうです。説明は確か英語だったと思います。私も怖がっていますが、向こうも怖いのです。

2012年8月4日土曜日


本を片手に

 会社で作った夫の三種類の本を売るのが手始めです。在庫があるのです。もうすぐ四種類目もできて来る予定です。
 今までは夫がお仲間と手分けして売っていました。私は何せ対人恐怖症気味なのでとてもできません。本屋さんをしている従姉妹が一度何冊か売ってくれましたが、彼女は買ってくれそうな人たちに売り歩いてくれたようです。悪いことをしてしまったと思いました。確かにお客さんが買ってくれなければお金にはならないのですが、恐怖です。断られるのも怖いし、『買いたくないのに無理強いしてしまった、恨んでいるだろうな』と後で後悔に苛まれるのも恐怖です。
 結局年金をもらって、静かに暮らして行くのが私にとっては一番楽な方法なのですが、今回はそこに逃げ込まないことにしたのです。さあ、エブリカラーショップを立ち上げましょう。
 教科書本には無料で立ち上げることのできるゼロショップの例が出ていましたので、私もそれにしました。何事もですが、途中までは簡単に進みます。ブログで一度ならずビビったので、それに比べたらあまりにスムーズに行くので拍子抜けの感じでした。スムーズに行くということは安心感でもあります。
 それが突然にがたんと止まってしまうと今度はパニックです。確かに商品の写真の画素については何か書いてありました。でも、いつも撮っている写真だからと、自信満々で最初に写真を撮り、いざアップしようと思いましたら、できないのです。画素をどうやって小さくするかなんて、ただ撮るのさえやっとの私には分からないのです。もう一度取り直そうと思いましたが、そうすると明日になってしまいます。もう夜中だったのです。でも明日にはしたくありませんでした。
 幸いにも夜中に仕事をしている娘がいました。娘の手を休めさせて、娘のコンピューターで写真を小さくしてもらい、それも二度、三度と試してもらってやっとショップ画面に収まったのは夜中の二時でした。もうビビっている暇なんかありません。すぐに公開をお願いして寝ました。主婦は昼間寝てなんかいられないのです。誰ですか、一日二時間なんて言ったのは。

2012年7月29日日曜日


実行あるのみ


 『はじめてのネットショプ』には、先ず企画書を作ると書いてありました。事業計画ですね。五、六年前にホームページで作っていた『エブリカラー小さな本の陳列棚』を最初に開設しようと思いました。そこで売るのは以前と同じ夫の著書です。いらなくなった珍しい本や、古着などは古物商の許可を取らないと売れないそうですので、もう少し後。つまり、スピンオフは もったいない古物商、もったいない手作り、減量計画セミナー、減量計画レストランもいいな、等など夢は広がりますが、先ずはショップの立ち上げです。
 先ず、ゼロショップにショップを開きます。同時並行でブログを始め、アフィリエイトになり、ショップにもリンクを張ります。一人でできるかどうか心配ですが、今、先生や先達は至る所にいますから、いざとなったら駆け込むところは、二、三心当たりがあります。その駆け込み寺が、早速古いプリンターを使えるようにつなげてくれました。
 吉江氏が指摘していましたが、集中力は三十分ずつくらいしか続かないので、三十分を三回、一日二時間くらい仕事をして、後はもう一つの仕事をした方がいいそうです。でも画面に向かっているとついつい長びいてしまうのですよね。
 後は目の養生です。老眼の他に飛蚊症も出て来ました。最近話題のブルーライト防御眼鏡を注文したのですが、引っ張りだこで品切れなのか、まだ来ません。
 あ、来ました。来るまでは、本当に信用できるのか、ただのサングラスなのじゃないかとか、三千円も出して百円眼鏡に毛の生えたようなものだったらどうしようとか、疑心暗鬼になっていて不安でした。私はイエローを注文したのですが、眼鏡は色がついていないものでした。イエローは眼鏡のツルの色だったのです。サングラスじゃなくって何となくホッとした感じですが、形は『百円眼鏡に毛の生えたようなもの』でした。すぐにかけてみました。何となく、目が楽な感じがしました。一時的かもしれませんが。
 早速眼鏡をかけて最初の仕事です。ショップに並べる夫の本の写真を撮りました。

2012年7月14日土曜日

ネットショップの本を読む


ネットショップの本を読む

 最初は『ノマドワーカー(ノマド(nomad)は英語で遊牧民の意味。会社や組織に所属せず、移動しながら仕事をする個人事業主を指すはやり言葉)』に憧れていました。別に収入は不安定でもいいのです。少しでも入りさえすれば満足です。
 でも、問題があります。私は元々人と接する事が苦手だったのです。今までも自分の人生に恥ずかしさばかり感じて、人と会う事も避け、テレビドラマに逃げ込んで、別の世界に入り込んで癒されていたのです。
 そんな私でもできる事とは何でしょうか、図書館に行って1回の貸し出し限度の六冊を借りて来ました。
 老眼で視力の弱くなった私には二週間で六冊は読めません。目次をさっと見てぱらぱらと数ページ読み、中には面白そうなのもありましたが、心を鬼にして読む本を限定しました。
 一つは『はじめてのネットショップ』。これなら、人と接触しなくていいと考えました。実は以前、ホームページに『いらない本を売ります』というページを作っておいたら、二冊売れた経験がありました。でも、五年くらいで二冊です。『売れないだろうな』とは思いましたが、元手がそんなにかからないので、私にもできそうです。先ず先行投資でこの本を買いました。千五百七十五円でした。
 もう一冊、吉江勝氏の『サラリーマン長者』という本を最後まで読みました。吉江氏は元々営業マンだったのです。そこで知り得た営業のノウハウをレポートにして売ったのだそうです。いわゆるコンテンツビジネス、情報ビジネスというやつでしょうか。昔でいえばノウハウ本でしょうが、もっと機密性が高く時代にマッチしているので、皆さんお金を出すのでしょうか。吉江氏のいうようなA4判四十枚くらいを九千八百円で売ったというのは、営業とか企業とかに縁のない私には信じられない話でしたが、どうしても知りたい、知らなければならないと思う人や企業には安い値段なのでしょうね。バカ売れして大もうけしたというお話でしたから。先ず、この辺は私には関係がないと思えて、ただただ驚いて読んでいました。
 さて私は、本業はサラリーマンではなくて年金生活の主婦、家族の健康を考えて低農薬の野菜作りや、古着のリフォームに精出して、家計の監理をしています。実は副業は昔からあったのです。夫が作って今は全く機能していない会社の社長。事務処理に便利なので、代表を事務方の私にしてあるのです。
 夫と同じ仕事をするのは無理ですが、この中に私のパートを入れ込んで行けば、私も主婦とビジネスウーマンの復業者になれるというわけです。まさにサラリーマンでインフォプレナーの吉江氏のような安心安定と達成感の二つの幸福を求めることができるという理論です。本当はもっと早くにこういう生き方があると知るべきだったかも知れません。いや、他にもアルバイトをしていた時期もあったのですから、やってはいたのです。そこはテンポの遅い私は自覚していなかったし、私の稼ぎは食費と夫の会社の穴埋めで消えて行ったから、何も残らなかったのです。
 吉江氏の本で啓発されたことは、人間はなりたい自分になって行くということです。例えば、外国に行きたいと思っていたら、チャンスを捉えるためにアンテナを張っていくでしょう。準備も覚悟もしていきます。そしてチャンスがめぐって来たら、『行く』と手を挙げます。そうして、自分では気付かないかもしれませんが、人は夢を叶えているのです。
 じゃあ、私が今回ビジネスウーマンになるモチベーションは何かと言うと、大きな家です。『家を建てたい、だけどお金がない。せめてビフォーアフターのお金くらいかせぎたい』。考えてみれば私が働いて貯めたお金なんてほとんどないのです。
 吉江氏が指摘している、『お金を貰う後ろめたさ』というのはあります。特に昔、塾をしていたことがありましたが、子供達から集金するのが本当に嫌でした。その点、サラリーや年金として貰えるのはいいですよね。黙っていても振り込まれて。この点でも、営業マンの吉江氏の『いけしゃあしゃあとやれ』という言葉は実感がありました。
 なりたい自分をイメージしたら、あとは実行あるのみ、『踏み出さなければ何もできません』と書いてありました。

2012年6月20日水曜日


チャレンジ ー 百歳まで生きるなら            

     人生六十三歳から

 イメージと言葉が結びつきづらくなって来て、『あれ、あれ、あれ』とか、『あの人何ていう名前だっけ』とか言う機会が多くなって来た今日この頃、不安に煽られて、ぼけ防止の為の体操講座に行ったときの事でした。講師の先生がくださった資料の中に、運動の仕方と並んで、ある統計が載っていました。
 百歳以上の方々が、年々増えて現在5万人いるんだそうです。私達団塊の世代の頃は50万人に達するそうです。ぎんさんのご長寿四姉妹が言っていました、「年寄りは長生きしたらいかん」。
 そうなんです、年金で細々とでも楽しく暮らして、老後は介護保険で見てもらおうなんて、百歳までとなったら大変な事です。本当にそんな生活できるんでしょうか。それも年々少なくなっている若い人達にオンブしての話でしょう。私の周りを見回しても、若い人達は少ない働き口を何とか見つけて、条件の悪い中でも必死に働いています。年金を頂けないと困りますが、『私、このままでいいのかしら』というのも正直な気持ちです。
 それに、そんなのんびりした生活、後40年も続けたら、本当に惚けてしまいます。
 でも、私にできる仕事なんてありませんよね。五十代の頃に、仕事を見つけようとしたときも全くありませんでした。その頃、娘も仕事を探していて、履歴書を百通出したと言っていました。大変な労力です。私も負けずに百通やって見ようかと思いましたが、結局、五、六通で諦めました。百通出しても駄目だったろうと思います。娘の就職試験を一緒に受けた事もあったのですよ。結局、娘は通りましたが、私は駄目でした。
 その内、母の骨折、夫の脳こうそく等、身内の入院が頻発して、仕事のことはすっかり頭の中から消えていました。たまに娘がアルバイトの話など探して来てくれても、「ママはもういいや、忙しいし。」と断り続けていました。
 でも、百歳まで生きるとしたら、なんとか、娘達のお荷物にならないように工夫しないといけません。それに百歳まで生きるとしたら、現在でも家族の中で一番元気な私が一人最後まで生きているのかもしれません。
 夫のリハビリもありましたが、そんな思いで二人であちこちの公民館の体操講座に行きまして、その中で、それぞれにあった体操を見つけました。夫はウオーキング。しばらく独りで行っていましたが、この頃はノルディックウオーキングも始めて、二人で参加させてもらう事になりました。私は歩くの苦手なんです。
 私はその他に夫には無理だと思われるパワーヨーガの教室に通い始めました。その前に三回ほど,年に数日開かれるパワーヨーガの公民館講座に参加させていただいて、これが一番合っていると最初のときに思いました。二回目にはお腹が出ていて胡座のかけない自分を発見してこれは駄目かもと思いました。それでも三回目参加させていただいたら、何とかなるのではないかと少し思いました。そして四回目、今度こそ続けるぞと先生にご挨拶しました。結局、腹筋背筋が弱いんですね。歩けないのも胡座のかけないのも、痩せないのも、背が縮むのも、背中が痛くなるのも。インナーマッスルが無いんだと誰かが言っていました。
 そこで、元同僚に会ったのです。十年前のお話でお互い名前も忘れていましたが、「あれー」という感じです。諸々の話をする中で、彼女はもう一人の元同僚と部屋を借りて仕事を始める事にしたというのです。「今年で還暦よ」と言っていました。もう一人の元同僚も確か私より若かったから、同じ歳くらいです。「私はもう六十三よ」と言いましたが、その時から私にも何かできそうな気が沸々とわいて来ました。
 昔、生涯学習財団の松田妙子さんのお話を聞いた事がありましたが、歳を取ってもお美しい松田さんは、「自分はいつも二十歳若いと考えることにしている」と言っていました。「四十代でこの経験と見識を持っていたらどれだけ強いか分からない」。確かに六十三年の経験と四十三歳の体力があれば、私にも何かできるかも知れないと思えて来たのです。