心の拠り所
私が『宗教は詐欺だ』と思っている話は何度も書きました。
でも、心配事はいつもついて回っています。そんな時、私は、『あの人はどうやってこれを乗り切っているんだろう』と思います。
私の場合は、亡くなった人に話しかけます。父だったり母だったり、気の合わなかった姑だったり、近頃は夫だったり。生きているときは心配を移し替えてしまうようで言えませんでしたが、今は想像の中なので、遠慮なく言えます。もちろん答えは返ってきませんが、それで、自分もそれなりの覚悟はできるような気がします。つまり、『なるようにしかならない、後は野となれ山となれ』という事ですが。
私のアメリカの友人は、とてもしっかりした頭のいい女性ですが、彼女もそんなに宗教にこだわっているようには見えません。
最近、『ウクライナの人たちが心配ですね』とメールを交換し合った時に、『私も窓にろうそくを灯している』と返事がありました。そう言えばと思いました。何か心配事があると彼女は窓にろうそくを灯していました。「これは昔、開拓者たちの家族が、暗くなってしまってもまだ帰って来ない夫や父を心配し、『我が家はここよ』と知らせるために窓に灯したのよ」と教えてもらったことがありました。そう言えば、『大草原の小さな家』でも雪の中を帰ってくるお父さんを待ちながら、窓にランプを灯していたことを思い出しました。
人や宗教に頼っても仕方がないことでも、人は心の不安を何かに移し替えたいのですね。でないと精神的に参ってしまうから。なんでもいいのです。お化けでも、ろうそくの火でも。でも他人はダメです。不安を増幅したり、他人を押しつぶしたり、宗教家でもお医者さんでも親身にとらえて同調する人だったら、長くやってはいけないでしょう。
お医者さんは科学的にとらえるしかないのです。そして宗教家は移し替える場所として神様仏様を持ち出すのでしょう。
人と同じではなくてもいいから、自分の心の移し場所を持っていることは強みのような気がします。