2019年11月21日木曜日

山の中

 以前、昔から当然あるものと思っていた実家の上の家が取り壊される話をしましたが、時々実家に帰ると、思わぬ話を聞きます。
 昔から親しんできた人たちが亡くなった話や、ボケ加減になってしまった話。同級生が不倫の末に離婚して亡くなって、残された両親の面倒を見に、妹夫婦が帰ってきたといったニュース。弟の同級生が大動脈剥離になって、一命は取り留めたものの、反応が無くなってしまった話。
 昔の村は狭い世界なだけに、生々しくわかってしまうのでしょう。
 そんな中で、思い出す人たちがいます。実際にはその人達の顔もろくろく知らないし、話をしたこともないのです。名前は覚えていない、記憶の闇の中です。
 〇〇さんというその人を見たのは私が子供の頃です。その人は田植えの手伝いの人たちに混じっていたのだと思います。あるいは茶摘みだったかもしれません。とにかく今思うと、わずかなお礼で働いていたのだと思います。だから、「〇〇さんが入院した」と民生委員をしていた義妹が言った時、思い出したのはひっつめに髪の毛をまとめた化粧気もない細面の、若くも老いてもいないその頃の顔でした。
 その人は山の奥に住んでいるんだと聞かされていましたが、どこだかは知りませんでした。のちに、老いた両親の運転手をして、あちこち周っていた時、新しい道路が山の方にできたから行ってみようと、山の端を登って行った時、さらに奥に入っていく細い道を見つけて、母が「この道は内〇〇さんの家に行く道だ」と言ったのです。本当に、山を登りきったところからさらに奥に登っていく道でした。
 『なんでそんな所に』と誰でも思うようなそれこそ誰も行かない山の中の一軒家のようでした。
 昔、祖母が、「あの人たちは馴れ合いだから」と言っていたのを思い出しました。馴れ合いという言葉の意味がわからなくて、やがて、駆け落ちものという意味だとわかったのはだいぶ後になってからのような気がします。そういう目で見ると、時々、リュックを背負って、山の方に歩いていくもう一人の〇〇さんと呼ばれた男の人を思い出すと、奥さんには似つかわしくないようなイケメンだと子供心にも思ったような気がします。 
 二人がどこから落ちてきて、どうしてそんな山奥に住み着いたのか、電気もない山の中で子供もなく、たった二人だけで、どんな会話をして息をしていたのか、噂にもならなかったところを見ると、誰も知らなかったのでしょう。時代を考えてみると、戦後の入植者だったのかもしれません。
 やがて、旦那さんも亡くなり、後に残された奥さんが一人で住んでいたようですが、入院してその後、施設に収容されたようです。
 そして、二人のいた山奥は自然に帰っていくのでしょう。そこに二人が寄り添ってつましく、誰にも邪魔されずに生きていたなんて、やがて、誰にもわからなくなってしまうでしょう。これも物語になりそうな本当の話です。