小さな世界
90歳を越えた姑が、ある日ぽつんと言ったことがありました。「長生きするのもいいけれど、お友達がみんな亡くなってしまってね」と。
彼女はわりかた社交的な方で、何かのお集りとか、同好会、法事でさえよく出席していたので、その連絡が来ないだけでも淋しかったのかもしれません。そうして、晩年はかえって人を避けて趣味の絵を描くことに没頭していました。絵を描くことが人を避ける言い訳のようになっていた感がありました。
この歳になるとわかる気もするのです。一人前に思われていろいろ期待されても辛いのです。かといって生きている以上、一人前に扱われないことはもっと辛い。
そしたら、自分だけの世界をもって、領界線を引いて、入って来るなと言い、自分は時々出ていけたら大満足ではないですか。これを世間では『わがまま』というのでしょう。ばあやに育てられたというお嬢様だった姑はわがままな人でした。
私も、この歳になると、一人前にあてにされて、歯車の中で動くことを期待されるのはだんだん辛くなってきます。かといって、誰からも連絡がないと淋しくなって、連絡を取って安否だけでも聞きたくなります。用もないのに、何かを期待していると思われても相手に迷惑だろうし、と、ここ一年ほど、旧知の人に連絡を取ることはしないようにしています。
これでいいのかもしれません。お互いに知らないうちに亡くなっていたなんてことになるのでしょう。
歳をとるとみんな小さな世界に生きるようになってくるのでしょう。
このところ、半村良さんの『うわさ帖』という随筆集を読んでいますが、まだ40代頃の作品のようで、お酒を飲んで交友を広めて仕事にもつなげている様子が生き生きと描かれています。これを見ると、私には若いころでもこういうことはできないだろうなと思います。はじめから小さな世界に生きていたような気がします。つまり、わがままが通る世界に。できる限り外の世界に出ようとはしなかった気がします。
今、このわがままが世間的にも許される年代になって、何かほっとする思いがあります。『私の世界で生きていていいんだ。いよいよ自分の世界に没頭できる』『何かをしたい、絵が描きたい』ということもありませんが、何かストレスもなく、楽に息ができるような気がするのです。
私には元々引きこもりとかオタクっぽい気質があったのでしょう。好きなことをして好きなことを見て、時々、言いたいことを日記風に書いて、「これが、自学と自己実現だ」と叫んでいる。
本当に幸せです。これで使い切れないお金があったら、もっと幸せかというとそんなことはないと思います。きっと、自分だけ恵まれていることに罪悪感を感じて、大きな世界に出て行かなければと思うでしょう。『王様と乞食』に例えれば、私には王様は務まりません。年金生活者でミニマリストの乞食の気楽さが一番のような気がします。