歩く人
お盆は終わりました。あまり宗教心のない私は、お盆もお祭りも見ないふりして暮らしています。もちろん、人とも関係なくて心安らかに過ごせます。
それでも、こんなことを考えてしまうのは、お盆という季節のせいなのでしょうか。
あの人を見ているのは、私だけではないと思うのです。その人は、この時期なのに、コートを着て歩いています。いくつかのビニール袋とバッグを持って、帽子もかぶって、マスクもして、少し長めのスカートをはいて。
最初に見たのは街の中だったのですが、その後、冬の時期に、街から少し離れた住宅街のほうから、朝早い時間に歩いてくるところを見て、『寒いのに、どうして歩いているのだろう、家にいられないのかな』と思ったことを覚えています。身ぎれいにしているから、ホームレスだとは思わなかったのです。
その時は冬だったので違和感はなかったのですが、今の時期になるとその恰好は目立ちます。どうも、朝、住宅街のほうから来て、街の中で、日中を過ごし、夕方、また住宅街のほうに帰って行くみたいです。何度か考えました。市役所に言ってみようか、とか、警察に相談してみようかとか。でも、同じ道を通っているのだから、認知症ではないみたいです。意思をもって歩いているように見えました。もしホームレスになってしまっていたら、私なら声をかけて欲しくないのではないかと思ったりしました。
二、三日前に帰って行くところを見かけました。ずっと歩いているとすると、一日、10キロ位歩いているのでしょうか。夕方と言ってもまだ暑さも残る中、帰って行く姿はさすがに疲れているようで、立ち止まり、そして、誰かを待っているように振り向いていました。
車でなかったら、誰かを載せていなかったら、さすがの私も、声をかけていたかもしれません。
『行き倒れ』という言葉が浮かびました。昔、近所で行き倒れの人がいたみたいで、見に行った子供たちが、「俺にかまうな」と叫んでいたと言っていました。もう一つは、水上勉氏の『離れごぜおりん』の映画の最後、だれにも頼ることのできなくなっためくらのおりんが海辺の高台の松林で亡くなったことが暗に示される場面です。『赤い腰巻が木に引っかかっていた』という。私も、誰にも知られることなく死んでしまうのが理想ですが、人は構わずにはおれないんですよね。
今、この辺りはお祭りで、にぎやかです。見かけているのが、私だけでなかったとしたら、お巡りさんもいるし、声をかけてくれたかもしれません。
私も、今度見かけたら、時間を見つけて、車を止めて、声をかけてみようと思います。『何か、私にできることはありますか』、そんな言葉が適当でしょうか。『ない』と言われたら、それでいいのですが、日本は福祉の国で、セイフティネットはあるはずです。みんなそのために税金を払っているのですから。
でも、やっぱり、私だったら、行き倒れになるまで、してほしくないおせっかいかもしれませんが、その時の状況によってはしてほしいかもしれません。