2021年2月23日火曜日

 気の迷い、気のせい

 私は自分では大変合理的な性格だと思っているのですが、時々霊的なものを信じてしまいます。それは決して宗教ではないと自分に言い聞かせているのですが、一種空想力のようなものです。考えてみれば、聖書だって、極楽浄土だって、人を幸せにするための大きな空想の世界ですよね。

 今回夫の死に際しては、年に一度くらい、自分で作った農作物を届けてくださる夫の友人が、亡くなったその日にウリを持って訪ねてきてくれ、死に顔を見てくれたことを奇跡のように感じましたし、死装束の法衣を着せてもらい、ご近所の方々にお別れをしてもらっているとき、遠くで雷が鳴っていたときも『お母さんが迎えに来たんだ』と即座に思いました。

 一番大きかったのは、夫の座右に、相田みつをの格言集がありまして、いつもは『かげぐちをいわれることを知りながら ほめられればすぐのぼせるわたし みつを』というのが飾ってあったのです。それが、病院から連れて帰って、ふと見たら、いつの間にか『アノネ がんばんなくてもいいからさ 具体的にうごくことだね みつを』というのに代っていました。これから、自分の思い通りの見送り方をしようとしている私への夫の言葉かけのようで、奮起しました。

 こういう経験は、前にもありました。夫の母が亡くなった時、家に帰って休んでいた私が、目覚めて時計を見ると止まっていました。さらにもう一つの時計も止まっていました。それから「亡くなった」と電話があったのですが、その時も「お姑さんがお別れに来たんだ」と思いました。

 自分の両親の時は、しっかり者の弟任せで、対人恐怖症気味の姉は、『お葬式っていやね』ということ以外何も感じませんでしたが、これは、もしかしたら、「スプーン曲げなんて簡単よ」と豪語していた姑の霊感なのかもしれません。

 これを『気の迷い』というのかしらと辞書で調べてみたのですが、『気の迷い』という言葉は見当たらず、『気のせい』というのがありました。娘に言われそうな言葉です。「気のせいよ」と。でも『気の迷い』でも『気のせい』でも、自分に都合の良い空想で、悪意も感じず、かえって勇気づけられる、いい感覚なのではないかと気に入っています。

 そういえば、あの「葬式はいらない」という本を発見した時も『これは』と思いました。