2018年6月27日水曜日

空即是色

 『人生意義なし』と言って華厳の滝に飛び込んだ東大生の話、前にも書いたような気がしますが、この歳になると、時々頭に浮かびます。
 これを教えてくれたのは中学校の歴史の先生だったような気がします。先生はもちろん、子供たちに、バカな話として教えたのだと思います。肯定的に教えるはずはないですよね。
 でも、ここまで生きてくると、確かにそうかもしれないと思えてくるのです。そんなに大それた意義なんてないんだなと。まさに『色即是空』です。
 子供のころは、あれになりたい、あれもいい、こんなことをしたい、あそこにも行きたいと、夢ばかり見ていて、楽しく過ごしていたような気がします。だからこの『人生意義なし』も、確かに雲のかなたの宇宙のことを考えれば、そうかもしれないとは思いましたが、自分とは無関係のように思っていました。
 でも、歳を経るにしたがって、どの夢にも到達していない自分を振り返ると、真実かもしれないと思うことしばしばです。
 かといって、今更死ななくても、自然に死はやってくるのですから、その時までどうやって生きようかということですよね。
 で、いい人になって、余計なことは言わずに、自分も人も楽しく、できるだけ思いやり深く生きようと思ったのです。つまり、自分と自分の周りを心地よくして、この小宇宙の中に意義を見出したらどうだろうかと思ったのです。永瀬さんのように壮大ではなくっても、これも『空即是色』ということになるのではないだろうかと。
 先日、テレビで、アルゼンチンかどこかの街歩き番組を見て、こんな果ての国の川岸に、立派なタイルの道や護岸があるということに驚きました。誰かが、あるいは多くの市民がこの場所を愛し、みんなのために残した遺産です。 
 人は美しい自然にも感動しますが、人が作った街並みや建築に、より多くの感動を覚えるのではないでしょうか。それが強制的に作られた城やピラミッドより、敷石の道やレンガ造りや木造の庶民が一つ一つ積み上げて作った必需品のモノにこそ、感動します。
 これこそ、歴史というより、『空即是色』、人がそこに存在したということなのだろうと思います。私も頑張りましょう。