2013年2月23日土曜日

読んでしまいました 

 最初はそれはそれは大変で、何度も諦めて、何日も放り投げておいたのです。でも、何とか最初の導入の部分、周りの紹介等の部分を通り過ぎると、その後には、いよいよ主人公一人一人の気持ちの部分が入って来て、読んでいる方も気持ちが入れやすくなってきました。それでも、主人公が若い時には若いなりに、考えも浅くって面白くないのです。作者は人の成長に合わせて、考えも成長させるのです。それが半ばを過ぎる頃にやっと判ってきました。
  それと、物語を展開させる手法です。先ず、思わせぶりな言葉やそぶりを描写するのです。読んでいる方は『何の事だろう』とあれやこれやと自分でも考えてしまいます。それが、なかなか当たらないのです、だから意外な成り行きに、『なあるほど』と思わせられてしまうのです。
  最後のクライマックスは大活劇になって、胸のすくような思いもします。そして、主人公の報復、全く想像もできませんでした。『さすがピューリッツア賞受賞作だ』と思わせられてしまいます。
  ここまで来て、『ああ、ハウランド家の人びとのことか』と判ったのではないでしょうか。まさに、作者のシャーリー・アン・グロウはこんな書き方をしているのです。
  主人公の祖父はいつも『自分が本当にやりたいと思う事をやればいいんだよ』と主人公に言います。私もそう思います。私はそれしか出来ませんから。でも、最後に、それしか出来ないでそうする事がどんなに人に影響を与えてしまうかが判るのです。それでも、人間はやっぱりそれ以外では生きられないのです。
  後は、翻訳の事です。今回、翻訳者は猿谷要さんという有名な歴史学者でした。専門はアメリカ南部史です。それで、この白人と黒人の複雑にからみ合う物語の翻訳に抜擢されたのです。実は私、この先生の授業を受けた事があるんです。『アメリカ南部史』なんて興味がありますよね。でも、今では全く何を聞いたのか覚えていません。つまり、先生は学者さんだったのです。いろんな知識があって、この部分にはこれも付け加えなければならない、これも話しておかなければならないと思う事が多かったんだと思います。決して一つのストーリイとしての南部史にはならなかったような気がします。だから、私のような単純な頭には残らなかったのだと思います。
  その先生の真面目な学者らしさが、この小説の翻訳の最初の部分を見ると判ります。言葉一つ一つを正確に訳そうとしているのです。それがイメージとしてまとまらないのです。だから読み進むのにあんなに苦労したんじゃないかなと思いました。それが、最後の頃は大分いい加減に崩れて来て、『この言葉はどう繋がっているのよ』と思うような表現がありますが、それでも主人公の様子が見えるのです。
  私如きがこんな事を言うのはおこがましいのですが、私も時々訳をやってみて、『これだけ辞書通りにやっているのに日本語で通じないというのはどういう事よ』と腹を立てている、まさにそれと同じ事だと思ったのです。翻訳は、きっと、自分でイメージして、そのイメージを表現する日本語を使わなければいけないのでしょうね。まさにシェルダンの超訳です。
  そういうわけで、『読んでしまった』ので、これもちょっとだけ値下げしておきました。