2015年6月18日木曜日


英国ミステリー噂話、本当のウィッチャー警部は

 「ウィッチャーの事件簿」のあの暗い画面は何なんだろうと思ってしまいますよね。でも、産業革命時代のあの頃、夜の明かりはあのくらいだったのかもしれません。それに洗濯も大変だから、特に市井の人は白っぽい服なんて着なかったでしょう。意外と時代考証がしっかりされているのかもしれません。
 物語ではウィッチャー警部は職を解かれたあと、私立探偵として活躍するのですが、本当にそんな事だったのでしょうか。と興味を持って調べてみました。
 ジョナサン(ジャック)・ウィッチャー、1814年10月1日から1881年6月20日というと、亡くなったのは67歳ですね。まさにビクトリア朝(1839年から1901年)のど真ん中で働いたという事でしょうか。
 1842年に創設されたスコットランドヤードの刑事部門の8人のうちの一人だったようです。1860年にコンスタンス・ケントの殺人事件(ドラマではロードヒルハウス殺人事件)を担当し、それが、ケイト・サマースケールの2008年の本、『ミスター・ウィッチーの疑惑』とその映画のモデルになったようです。
 しかし、それだけではなく、チャールズ・ディッケンズの「バケット警部」、コリン・デクスターの「モース警部」や、コリンズの「刑事コフ」、R・D・ウイングフィールドの「フロスト警部」などの多くの刑事達を書く上に示唆を与えたようです。
 両親はレベッカとリチャードという庭師だったようです。労働者として働いたあと、彼は身体的、書類的考査を経て、1837年、巡査として都市警察に雇われます。彼は5フィート8インチ、茶色の髪、白い肌、青い目だったそうです。エリザベス・ハーディングと結婚し、1838年には息子ジョナサンが生まれますが、早く亡くなります。
 その後、1941年まで、警察の寮に住んでいたと書いてありますが、やはり、ドラマにあったように奥さんも亡くなっていたのでしょうか。その後、1942年にいわゆる8人の刑事の一人に選ばれる訳です。
 どういう人物かというと、同僚は「刑事の中のプリンス」と呼び、実際に彼に会ったディッケンズは「彼の同僚より、背が小さく、体格がいい、天然痘と思われる傷があり、まるで計算をしているような打ち解けない、思索をしてるような雰囲気をたたえていた」と言い、1850年に仕事をしている彼を見た事のある、ディッケンズの副編集者のウイリアム・ヘンリー・ウイルズは「神秘的な男」と表現した。
 その後、数々の事件を解決し、1856年、警部に出世します。その後、国際的な事件も扱ったようです。1860年その全盛期に有名な「ロードヒルハウス殺人事件」を担当させられます。これはドラマに出てくるので省きます。
 後年という記述では、1866年というと52歳頃でしょうか、、最初の妻の死のあと、シャーロット・パイパアー(1812から1883)という、二歳年上の女性と再婚したとあります。(ドラマ「ウィッチャーの事件簿」では私立探偵となった三作目以降に出て来る大家さんです。)
 1871年(57歳頃)の国勢調査では、副警視総監としてロンドン在住で載っているようです。1881年の国勢調査ではロンドンのワンズワース在住で退職警察官として載っているようです。この歳亡くなっているのですよね、67歳で。
 彼の遺言として、1,569 2s 6dが残されたそうですが、ちょっとどのくらいかわかりません。多分、五十代で再婚し、子供もいなかっただろう夫人が寄付したのでしょう。遺言執行人には警視総監のアドルファス・ウイリアムソンの名前もあったそうです。
 という事で、伝説の刑事には相違ありませんが、現実には組織の中で苦労しなからも位人臣を極めた人と言えるようです。