2022年6月30日木曜日

 亡夫の誕生日

 マイナポイントの申請に行ってきて、すっかり忘れていました。私のマイナンバーカードの暗証番号は夫の誕生日なので、何回も使ってきたのですが、その番号が今日という日につながりませんでした。

 やっと気が付いたのは、今、夫が帰ってくるような気がして、「そんなはずはない」と打ち消した時でした。「そう言えば、今日だったのです」

 夫は照れ臭いのか、家で誕生日をすることはほとんどありませんでした。昔から、お友達とどこかでお祝いして、酔っぱらって帰って来る。嫌な日でした。誰に言わせても、私が気が利かないからなのでしょうが、この点でいえば、お互いさま。あまり記念日などを祝うことが好きではない夫婦でした。

 特に私は古稀とか喜寿とか、ほとんど関心がありませんで、冷静に『何歳』と思うだけです。

 歳をとって、さすがに祝いあうお友達もいなくなったようで、「今年は喜寿だ」と娘夫婦に催促して祝ってもらっていました。

 このように夫のこともときどきは思い出すのですが、この頃、母のことを思い出します。私と母はそんなに仲のいい親子ではありませんでした。母は忙しく、娘に何かを教えたり、躾けたりするような時間を取れませんでした。その代わり、なんでもやってくれましたし、助けてくれました。口で言うより、その方が早かったのでしょう。

 おかげで私は何にもできない、何にもわからない、世間に出て、よそ様に叱られたり、嫌われたりするたびに、基本のしつけもしないまま、放り出されたと思うようになりました。あとで考えれば、『世の中ってそういうもの、その場でしか学べないものはたくさんある、特につらいことなど』は。とわかるようになるのですが、つらいときはやっぱり、『教えておいてほしかった』と恨んでしまいます。

 そしてこの頃は、あのボケ―としていて、何にも考えずにみんなやってもらっていた頃のままでいたかった、『母親の羊水の中に帰りたい』と誰かが言っていましたが、『生まれて来なければ、どんな苦労も味わなくて済んだのに』と思います。

  私の子供たちもいつかそんなことを思うのでしょうか。

 だから、亡夫はきっと、姑の傍らに行って甘えているのだろうと思うのです。

 もう直ぐお盆のこの時期、私はあまり信じないのですが、帰ってきたのかもしれないとも思います。

2022年6月26日日曜日

 百歳までのYT

 冬の間、時間の余裕があったせいか、ユーチューブにまた動画を載せてみようという気になって、安いカメラを手に入れて、撮り始めました。

 前回載せたのは、もう何年も前になって、とっくの昔に消えていました。

 今回のは、いつも『いいなと思う景色』を録って、ほかの皆さんのように自慢げに見せようという魂胆でした。

  この『いいなと思う景色』、昔は油絵に描いて、今でも何枚か残っています。でも、今はそんな時間もないし、写真なら一度ですぐにできると高をくくっていました。

 勉強から始めて、二本くらいまでは気に入らないながらもなんとか載せました。

 ところがです。春になると、空気に水蒸気が混じり始め、写真がきれいに撮れません。『いいなと思う景色』がぼやけてしまうのです。

 そこにもってきて、家の周りに草が生え始め、少ない余暇がそっちに回されてしまいます。更にイチゴもでき始め、ブドウも大きくなり始めると、もう写真どころではなくなってしまいました。肥料を買ってきたり、植物性百パーセントの殺虫スプレーを探して買ってきたりと、頭も体も大忙しになってきました。

 でもまあ、また冬になったら始めればいいのですから、今は実りに感謝して、いただこうと思います。今年は枇杷とイチジク、プルーンもほとんどダメですが、イチゴはたくさんとれましたし、ブドウはたくさんなっています。これから、大きく紫色にできるかどうかは、ひとえに私の丹精にかかっていると思えば、動画どころではありません。

 これも動画の対象にすればいいのかもしれませんが、とてもそんな余裕はありません。『育て方』という名のユーチューブを見て勉強するのが精一杯です。

 まあ、百歳まではまだ時間もありますから、ゆっくりとテーマを探し、温めながら、また冬になって時間ができたら、撮影に行こうと思います。これは『冬仕事』ですね。畑仕事は『夏仕事』なのでしょう。

2022年6月11日土曜日

 こわいもの無し

 毎日ウクライナの戦争を見ていると、自分の身に置き換えて考えることがたくさんあります。

 今日のニュースでは激戦地セベロドネツクで、住民を避難させようとしている兵士や警察官の様子が撮影されていました。でも、市内のほとんどが制圧されていると言われるこの時期、残っているのはほとんどがお年寄りたちです。「病気なの、みんなに助けられながらあちこち行くのは嫌です」と言っている人や、「今ここを離れたら二度と帰って来れないと思う」と言って泣く人もいました。

 私もやっぱり動かないだろうなと思います。この歳になったらどこでいつ死んでも同じのような気がします。前に見た映画『黄金のアデーレ』でナチス占領下のオーストリアで、ユダヤ人の老親がアメリカに避難するという娘夫婦を笑顔で送る場面がありましたが、宇宙の歴史の小さな一コマとまでは言いませんが、何も怖がることはないような気がします。

 アゾフスターリ製鉄所に残った兵士たちが食料も弾薬も尽きかけ、兵站が維持できなくなった当局から投降を勧められて、二千人がロシア軍に投降した時、後五百人が残ることを考えていた節があります。「司令官がいない」と言っていましたから。「五百人なら、まだ食料も間にあうのかもしれない」というコメントもありました。中に「『死兵を相手にするな』という言葉がある」と語るコメントがありました。死に物狂いで戦うからだという事でした。彼らも投降後の拷問や裁判を考えるとそうしたかったのだろうと思いますが、『英雄には生きていてほしい』というゼレンスキー大統領の言葉がしめすような国民の願いの下に投降しました。生きていて捕虜交換してくれれば万々歳だったのですが、ロシアはどうするでしょうか。期待が甘かったのでしょうか。

 話が逸れてしまいました。元に戻すと、我々老人にはこの『死兵』の感覚があるような気がします。

 何にも忖度する必要はない。こわいものはない。誰にでも元々そういう気質があるから、歳をとって経験を積んで世の中が見えてくると出てくるのだと思いますが、私のように、夫も亡くなって庇うべき相手もいなくなり、加えて、もともとなかった社会性も益々面倒臭くなってくると、『死兵』になっていくんだなあと思いました。決して嫌なことではないですけど。

 気が付いたのですが、プーチンさんも『死兵』になっているのかもしれません。

2022年6月9日木曜日

 映画の話 『最後のマイウェイ』

 最近ギャオで見た映画で、ミステリーにはない感動を受けたのがこの作品でした。

 『あの名曲「マイ・ウェイ」には、知られざる真実があった。1939年、エジプト。クロード・フランソワは、実業家の父と派手な母のもとで少年期を過ごしていた。しかし第二次中東戦争による父の失業にともない、一家はモナコへ移住。家計を助けるため楽団のヴォーカルとして働いていたクロードだが、厳格な父は決して仕事を認めなかった。デビューを果たし、生涯6700万枚のレコードを売り上げたクロード。そして世界的名曲「マイ・ウェイ」の誕生……。フランスのスーパースターの知られざる栄光が今、明かされる。』という説明がついていて、『マイ・ウエイ』という名前だけは知っていたので見たのです。

 フランク・シナトラの歌で有名ですが、本当はクロード・フランソワ本人が書いたもので、映画の最後のころにロンドンのアルバート・ホールで熱唱する場面があり、それも素晴らしかったのですが、エンドクレジットの時の「アレクサンドリ・アレクサンドラ」の歌が本当に素晴らしかった。遺作だそうですが、あれは誰が歌っているのでしょうか。俳優か、本人のレコードか。

キャストは、出演:ジェレミー・レニエ ブノワ・マジメル モニカ・スカティーニ ジョセフィーヌ・ジャピ

スタッフは、監督:フローラン=エミリオ・シリ

 あのクイーンのフレディ・マーキュリーの映画のような感じでステージが見ごたえありました。

 フランスで絶大な人気を誇り、世界デビュー直前に39歳で亡くなったそうです。いかにも生き切ったという感じで、実話と歌がマッチしていて、レビューでは歌手の性格や生活に批判も多かったのですが、私は、感動しました。これ以上はできないというほどの努力と自我の人生だったと思います。

 で、この俳優さん、ダンスも超うまいし、歌もうまい、本当に歌っているのかしらと思って、タイトルで調べてみましたが、わかりませんでした。ベルギーの俳優さんだそうです。ちなみに、歌詞は英語だと思ったら、作詞はポール・アンカだそうです。その間の事情が出ていました。『フランソワはジャック・ルヴォー、ジル・ティボとともに、彼の代表曲のひとつ「Comme d'Habitude」(「いつものように」の意)を制作する。この作品をテレビを通じて知ったポール・アンカは、まったく新たな英語の歌詞をこの曲に与え、それは1969年にはフランク・シナトラが歌う「マイ・ウェイ」として世界的にヒットし、またエルヴィス・プレスリーや、後にはシド・ヴィシャスらによりカバーされた。』

 でも、シナトラよりも、クロードの人生を見た後では、クロード・フランソワの方がずっとマッチしている感じです。

2022年6月2日木曜日

本、神谷美恵子著作集第3巻、『こころの旅』みすず書房、付録

 『付録として加えた、本に関する小さな文章群はまた、著者の神髄をいかんなく示すものである。いかに本を愛し、文化を愛し、人間を愛したか、視野の広く豊かな、開かれた世界である。』とカバーに、多分編集者だと思われる方の文章があって、少し休んだ後に読み始めてみました。

 確かに、そうでした。神谷美恵子さんのこころの中が見て取れるような文章が多くて、その人となり、生活がよくわかります。

 例えば、『桜井方策『救癩の父 光田健輔の思い出』、この本の編集には彼女自身も参加していたようで、これは序文らしい。この光田健輔という方は長島愛生園を創立し、園長を務め、患者たちのために生涯をかけた人のようです。それが、戦後、治療薬が開発されたことで、隔離は人権無視と激しい反発を受けるようになります。私も裁判が起こって、隔離政策が不当との判決を受けたことを覚えています。

 『たとえそれが自由と引き換えであったとしても、多くの浮浪患者が困窮のどん底から救われたことは否定すべくもない。この精神の輝きは歴史を超えて伝達されるべき日本の宝ものであると信じる』。

 『切れば血の出るような 』と著者が表現した姿。『先生は晩年に至るまで彼らの中に入り込み、自ら手を下して診察し、彼らの一人一人の悩みを聞くために島の中の起伏の多い土地を、不自由なあしをひきずってくまなく歩きまわっていた。患者さんたちの隔離政策を推し進めながら、一方では隔離される彼らの心の中を察し、忍びない気持ちに苦しんだことも少なくなかったことがうかがわれる。』これは患者さんたちを含めた、関わりのあった方々の手記を集めた本のようです。

 なかに、実業家で、日本キリスト救ライ協会を設立した人物、故後藤安太郎氏の言葉が書かれている。『一人の人間の祈りがこんなに大きな組織的働きをやり遂げた例を他に見ることができない』。著者は『ただ単に過去の偉人を礼賛するためだけでなく、光田先生を通して現れた日本人の精神の可能性を、未来の世界に生かしたいというまえむきな意欲があったのである』と代弁する。

 生きる姿勢が感じられて、頭が下がります。これを読んで、現在のウクライナの問題を考えるとき、プーチンさんは『クズだ』と本当に感じてしまいますが、精神科のお医者様の神谷先生なら、きっとプーチンさんの病気を探して解決法を探してくれるのだろうと思います。

 もう一つ印象に残ったのは、著者の『読書目録』です。精神医学書はもちろんいろんな本を読んでいるんです。知人の愛読書と聞いた本とか、外国の知人から贈られたフランス語の本とか、宗教の本とか、比較文化論、詩集とか。

 バージニア・ウルフの病理の研究もしていたらしく、英文の資料を何冊も読むという項目もあります。バージニア・ウルフはイギリスの女流作家で有名ですが、カッコだけ英文科だった私は、訳本さえ読んだことがありません。「確か家に文庫本があったな、捨てたかな。今度探してみよう」と思いました。