2024年7月30日火曜日

 ドラマの話、科捜研の女

 昔から、どこから撮っても美しい女優と言われた沢口靖子さんですが、相変わらず美しいです。この間、シーズン24の開始の前宣伝として、最初のころのシーズンが放送されていましたが、何が変わったのか、見えてしまいました。

 あの頃、沢口さんもお若くって、主人公まり子の人間関係や私生活や性格などが多く描かれていました。いかにも若い女性科学者の性格、生活でした。 

 それで24年目のシーズンを見てみると、科学とチームワークが前面に出てきて、沢口さん自身にも重厚さが出てきた感じがします。

 演技派とも見えない沢口さんが、どうしてこんなにあの『相棒』よりも長く続けていられるのかなと考えてしまいました。

 皆さんよくおっしゃいますが、真面目なんでしょうね。

 次から次へと、出てくる新しい変革を体当たりで受け止めているという感じでしょうか。

 普通の私たちの世界でも世の中はどんどん変わっていき、新しい知識や技術がどんどん出てきて、私たちは追いつくのにアップアップです。

 ましてや科学の世界は昨日の知識がもう役に立たなくなっている世界なのでしょうね。そう考えると、このドラマ自体も、常に新しい知識で変革されていきますから、決して時代遅れにならない、永遠に新しいのです。だから、人間社会がある限り、永遠に続けられるドラマなのでしょう。まさに科学の力なのです。

2024年7月26日金曜日

 骨密度 パート2

 一か月後、またメグミルクさんがトレーニング施設に来ていました。

 どうしようかな、買わないのに測ってもらってはわるいかな、でも、これだけのトレーニングの成果が見たいという欲求がありましたので、空いていたときに測ってもらってしまいました。

 前回Dだったこと、三か月頑張った、栄養に気を付けて二キロ太った、これは骨が増えたせいではないか。などと、自己弁護の与太ごとを言う私でしたが、結果は無情にも再度"D”。メグミルクさんは決心したように、「骨密度は一度減ってしまうと再生されないんです」と最後通告をするように言いました。「でもわが社のこの製品を配達で買って毎日飲むことによって、現在の骨密度が維持できるのです」。

 『ええ、本当』という感じでした。でも今回はその製品を飲まなくっても維持できたのだから、「あと一か月頑張ってみます」と言いました。

 そうしたらこの間、ユーチューブのひまわり健康チャンネルで『乳製品にはカルシウムを取り込む機能はない』『むしろその反対』という説明をしていました。化学的な細かいことは私には理解不能でしたが、『何故、特に日本では牛乳=カルシウムという都市伝説が一般的に信じられているのか』という説明にはうなずけるものがありました。

 それは戦後から始まったようです。そしてあの一世を風靡した『スポック博士の育児書』、わが家にもありました。ほとんど読んでいませんが、そこに書いてあったらしいのです。『牛乳=カルシウム』。それが戦後日本の食糧事情の悪いときに一斉に拡散したらしいのです。

 ところが、晩年スポック博士は病気になり、牛乳=カルシウムは正しくないと悟り、育児書を全面的に書き換えたようです。その書き換えたほうは日本では翻訳出版されなかったそうです。だから、いまだに日本人は『牛乳=カルシウム』だと信じているという内容でした。

 これ、思い当たる節がありました。一つはアメリカの友人、彼女の夫は太っていて糖尿病を患っていましたが、彼女は牛乳を買い置きしませんでしたし、アイスも食べませんでした。

 もう一つは私の体験。今年二月に吐いたりして、お腹の調子が悪く、一か月で3キロ以上痩せて、食生活を改善した時のことです。二月は食欲もなく容易に食事制限もできたので良かったのですが、三月、徐々に体調が回復してくると、食欲も出て、「さて、どうしようか」という段階に来た時に、『顔はしわだらけだし、工事もしなければならばならないし、とにかくタンパク質、カルシュウムを積極的に取ろう」ということで、ブラックで飲んでいたコーヒーに牛乳をたっぷり入れるようにしました。卵は毎日2,3個。などなど。

 それで、リバウンドしたのです。2キログラム。骨になっていたわけではなかったようです。

  さて、あと一か月、『グルテンフリー』と『乳製品の半減』、それに『筋トレとプールウオーキング』。さらに、夏野菜の水かけトレ、などなど、盛りだくさんで、一か月後の骨密度検査に向かいます。

2024年7月25日木曜日

 90歳の友人に学ぶこと

 彼女と出会ったのは、7、8年位前、とにかくコロナ前の、亡夫がまだプールに入れて、お互いの健康のために、週に何回か通っていたころだったと思います。

 思えばあのコロナ騒動で日常を壊され、体調不良になった人は多かったのではないでしょうか。あの時期を、ここに来れなくなった彼女はどうやって乗り切ったのでしょうか。

 とにかく、私がここでのトレーニングに参加した3か月前、彼女に再会したのです。ほっとしました。ほっとさせるような人なんです。

 何気ない調子で話をしてみましたが、彼女は私のことを覚えてはいませんでした。彼女は誰とでも気軽に話をする人でしたので、その人数も多く、当然と言えば当然だと思いましたが。

 彼女は毎日ここでプールに入り、お風呂に入り、お昼のお弁当を食べて、ヘルストロンにかかり、少し昼寝をして過ごすようでした。

 私は土日は休みましたが、彼女はここが開いている限りは休みなく来ているようです。

 ある日、彼女とおしゃべりする機会があった時、私は彼女に、私が彼女を覚えていたことを話しました。「夫を早くに亡くしたこと」「息子に先立たれたこと」「お嫁さんと女のお孫さんと3人で暮らしている」と言っていたこと、さらに、「朝と昼はキチンとたくさん食べるけれども夜ご飯は食べない」と言っていたことなどでした。

 「今でも夜ご飯は食べません」と、私の主張に同意するように言いました。

 昔一緒に来ていた夫が亡くなったことを話したりする中で、私は彼女の長寿の秘訣のようなものを感じ取ることができたような気がしました。お仲間の一人が「あの人のまねはできない」と言っていたのですが、そんな難しいことでもないような気がします。

1、まず人と摩擦を起こすようなことをしないことです。それでいて、だれとでも気軽に話をしています。

2、規則正しい生活を乱さないようにしているようです。朝は4時起き。30分の散歩と畑仕事。朝食。ここにきて、プールとお風呂、マッサージ。昼食、昼寝。夕方迎えに来てもらって、夕食は食べずに8時には就寝。

3、もともとスポーツウーマンで、バレーボールをしていたと言っていました。

4、お医者さんにはかかっているようで、血圧の薬は飲んでいると言っていました。指圧帯のようなものも使っていました。私と違って、お医者嫌いではないようです。

5、ボケの傾向は全く見られませんが、便秘はないと言っていました。

 今の私が見習えるのは規則正しい生活をするということのようですが、これとてもなかなか難しいです。少なくとも怠け心が起きたときは彼女のことを思い出して、心を奮い立たせています。

2024年7月19日金曜日

 初体験

 今になって初体験をすることになるとは思いませんでした。がしかし、体験してみないことにはまるっきりわからないのです。それは、気温37度。熱中症まがいになった話です。

 田舎のカヤ屋根で育った私は、熱い夏というのはせいぜい33度くらいまででした。それが暑い夏休みの思い出です。

 ところが、私の記憶ですが、昨年などは35度以上くらいまで行きましたよね。そして今年は七月にすぐに37度以上になりました。私の育ったところより、嫁に来たこの辺りは一度くらい高くなるのですが、それでも初体験です。

 市役所のスピーカー車が「涼しい屋内で」と声を張り上げアナウンスして回っていましたが、それでも、初体験だとどう対処していいかわからないです。しかもやらなければならないことは屋外にもあるのです。

 私はトレーニングに一日二時間通っていて、結構暑いし、汗びっしょりになるのでそのせいでちょっとふらふらするのかと思っていましたが、ある日孫が熱を出して、頭のあたりを冷やしてやると、熱が少し下がります。それを何度か繰り返して、心配して帰ってきたのですが、あとで聞いたら、風呂に入ったら少し落ち着いたと言っていました。コロナ患者も出ていたらしく心配していたのですが、コロナではなかったようです。

 そこで気が付いたのですが、下の娘は暑いとき水風呂に何度か入ったと言っていました。つまり、水を飲んで内臓を冷やすだけではだめなのです。体表の温度も下げなくては。それ以来、風呂に入れないときは、濡らしたタオルで体をふくようにしました。例えばトレーニングの後の着替えの時とか。

 それで、三連休をゆっくり休んで、少し梅雨も戻ってきて気温も下がり、体調も戻り、『ああ、これが熱中症というものか』と気が付いたわけです。

 さて、いよいよ梅雨明けのようです。7月も後半、また暑い日々が始まりそうですが、軽い熱中症の初体験をしましたので、これからは細かい対策も立てられそうです。例えば、明日はトレーニングではなく、プールにしようと思います。

2024年7月13日土曜日

 年寄りの話 なぜ今なの

 以前、松田妙子さんの講演会での言葉、『二十年サバを読む』という話をしたことがありましたが、あの頃、松田さんも、今の私と同じ75歳頃だったのではないかと今思います。

 「この歳になったらね、20歳サバを読むのよ。私だったら、20年若いと考えると50代だから、五十代で、この見識、人脈、この地位があったら、鬼に金棒でしょ。」

 その頃、彼女は確か、二つの財団の理事長をしていて、公安委員だったと聞いていました。もちろんその他にもベトナムで学校を建てるというような慈善活動もしていたと思います。

 あの頃、私は多分五十代で、何もない状態だったので、『30代か、悪くはない』と能天気に考えていたような気がします。

 それが、あの頃の松田さんと同じ年頃になって、初めてわかりました。

 あの、苦労していて、お馬鹿で、何もしていない50代の私に比べて、70代の私は格段に進化しているのです。年金生活になって時間もでき、一人になって、なんでも自分でしなければならなくなると、物事を深く考えるようになるようで、その分、知識も洞察力も増えました。人脈や地位はないけれども、『一生懸命する五つの柱』を持ち、毎日忙しく、楽しく、日々が飛ぶように過ぎていきます。

 だから『なぜ今なの』と思うわけです。この生き方、必死に生きていた50代では到底できない生き方だったのです。70代だからの時間と生活のゆとり、それゆえの見識だと思えるのです。

 そして忍び寄る『物忘れ』、バイデンさんだけの話ではありません。バイデンさんは立派な大統領です。確かオバマさんの副大統領だったのですよね。今となってはあの時にバイデンさんが大統領をすべきだったと思いますが、やはり、トランプ氏を負かした75歳ころに『気が最高』に達していたのでしょうね。『なぜ今なの』と思うくらいに。

 私としては、なぜアメリカ国民がトランプさんを選ぶのかわかりませんが、80代はやっぱり鬼門のような気がします。お二人にとっても、私にとっても。

2024年7月4日木曜日

 英語の功罪

 昔英文科だったので、それなりに英語に関係のある仕事をアルバイトとして何個かやってきました。プロになれるような強力な努力もしなかったので、やりながらもずっと劣等感を抱きっぱなしでした。

 そんな私ですが、この歳、75歳になって、ユーチューブを見るようになると、ドラマもニュースも英語番組が結構多いので、昔に比べて、英語に晒される時間が格段に多いのに気が付きます。最近になってウクライナの英語のニュースを見ていた時に、結構理解している自分がいることに気が付きました。それ以来、他に日本語のウクライナニュースがないときは半分くらいまで見てしまうので、随分と馴らされた気がしていました。

 そんな時、いつも行くスーパーで、隣に一歳くらいの赤ちゃんを抱いた女性に会いました。明らかに日本人ではない感じだったのですが、アジア人のようだったので、「どちらからですか」と日本語で聞きました。彼女は「フィリピンから」と答えました。

 ここで大きな声で言い訳をしなければなりませんが、私は時々下の娘に、「お店の前で悪口を言ってはいけません」とか、「相手がどう思うか考えてから言いなさい」とか、怒られています。悪気はそんなにないと思うのですが、頭に浮かんだことはすぐに口をついて出てきてしまいます。『歳のせい』と言い訳をしたいのですが、違います。きっと、自分の頭に浮かんだことをすぐ言うということは、自分の存在感を示したい欲求なのだと思われます。特に人里離れた田舎で育つと、こんな性格になるのではないかと思います。

 で、どんな失敗をやらかしたかというと、「そうなの、どうりで少し色が黒いと思ったわ」と言ったのです。再度言いますが、決して悪気はなかったのです。ただ、純粋にそう思ったのです。

 お母さんは悲しそうに赤ちゃんを抱きしめてキスをしていました。『失敗、心を傷つけてしまった』とさすがに反省しました。

 そこで、フィリピンの人たちは英語が公用語並みに話せるということを思い出しました。

で、英語で聞いたのです。「何年くらい日本に住んでいるんですか。」

 彼女は驚いたように、それでも嬉しそうに「15年住んでいるんです。」と答えました。

私は驚いて、「15年、15か月では無くって」と言いました。彼女は「15年です。上の息子は地元の中学校の3年生です。」と言いました。そのあと、こうも言いました。「あなたが英語をしゃべってくれて本当にうれしい。」

 私はもちろん「ほんの少しだけよ」と言いました。それから、少し「近くに住んでいるんですか」と聞いたりして、馬脚が現れないうちに「さよなら」しました。でも、相手の国の言葉で話すということは『国際親善の最初』と聞いたことはありましたが、こんなにも簡単に失敗を『ない』ことにしてくれるとは思いませんでした。

 でも、いい気になって、またぞろ『舌禍』を起こさないように反省を忘れないようにします。ただ単に相手がいい人だっただけかも知れませんから。