2021年11月18日木曜日

 ミニマリストとは

 ミニマリスト宣言をして、いわゆるつましい生活を心がけているのですが、『必要最小限で生活する』というミニマリストの定義の段階にはまだ至っていません。

 ものがたくさんありすぎるのです。と言っても、この頃、「何かお宝があれば買い取りますよ」と言って訪ねてくる人たちのターゲットになるようなものではありません。

 古着なんです。衣食住と言いますから、これ、無いと困るものです。もうだいぶ前に亡くなった姑は、私にこの『衣食住』を教えてくれた人ですが、「衣が一番大事」と言っていました。若い私は食いしん坊でしたから『食じゃないかしら』と心の中で反抗していたくらいでしたから、あまり衣類をそろえるということはなくって、食につられて太って行くので、必要に迫られて服を買うという感じでした。それでも物としてはどんどん増えていきました。ところが社交家の姑は食を削っても衣類を買うタイプで、これもどんどん増えて行って、時々、大きすぎると言って私の方にもおさがりが来ました。姑が亡くなった時、体形が合わないので、引き取り手の無い衣類を義兄が何回も車に積んで捨てに行きました。

 私の母も歳をとって、病院通いが始まると、出かけるたびに買っていて、弟が、「ボケたんじゃないか」と心配していましたが、その前にも、編み物教室に通っていて、自分のものだけでなく私や孫たちのものまでたくさん編んでくれました。その母が亡くなった時、弟は体形の同じ私に全部くれたのです。私の服は一挙に増えました。

 それに加えて、娘たちは買ってしまって気に入らない服を私のところに持ってきます。

 もともと衣類が多いほうではなかったので、私は喜んで貰いまして、私のところには大量の衣類が集まりました。

 洋服というものは、そのままではなかなか着れません。身体に合わせて直したり、時にはほどいて編みなおしたり、小さいものは二つを併せて一つにしたり、ある時は帽子を何個かつくりました。これは着道楽の姑がやっていたことです。

 そういうわけで、あれもこれもと直していくと、今や、私は服を買う必要が無くなりました。

 今、私が目いっぱい頭を使っていることは、亡くなった夫の背広です。体形が違うので、引き取り手がありません。弟は背広は全部捨てたと言っていました。あれほど体形に合わせて、詰め物もしてあってきっちり作ってあると、作り変えるのは至難のわざです。まあ、私にはこれから先、ひとりでつぶすべき時間がありますし、失敗しても誰にも迷惑はかかりません。

 工夫というものは楽しいものです。きっと他のミニマリストの方たちも、めいっぱい頭を使って工夫することが生きがいにもつながっているのだろうなと思います。