いいがかり
ここひと月ほど、歯医者さんに通っています。折れてしまった被せた歯をもう一度再生してもらうためです。『もういいか』とも思ったのですが、ないと不自然で、落ち着きません。
後二回で終るという先日、痛い思いをして診察室を出てきた私に、待合室の男性が一生懸命声をかけていました。でもこちらは、マスクをどこにしまったか探しまくっていて、上の空でした。上の空でも声は聞こえます。どうも「奥さん、太いね。相撲取りみたいだよ」とかなんとか言っているようでした。上の空が幸いして、返した言葉も適当なもので、「マスクどこへやったっけ。そうですね。それが私も悩みなんですよ」とかなんとか。
やがてマスクも見つかって、受付での支払いを待っているときも、性懲りもせずに話しかけてきます。「どうやったらそんなに太くなれるの」。その男性を見ると、確かに痩せていました。「20年も外国にいると、みんな珍しい」とかなんとか言っていました。
「どちらに行っていたんですか」と私も反射的に聞きました。「アメリカ」。
やがてその男性は診察室に入っていきました。足元は老人らしくふらついているようでした。それを見て、少し、見ず知らずなのに『失礼な』と思う気持ちがわきました。そばに奥さんらしい人が待っているようで、「本当にハラハラしてしまう」と言っていました。
「アメリカだったら平気かもしれないけど、日本だとケンカになっちゃいそうですね」と、別に腹立ち紛れでもなく言ってしまいました。歳を聞くと、79歳だと言っていました。「私と大してかわらないんですね」と奥さんに同情しながら言いました。
それから、運動談議になり、季節談議になり、私は種を蒔いていることを話しました。「弟が植物が成長するのを見ることは精神的にいいと言っていました」と言うと、奥さんは「花が咲いたらキレイですしね」と言い、私は「食べられるものだけです」と言って笑いました。
男性は診察を終えるとすぐに出て行ってしまいました。「行かないんですか」と奥さんに聞くと、お金を払ってからとジェスチャーで示しました。
あとで考えてみると、私もあんなだったなと思いました。男性は少し認知症気味だったのでしょう。そういう人は相手にされない分、人恋しいのです。ちょっかい出しても話をしたいのです。亡夫も人恋しい性格で、友人に会いたがり、私はいつも申し訳ない思いをしていました。病気になるまで、お酒も飲みましたから、私もいつもハラハラしていました。
そうそう、この頃、近所の家の車が、夜になると必ず駐車場に帰ってきているのを見て悲しくなりました。我が家では夜になってもなかなか帰ってこず、駐車場がいつも空いていたことを思い出したのです。これが亡夫と私の覇権争いの人生だったと認識させられました。