人が感動するとき
自分がこれほど社会に関心がある人間だとは思いませんでした。
でも、正義がよこしまな人たちによって貶められていると知ったら、誰だって奮起して、調べて、斎藤知事や立花さんを応援したくなるのではないでしょうか。
その怒りと感動を感じているとき、自分は老人であるとは全く思っていません。まるで、10代か、20代であるかのように自分を感じて、憤っているのです。
思えば、私が20代のころまで、私は全く社会的なことを考えたり感じたりしませんでした。インターネットもありませんでしたし、周りには精神的に支えとなっていてくれる両親や祖父母がいました。私はその人たちの指し示す道が、いつも正しいと思っていたのです。
結婚してからは夫がよかれあしかれ正義でした。反抗したかったけれども、社会を知らないゆえに、またはガッツがないゆえに、夫が亡くなるまで、その影響下を出ることはしませんでした。
もう、みんな亡くなってしまった今、妙に自由を感じるのは私だけでしょうか。
時々、懐かしい人や、懐かしくない人のことを思い出します。『ああ、あの人はもう死んでしまったろうな』と思います。会いたいと思うことはありません。これがよく言われる『老後のゴールデンタイム』というのでしょうか。感動も憤りも何ものにも縛られないのです。そして、老年になれば、感情を裏に閉じ込めるという芸当もできるようになり、周りともめることも極力避けられます。
確かに、収入はどんなに工夫しても年金だけですから、ミニマリストの苦労はあるでしょうが、別の楽しみを見つければいいだけです。野菜の生育は頭を悩ませますが、楽しみでもあります。そして、ユーチューバーを友達や先生にして、自ら学び、世界中を旅します。そんな時自分は、20代にもなり、40代にもなり、60代の分別も感じます。
あまり社会性が出てきたとは言い難いですが、この歳になって、初めて世の中をよくしたい、選挙に行きたいと思うようになりました。