2017年11月3日金曜日

古すぎる毛糸

 こんな衣類の出し入れの季節は特にですが、私は材料を見つけるとすぐにリフォームをしています。衣類はほとんど買いませんので、もう趣味を通り越して生活の一部になっています。だから、ミシンはいつでも始動できる状態になっています。
 以前、フローリングのカーペットを木製床材に張り替えた話はしましたっけ。最初の三か所は夫と二人でして、あとの二か所は一人でしました。コツを覚えると一人でもできるのです。
 そんな私が二の足を踏むのが毛糸です。市販のニット製品はミシンでも直せるものがあるのですが、問題は、母が手編みで編んでくれたセーターやカーディガンの数々。
 手編みって難しいのです。最初に直したものは袖が長すぎたので、短くしたんですが、短くなりすぎました。そこはリフォーム屋の私のいい加減な性格がしっかりと現れてしまいますが、さすがにもう一度直す気にはなれずに短いまま着ています。及ばざるは過ぎたるより勝れりと言いますよね。。
 母は新しい毛糸をたくさん残して逝ってしまいました。手編みをしている上の娘がもらう予定ですが、なかなか持っていきません。管理も大変です。かといって、私は新しい毛糸で何かを編もうとは思いません。昔、リフォームばかりする私を見て母が言いました。「古いのを直したって、新しくはみえないよ、オーつまらない」と。洋裁和裁、正式に両方習った母と違って、私はまっとうに習ったわけでもなく、出来上がりがいつも希望通りにならないことを身に染みて知っていますから、ある程度形になっているものを直すほうが気が楽なのです。お金もかからないし。
 そんな私が、ここ一週間、手編みをしています。半分だけできました。手編みは時間がかかるので、せっかちな私はそれもあってできないのです。
 その毛糸は昔々、二十年も前に、娘がアメリカで古着のセーターを買って、持ち帰ってきたものです。デザインも平編みだけで、いかにも止め方も知らない素人が編んだと思える編みっぱなしのようなもので、色も茶色、素朴といえば素朴、汚いといえば汚いセーターでした。さすがに娘は着なくなって、私に回ってきたのですが、私には袖が長すぎたのです。それで、いつか編むときもあるかと思ってほどいたのです。その過程で、黄色い藁の穂くずのようなものがたくさん出てきました。きっとアメリカの農家の人の作業着になっていたのかなと思いました。洗うと、茶色が落ちて、ベージュになりました。泥染めか、汚れか。でも、この毛糸は縮まないのです。
 あれから十年、タンスの奥で眠っていたのです。で、いよいよ身の回りの整理を少しずつしていかなければならなくなって、引っ張り出してきて編み始めたのです。
 編み始めると、その毛糸にはごみがたくさん絡んでいることがわかりました。黒くなった穂くずのようなもの、黒い太い毛、白い太い毛、それらをみんな取ると、糸が細くなってしまいます。で、また想像しました。きっと、ネパールのような寒いところで、編み方もろくに知らない女性が、家族に着せるために必死で糸を縒って編んだんだろうと。毛糸も羊ではないかもしれない。犬の毛でセーターを編む人の話を聞いたことがあったので、犬かもしれない、まっすぐな太い毛が混じっているので、ヤギか他の動物もしれない。それを羊の毛と縒り合わせたのかもしれないと。そう考えると、ごみを拾いながらも編まないわけにはいかなくなったのです。私が上に着ればいいだけですから。
 下手な私が編んでいくと、いろいろな間違いをしでかします。目数が多すぎて広くなりすぎて、ほどいて編みなおしたり、途中で、目数が足りないと気付いて、一目増やしたら、下のほうで、一目つながるところのないループが浮いていて、慌てて、毛糸を少し切って縛ったり、元のような平編みではなく、縄のような模様を入れたら、厚手になりすぎたり、ごみを取りすぎて毛糸が細くなったり、その都度、解決策を考えたり、なんとか折り合いをつけて、想像したような形に向かって進んでいく、まさに人生のようなものですね。これが新しい毛糸だったら、間違った落ち込み方も激しくって、完成した時の喜びは半減されるのではないでしょうか。つまり、こんな古いひどい毛糸を、なんとか着られるものに作り上げたという達成の喜びのほうが大きいと思うのです。