2016年8月23日火曜日


前向きに考える事

 お盆のせいで、考えた訳ではありませんが、昔、「人生意義なし」と叫んで華厳の滝に飛び込んだ東大生がいたそうです。確か中学生のとき、歴史の先生だったと思いますが、話してくれました。話してくれたという事は、先生自身もある程度のショックを受けてよく覚えていたのでしょうね。
 あれ以来、何か失敗をしたり、落ち込んだ時等によく思い出しました。何せ、対人恐怖症なのですから。私の思い込みかも知れませんが、対人恐怖症の恐怖とは、人と話をした直後から起こるのです。自分の言った言葉、相手の言った言葉が気になって頭から離れないのです。
 例えば、先日瓜をたくさん頂いたのですが、瓜は早くに弱ります。で、いつも野菜を頂くお隣に声をかけました。お隣はキュウリを作っているのでいらないと言いました。ちょうど、そこにいた道一つ向こうの家のご主人にも声をかけました。「今から仕事に行くんだよ」といわれました。
私は「ごめん」と言って、網戸を閉めました。その後からずっと気になったのです。あとで持って行くべきか、いや、野菜を作っているからあるのかもしれない。少しばかり持って行っても迷惑かもしれない。結局、持って行きませんでした。持って行かなかった事が、何か口先ばかりだったようで、更に頭に残りました。
 こんな気の小さな人間が社会で生きて行く事は、かなり難しいのです。会社に勤めていた時も、ああ思われているんじゃないか、こう思われているんじゃないか、と、いつも疑心暗鬼になっていて、そのくせ、できない人を軽蔑するのは人並みにやっていたのです。馬鹿みたいです。そんな風だから、仕事は長続きしません。同じ職場でしたが、辞めたり、また勤めたりと、何度か往復しました。
 それを考えると、収入は少なくっても今のネットショップは私に向いているかも知れません。内弁慶で家にいられるし、あまりリピーターのお客様がいないので、月に二、三度、一度きり後悔の無いように心を込めて応対すればそれで終わりです。
 人間ってこうして自分の居場所を見つけて行くのかも知れません。
 だから、人生に意義はないかも知れませんが、少しずつ,自分を知り、人を知り、人の役に立ち、自分の居場所を見つけ、平和な世界で、内面的に進んで行く事は、死にたいと思うほど不愉快な事ではありません。そういう世界をみんなが見つけられるようにできると、世の中が幸せに包まれるのかも知れません。つたない私見ですが。