神社の存在意義
いつも宗教は詐欺だと言っている私ですが、ある日、大きな鹿島神宮の森に行ったときに突然ひらめいたのです。この大きな自然が守られているのは、この神宮のあるおかげだと。 日本の神道は、他の宗教とは違うという意見を聞いたことはありましたが、この神宮も権力者の政治的影響力に使われたことに変わりはありません。私は一度ここで嫌な体験をしたことがありまして、中にある建物の裏手に回る木戸が開いていたことがあって、当然入ってもいいものと思って、お客さんを伴って入っていきましたら、叱責されて追い返されました。お客さんの手前、面目丸つぶれで、恥ずかしいやら、みんなのものと親しみをもっていた神社が私たちのものではなかったと思う失望感で、それ以来、宗教は権威主義的で排他的なものという感覚がこびりつきました。
人は、私を非常識と思うかもしれませんが、私の田舎の村の鎮守の雷電様は子供の遊び場で、後ろに回ろうが下にもぐろうが、特別危険がある場合以外は誰も何も言いません。
そう考えたとき、神社には、自然発生的なものと、権力者が作ったものと二通りあるような気がしてきました。前者には、水守、山守、鎮守などがあり、なるべくそのままで、何事もなくいてほしいという願いのこもったもの、後者は政治的に人心掌握のために権力者が援助をして作らせたもの。当然後者は大きく、見張りのための神官が威儀を正してお祀りをしています。前者は無住です。それでも、そのあたりの自然を守っていることには変わりありません。
そんな村の鎮守もお祭りの時は違った顔を見せます。みんなが神様のために力を集め、神様の代理人のようになって、善男善女の心を一つにしようとします。だから、同じ心境になれない人たちは、例えば、私のように参加できない人、同調できない人は悲しい目をして、神様の権力を持った人たちを横目に見ているしかありません。これは、私だけではありません。満州で生まれ、戦後引揚者で、各地を転々としたという、なかにし礼さんが「お祭りは嫌いだ」と言っていたのを聞いたことがあります。確か、「お祭りは、そこに住む人たちだけのものだ」と言っていたような気がします。
確かに、自然の大きな力や外部勢力と対抗するためには結束が大事で、そのための権威が必要だったのかもしれません。野放図な怠け者の自由人は参加できないのです。そして、私は集落が結束して生きていた古代社会では生きていけなかっただろうと思います。
こんなこと、それなりの専門書を読めば書いてあることなのでしょうが、今、私がわかったということが大事なのです。そういうわけで、私は宗教は方便だという考えに固執しています。