2016年4月21日木曜日


古くなった羽毛布団

 私の服は、お下がりかお上がり、着なくなったワンピースで作ったロングスカート、端切れで作ったシャツやスカートを直したチョッキ、男物のズボンのウエストをゴムに直して履いています。だからほとんど衣料費はかかりません。
 そんな私にも直せないものがあったのです。嫁入りの時に持って来た大量の綿布団。お仲人さんの親戚が呉服屋さんだったのです。四十年以上経てばたいていのものは直しますが、お客布団はほとんど使わないので、直しようがないのです。だから、まだ直していないものが半分はあります。年に一度くらいは日に当てたいと思うのですが、花粉や汚染物質、黄砂などいつ干したらいいのやら。
 直したものは、一枚打ち直して仕立てて、一万円でした。何枚かやりましたが、今は綿の布団は流行じゃないんですね。娘達はほとんど使いません。私達も上がけは羽毛布団にしています。
 ところが、この羽毛布団も、何十年と使っていると、いろいろ支障が出て来ます。暖かくないのです。歳を取って寒がりになったのかと思っていましたが、たまに干している時に気がつきました。羽毛がよれてしまっているのです。つまり、一番肝心な真ん中あたりの羽毛が薄くなって、日にかざすと、明るさが違います。代わりに端っこの方は分厚くなって膨らんでいました。
 いつものように『こりゃダメだ』と思いました。夫は寒くないと言いましたが、彼のは値段が高かったのです。私のは安物だったから、買い直してもいいかなと思いましたが、長年使っていると捨てたくもないのです。それで、直そうと思いました。
 先ず、できるだけ羽毛を真ん中に寄せるようにして(実際には仕切りがあってなかなか動かないのですが)、四辺に薄い部分を作って縫い詰めました。つまり、四辺は布だけの縁のようになったのです。次に真ん中の縦線のあたりを薄くしてつまんで一直線に縫い縮めました。次に、横の線、二本ほど縫い縮めると、面積が小さくなった分、羽毛がふっくらとしっかりとして来ました。これで十分です。カバーをすれば、後何十年か保つでしょう。
 この後、夫の羽毛布団も同じような処理をしまいした。夫のはちょっと形式が違いましたので、横の線は一本にして、他に上下のどちらかを余分に縫い縮めました。ともに、破れるまで使えるはずです。

2016年4月14日木曜日


ムヒカ大統領

 遠いウルグアイから奥さんとともに、今、日本に来ています。八十歳だそうです。地球の反対側からですよ。お元気です。
 池上彰氏の特番を見たんですが、二十代までゲリラ活動をしていたんだそうです。十三年の獄中生活の後、四十歳で釈放され、やっと普通に政治活動を始めたらしい。それもこれも貧しさを無くするために。
 顔も体型もそうですが、柔らかい人かと思っていたら、とんでもありません。お話には一本筋が通っていますし、決して宗教には逃げ込まないようでした。現実世界で、幸せを求める方法を教えてくれているのです。足るを知ると言う事だけではなく。
 別の局でしたが、心に残ったエピソードは、いつも、友人がくれたという青い車に乗っているそうです。それをアラブの大富豪の息子が欲しいと言い、父親が巨額のお金を提示したというのですが、売らなかったと言っていました。『売ってしまったら、車をくれた友人の心を傷つけてしまう』からだという事でした。いつも辛口のコメンテーターが、『僕なら売って、そのお金を寄付する』と言っていました。はじめは私もその方が合理的かなと思いましたが、大統領の話を聞くたびに、考えが変わって行きました。この友情の持つ幸せはお金には換えられないのです。この幸せの感情の塊が総てなのです。いくら多額でも傷ついた友情は一瞬のお金では買い戻せないのです。
 私が今までに感じた事は、私がこの年齢になっていたから感じられた事なのかも知れないとも思います。
 別な番組でしたが、永平寺で沢庵を切るボランティアをしている同年代の女性が話していました。この沢庵は種を蒔き大根を育ててくれた人がいて、干してつけてくれた人がいて、ここまで持って来てくれた人がいて、多くの人が関わって来てくれて、初めて自分がここで切らせていただいている。そう思うとありがたくって涙が出ると言っていました。人は人がいなくっては生きて行けないのです。
 爆弾を作るよりも、もっと貧しい人々のためになる事はあるのではないでしょうか。世界の情勢を見ていてもわかるように戦争が貧しい人々を作り出しているという事もあるんですよね。
 そんな大それた事はできないですけれども、私は一人でも二人でも幸せになってもらえるように、できるだけニコニコと挨拶し、できるだけ文句を言わずに家族の役に立つようにしています。それもこれも、愚かな私は若い頃には気づかなくって、大それた事などできないとわかったこの歳になって理解できたのです。
 ムヒカ大統領が言うように、金持ちが豊かとは限らないのです。見渡せば家族や友人に囲まれている私は豊かなのです。

2016年4月8日金曜日


今、ある大きな大学病院で起こっている事

 後期高齢者になった夫は普通に生活をおくっていますが、普通の人に比べたら病人です。
 いわゆる成人病(糖尿、高血圧、カリウム障害など)で内科、脳梗塞で脳外科、それと精神科。ある国立の医療センターに通っていたのですが、そこの脳外科と精神科が経営難で閉鎖になって、その大きな大学病院に紹介されて、やって来ました。
 医療センターに通っていた頃は私も若くて忙しく、『自分の病院くらい自分で行ってよ、だって食べて飲んでしまうんだからどうしようもない』という感じで、協力的でなかったので、医療センターの内科の先生にも諦められ加減で、一緒に移動したのです。
 そこに通い始めてすぐ、十月でしたから、もう八年前になりますか、夫67歳、私59歳のとき、二度目の脳梗塞の発作が起こったのです。通い始めた大学病院の救急センターに駆け込んで、即入院になりました。一ヶ月以上入院させていただいて、やっと退院、そうなると、いくら私でも、知らん顔はできずに、送り迎えしながら一緒に診察に付き合いました。
 そうして8年、脳外科の先生からは何度か、転院の打診はありました。でも、その度に、「何かの時に、同じ病院にかかっている方が安心だから」と、続けての診療をお願いして来たのです。実際、副鼻腔炎の手術をしていただいた時は、あちこちに連絡を取っていただいて、無事に手術する事ができました。
 いよいよダメかなと覚悟ができたのは内科の若い先生が、先鞭を切って、家の近くのクリニックに夫を紹介してくれてしまった時です。もちろん、知り合いのクリニックだったので夫は喜んでいましたし、それよりも若い先生とはあまりしっくりいっていなかったのです。
 でも、脳外科の先生とは八年間のお付き合いでしたし、精神科の先生とは七年間、新しく変わった先生もとてもいい方でした。だから、国立の大学病院の経営が赤字になったというニュースは知っていたのですが、「お薬だけ内科のクリニックで貰って、年に一度検査をしに大学病院に来たらどうですか」という脳外科の先生には続けて診療をお願いしたいと無理を言っていたのです。
 そのとき、です、三月になって突然に「転勤で、他の大学病院に行く事になった」と言われました。同じく、精神科の先生にも、「転勤で」、と言われました。どうしたんだろうと思っていましたら、四月に最初に会った精神科の若いお医者さんが、言いづらそうにそれでも半ば強圧的に「転院を考えてくれ」と言いました。『ああこういう事だったのか』と初めて理解しました。精神科の前の前のお医者さんは、いかにも精神科のお医者さんらしく、こちらが面倒になるくらいこまめに患者さんを診察する先生で、いつも大勢の患者さんを抱えていました。一年前の転勤とは、『患者さんに転院を勧められないで、自分が転勤して行ったのだなあ』と思いました。一年だけお世話になった先生も、やはり精神科の先生らしく患者さんの転院の話はいっさいしないで、自分が転勤して行った訳です。若い新しい先生はポストの変わりに、苦しい役回りを引き受けたのでしょう。
 新しい脳外科の先生にも同じ話をされ、前の先生の勧めてくれたお薬だけ内科のクリニックで貰って、年に一度検査をしに大学病院に来るということで合意しました。さて、精神科はどうしましょう、難問です。