2017年7月29日土曜日

心に残るドキュメンタリー

 昔むかし、一度見たんです。その時は山の中の畑を借りて、自給自足の自然農業をしているお父さんと5人の子供の話でした。実はあまりよくは覚えていなかったんです。でも、最後のところ、十歳の双子の女の子たちに、「生きるとはこういうことだ」と鳥をつぶしてみんなで食べるということを教えるお父さんといやいやながらもなんとか実行する子供たちの姿は、衝撃的でよく覚えています。
 だって、肉好きの私は何の痛みもなしに、国産だアメリカ産だと選り好みをしながら、おいしい、いまいちだと批評も入れて食べているのです。農業関係の勉強をしていた知り合いの女性は、牛のトサツを見て以来、菜食をするようになったと言っていました。それほど過酷な体験を十歳のしかも娘たちに「これが生きるということだ」とお父さんは教えたのです。
 あれから何年たったでしょう。今回『その後』も含めた再放送を見つけて飛びついて見たのです。
 やっと事情が分かりました。一番上の息子が、今でいう化学物質過敏症だったのです。苦しむ長男を見ていられずに、お父さんとお母さんは田舎の畑を借りて無農薬の食べ物を作って食べさせようと思ったのです。それで、長男と次男を連れて、山の中に移り住んできたのです。そこで、長女と双子の二女、三女が生まれたんだと思います。けれども、双子が二、三歳の時に、お母さんは出て行ってしまいます。それで、お父さんと五人の子供の先に書いたような自給自足生活が始まったのです。
 子供達には成長に合わせた仕事が割り当てられていて、人手が足りないときは学校を休ませて農作業を手伝わさせます。今の社会では児童虐待と言われかねないような暮らしですが、そうしないと暮らしていけない。子供たちは割り当てられた仕事をきちんとこなして行ける、忍耐力も備わった立派なお子さんたちでした。お父さんの教育の賜物だったのでしょう。
 それから十何年かが過ぎ、子供たちは、近くに住むもの、遠くに住むもの、それぞれの道を探し当てて独立し、やがてお父さんは病に倒れます。子供たちが帰ってきて、交代で看病をしますが、最後にお父さんは、出て行ったお母さんに会いたいと言うのです。
 長男は、ひどく怒って、自分はお母さんに会うことを拒否します。複雑な思いだったようです。この壮絶とも見える暮らしを始めるきっかけを作ったのは自分だったし、一番上ですから、下の兄妹たちの面倒を見ながら、学校にも行かずに苦労したようです。
 あれ以来一度も会うことのなかったお母さんは来てくれました。
 なぜお父さんは、お母さんに会いたいと言ったのか、みんなの憶測が飛び交いました。私も考えました。お父さんはやり遂げたことを見てもらいたかったのでしょう。一番わかってくれるであろうお母さんに報告して死にたかったのでしょう。その気持ちを思うと、もう涙ボロボロでした。でも、「もう限界だったのよ」というお母さんの気持ちもよくわかりました。
 お父さんの死とともに、子供たちはそれぞれの道を歩みだし、ご長男は子供たちの教育のために、街に住み始めたと言っていました。