2024年8月30日金曜日

 カマラ・ハリスが大統領になる意義

 もともと、『アメリカ国民はどうしてトランプさんを選ぶんだろう』と思っていました。昔は『離婚した人はアメリカ大統領にはなれない』と聞いた事がありましたが、『レーガンさんのころから代わってしまったのかなあ』とも思っていました。まあ、離婚を差別するつもりはありませんし、トランプさんの人格を深く知っているわけでもありませんから、批判はしてはいけないのですが、見聞きしたところはみんな同じだろうと思います。

 そんなわけで、なんとなくハリスさんのほうがいいと思っていたのですが、ある記事を読んでから、『ハリスさんでなければアメリカはだめになる』と思い始めました。

 その発端となったのが、姪のミーナさんの証言の記事です。『カマラ・ハリス氏の強力なサポーター浮上? スタンフォード大卒、ハーバード進学の「超優秀なファミリー」が話題に』に興味を抱いて開いて読んでみたのです。結果は『なるほど』でした。

 全部をコピーしたいくらいの内容でしたが、重要部分だけを出してみると、『ミーナは1984年10月20日生まれで、本名ミーナクシ・アシュリー・ハリス。「私の母は17歳でシングルマザーになった。だから私は、彼女がロースクールに行くのを見たし、弁護士事務所で初めての仕事をするのも見た。カマラに関しても同じ。私は母と叔母が20代から世の中でパワフルな女性になるまでのほとんどの姿を見てきた」と彼女』。

 『「私の家族は、私を“人生はイケイケなガールパワーで何とかなる!”という考えを持つようには決して甘やかさなかった。『あなたは強い、あなたはパワフル』と言って育てられたけれど、『あなたは人の2倍努力しなければならない』と現実を教えることも忘れなかった。『戦わずしては何もやってこない。わけもなく与えられるものは何もない。何事も簡単ではない』と教えられた」』。

 ミーナさんは『2006年にスタンフォード大学を卒業し、2012年にハーバード・ロースクールの法学博士号を取得した。』母やおばさんと同じように法律家になった。

 『「私が学校から帰宅すると、カマラおばさんと母が若い頃よく不公平だと感じることに文句を言っていたのだけど、祖母は『じゃ、何とかすれば? ただ座って文句ばかり言っていないで、何かやりなさい』と言い返したものです』。

『カマラおばさんは常に、私が大事だと考える問題に私にしかできない貢献をするよう励まして、この教えを力説しました。ときには、選挙に立候補するよう提案してくれましたが、決してプレッシャーはかけず、他の方法で影響を与えることもできると教えてくれました」』

 この『乳がんの研究のために来たという』インド移民のカマラさんのお母さん、ミーナさんのお祖母さんの『なぜ変えようとしない』という言葉に反応してしまったのです。私がこの歳になって、一番思うこと、『考えて正しいと思ったら日々変革していく』。彼女たち一家は実行していると思いました。

 そのあと、当然のように「カマラ・ハリス」のウキペディアを見てしまいましたが、期待した通りでした。

2024年8月23日金曜日

 かわいそうなわが家の野菜たち

 梅雨が終わって土が乾き始めたら、春から朝一回していた水やりを朝晩二回にする。これが常識だと思っていました。母は確かそうしていたような。

 特にわが家は植木鉢が多いので、土の上に置いてある鉢は、根が鉢の下にも伸びるのでいいとしても、コンクリートの上に置いてある鉢は暑さでやられてしまうだろうと思って、木を組んだ上に水受けの皿を敷いて、その上に置きました。肥料を入れて朝晩水をたっぷりやれば、小さな鉢でも栄養を摂れると考えて、朝晩受け皿に残るほどたっぷり水をやりました。水をたっぷりやるというのはどなたかの聞きかじりです。

 小さいメロンが一個なって大喜び、キュウリは四、五本食べました。

 でも、暑くなるにしたがって葉っぱが黄色くなり出しました。見るからに枯れていくのがわかりました。ついにあきらめて引っ張ってみると、根がありませんでした。『これが根腐れというものか』と分かりました。

 『さあどうしましょう』、とりあえず、もう小さな鉢は買わないことにしました。水やりは、夜一回にして、よほど乾いている時だけ、朝少しやります。受け皿は外して、水はけをよくし、等々、失敗から学ぶことは大でした。

 地植えなら、あまり水やりはいらないみたいです。裏の畑では、土の表面はいつも乾いていて、夕方葉っぱがしおれていても朝にはしゃんとしています。

 でもとにかく、暑い日に水をたっぷりやると、水が熱湯になると聞いたこともありました。至らない親の私はかわいそうなわが家の野菜に教わることばかりです。

2024年8月22日木曜日

 前を向いていること

 我ながら嫌な性格だと思っているのは、後悔しか思い出さないし、それもちょくちょく思い出すことです。だからいつもうつ傾向で、人と会うことを嫌います。会えば人並みに言葉を交わすくらいはできるのですが、積極的に話し込んだりすると、あとでまた後悔の種を作ってしまうので、人とは離れていたい性格です。私だけではないとも思うのですが。

 そんな私に同窓会のお誘いがありました。いつも断っているのですが、年齢が年齢だけにいつになく熱心でした。結局は行かなかったのですが、その後、昔親しかった幼馴染が二人、電話をかけてきました。最初に幹事役から「電話をしたいといっている」と言われたときから『なんと言い訳をしようか』とずっと考えていました。考えに考えて行きついた答えは

 「だってあの頃、私、みんなに馬鹿にされていたじゃない」というものでした。「あまり、みんなに会いたいと思わないのよ。」

 もっと言えば、豪華なお料理の向こうにそれらの顔があると思うだけで参加するなんて想像もできないのです。さすがにそうは言いませんでしたが。それに子供の頃って、みんなそうでしょうけれども、成長過程でばかやって思い出すのは後悔ばかりです。みんな違うのでしょうか。

 お二人とも、それ以上は言いませんでした。わかっていたのです。つまり、『デブ』とか『ブタ』とかさんざん言われていたころの私の事を共有できたのです。

 あの頃、私の家は特j別裕福で贅沢というわけではなかったのですが、私も弟も肥満体形になってしまいました。終戦から十数年後、上皇陛下のご成婚とか初めての東京オリンピックが開かれたころのことです。今は街を歩けば、数人に一人は肥満体形ですが、あの時代、特に田舎では肥満の人なんて、それこそ私と弟だけだったと思います。何か悪いことをして金を儲けていると思われていた節もあったのかもしれません。髪の毛に火をつけられたことや、雪合戦で男子に一丸となって雪を投げつけられたことはやっぱりいじめです。そうそう、古い校舎の床を踏み抜いたこともありました。恥ずかしい。

 そういうわけで、恥と恨みの同窓会のことは、もう忘れたいと思うのですが、懐かしい友人のことはすぐには忘れられず、何度も頭に去来するのです。さてどうしたものか。

 それで考えたのです。後ろを振り向かないということを。亡くなった同級生も何人かいるし、親しかった友人には認知症の症状があると言っていました。だから今のうちに会っておこうというのが幹事さんたちの考えのようでしたが、私は違うふうに考えました。あの時代はあの時代のままに覚えておいて、懐かしむ。でも今は、残された時間や今の環境を大事にして前に進もうと。

 そう考えると、私は大変忙しいです。朝の体操、朝食のおから米粉パン作り、一品取らなければいけないタンパク質。とっさんのウクライナの戦況分析。その他ユーチューブ勉強。体操とかダイエットとか料理とか畑とか時にはエンターテインメントとか。今やユーチューブは何でも相談できる友人のようです。

 昼は畑、洗濯掃除。時にはDIY。

 片付けながらのネットショップ。ブログ。できれば動画づくりに挑戦。

 出かけるのは、トレーニングルームとプール、孫のおもり、買い物。

 こうして忙しく前を向いて動いていると、後悔している時間は少なくなります。これが健全な生き方なんじゃないかとこの頃思います。私は今まで暇人だったのです。残された時間を思えば、後悔に時間を割いている暇はないんです。

2024年8月19日月曜日

 ミヤコ蝶々のビッグショー 「面白うてやがて哀しき」

 いつものように、暇に任せてユーチューブ散歩をしていた時のことです。この画面に出会いました。昔よく見ていた蝶々さんです。『この方、歌を歌うんかい』と思って大画面にしてみたのですが、一曲目を聞いたところで引き込まれてしまいました。それから40分近く最後まで見てしまいました。

 まさにタレントです。声量が半端じゃ無いんです。『上手!』と思いました。歌手ではないので音程がずれることはあってもご愛敬でした。歌と歌の合間には蝶々さんの人生の物語が大阪弁で面白おかしく語られるのです。私くらいの年代の人間は蝶々さんの人生はある程度は知っていました。でもこの投稿主さんの説明だと、東京の日本橋の生まれなのだそうです。『知らなかった』と思って、あとでウキペディアで調べてしまいました。

 確かに日本橋小伝馬町の生まれでした。『鈴子が生まれて間もなく両親が離婚し、1924年(大正13年)に父親と兵庫県神戸市へ移住して父親はデパートで家具の販売をしながら神戸・元町で小さな家具屋を営んだ。父は芸事が好きで、新内節を唄ったり寄席芸人を招いては宴を楽しんでいた』。やがて父親が劇団を立ち上げ、鈴子はそこの座長になり、安来節を踊り、『その後、様々な芸(漫才、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付ける』。

 このビッグショーを見ていて、『頭のいい女性だなあ』と思いました。40分間飽きさせないのです。演技もできます。

 最後は南都雄二さんとの出会いと別れの話でした。これは巷に有名な話でしたが、南都雄二さんは蝶々さんの前のご主人のお弟子さんで、この前のご主人がいい加減を絵にかいたような人で、別れて一緒になったようです。修羅場だったのでしょうが、そんなことはおくびにも出しません。やがて、雄二さんも浮気をして子供さんができ、離婚して、その後も一緒に仕事をしていた話は有名です。

 雄二さんが糖尿病で5年間の闘病の後に40代で亡くなる時は、最後は蝶々さんが面倒を見たという話は知っていましたが、その辺のところも蝶々さんの気持ちとして語られていました。このショーが何歳ころのものかはわからなかったのですが、この題名の本を1980年に書いたらしいのでショーはそのあとだと計算すると、2000年に80歳で亡くなったようなので、60歳以降のようです。

 最後の歌は『雪が降る』でした。『雪は降る、あなたは来ない』という安井かずみさんの訳詞のアダモの曲です。涙を流しながら歌っていました。

 今日はこれを見られて、得した感じです。

2024年8月17日土曜日

 鉄眼の生涯

 八月は夫の命日月のため、きっといろいろなことを思い出してしまうのだろうと思いますが、苦労したことだけが思い出されて、楽しかったことはほとんど出てきません。これが娘たちにとっては違うようです。私が悪口を言おうものなら、すぐに反撃が返ってきます。ということで、悪口はブログにしか書けません。

 夫はこの鉄眼和尚に感銘を受けて、その映画製作になけなしの大枚のお金を寄付してしまいました。これが、私が宗教不信になり、宗教被害者だと叫ぶ原因にもなりました。もともとあまり関心はなかったのですが。

 今、この鉄眼禅師のウキペディアを見てみると、『鉄眼版一切経収蔵庫には約6万枚の版木が収蔵されているが、1957年(昭和32年)に48,275枚の版木が国の重要文化財に指定されている。』とあります。彼は、『1664年(寛文4年)に『大蔵経』を刊行することを発願し、1667年(寛文7年)には全国行脚を行って施材を集めた。上述の事情によって、二度まで断念したが、3度目にしてようやく施財を集めることを得、京都の木屋町二条の地に印経房(のちの貝葉書院)を開設し、1668年(寛文8年)に中国明の万暦版を基に覆刻開版し、1678年(延宝6年)に完成させた』とあります。

 この上述の事情というのが『畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、一度は集まった蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くした。しかも、そのようなことが、二度に及んだという』

 お坊さんとしては当然の生活だったと、私は穿った見方をしてしまうのです。庶民の私でさえ、『一生懸命生きるための五つの柱』を持っているのです。鉄眼さんの柱が『『大蔵経』を刊行すること』だったというだけのことです。そのために寄付を集めて回ったのでしょうが、それを飢饉に遭われた方々に施したというのも、それも二度まで。これも人として当然のことだと思います。宗教不審者の私には、鉄眼さんは坊さんとしての自分の人生を一生懸命生きただけだと思えるのです。庶民の私のように。

 それ以来、夫のお金の使い方には、苦労させられましたが、ただ一つ、いいことも思い出しました。娘たちの受験が終わった夏休み、四人でリュックを担いで、ヨーロッパの都市をめぐる貧乏旅行をしたのです。私の至らないスケジュール管理に誰も文句を言わずについてきてくれました。若さと健康があった時代の話です。

2024年8月16日金曜日

 おひとり様の話

 わが家もご多分に漏れず、別れたいと思ったことはお互いに何度もあったと思います。そのたびに、経済的不安や世間体、お互いへの責任感などでうやむやになって消えていきました。夫が80歳、私が71歳の時に夫が亡くなり、私はおひとり様になりましたが、実はほっとしている面もありました。前に書いたように『やり切った』感もありましたし、責任を解かれたという感じもありました。

 少し時間がたつと、『こうやってやればよかった』『食事療法をしっかりやればよかった』と思うことが折に触れて出てくるようになりました。

 こんな責任、感じなくってもいいのですよね、おひとり様ならば。自分の健康管理なんか自分の責任でしょ。自分の好きなものを自分で作って食べればいいのです。「体を洗いなさい」とか「爪を切りなさい」とか、私にとやかく言われることはなかったのです。

 考えると、夫もおひとり様になったほうが幸せだったのではないかと思うこともしばしばです。お互い、環境を変える勇気がなかっただけなのかもしれません。

 世間では老若男女、おひとり様が増えて、社会問題のように言われていますが、おひとり様はそんなに悪いことではない気がします。自分のやりたいこと、やらなければならないことを一生懸命していると、日々は瞬きしている間に過ぎてしまいます。4年なんてあっという間でした。

 夫は結婚してすぐに、韓国旅行に行き、そこで、ふざけて、または嫌がらせだったかもしれませんが、韓国の結婚衣装を着て写真を撮ってきました。亡くなった後に、夫の書類の山の中から見つけたのですが、私の和式の結婚衣装より似合っていました。

 だから、私も嫌がらせで、それを仏壇に飾っています。責任をその見知らぬ韓国のモデルさんらしき女性に投げてしまった感じがして、気が楽になります。

 今になってわかりますが、私には人の分まで責任を負えるようなキャパシティーはない、又はなかったような気がします。『一人で生きるべきだったのかも』とこの頃になって思います。昔はおひとり様は厳しい人生を強いられる感がありましたが、今は福祉が整って、それなりに、自分らしい人生を送れそうな気がします。夫にも悪いことをしてしまったと、またまた責任を感じてしまっています。

2024年8月12日月曜日

 物忘れ

 この頃、あまりにも多くって、我ながらショックでした。

 週四回ほど通っているトレーニングルームの電磁治療器のところで、いつものように最後の十数分をゆっくりと過ごしていた時のことです。

 隣の席にいつもとは毛色の変わった二人が座ったと思いきや、二人ともすぐにスマホを出して熱心に調べていました。

 男性のほうが、「どんどん下がっている、もう駄目だな」と何度か繰り返しました。

 隣に座った女性が、「もう何年も前からわかっていたことなのよ、こうなることは」と言いました。

 「そうだよ、アベノミクスの前、派遣が正式に認められたころからおかしくなりだしたんだ」と男性。経済に疎い私ですが、派遣で労働調整をするという働きづらい世の中には憤っていた時期がありました。

 「あの御手洗がやったのよ」と女性。

 「え、そうなんですか」と私。私にはその名前は初めてでした。「私は、政府の高官をしていたあの人」と、ここで名前が出てきません。あれほど世間で悪者にされていた『あの人』の名前が出てこないのです。「『あの人』です、派遣会社の会長になった『あの人』がやったんじゃないんですか」と訴えるように言うと、男性が、「竹中平蔵」と助け船を出してくれました。

 そうなんです。竹中工務店と長谷川平蔵を足した名前だと覚えていたのですが、全く出てきませんでした。

 「ちがうちがう、御手洗だよ、経団連の会長をしていた」

 「そうなんですか」

 お二人は下がった株価の将来を声高に嘆いていらっしゃいましたが、経済音痴の私には、そんなことは大したことではありませんでした。それよりもブログにも憤りながら書いた『竹中平蔵』氏の名前を忘れてしまったことのほうがもっともっとショックでした。

 ちなみに、あとでコンピューターで調べたお二人の経歴です。 

 御手洗富士夫、キャノン会長、経団連会長2006年

 竹中平蔵、パソナ会長、2005,小泉内閣

2024年8月5日月曜日

 隔世の感

 『変化が激しく、まるで世代が変わってしまったような感じ。「—を禁じ得ない」』g辞書で引くとこう書いてありました。まさにこの通りです。

 いつ、感じたかというと、先日、体調不良で家で退屈していた孫をドライブに連れて行って、「ドライブスルーで何か買ってあげる、どこがいい」と聞いた時のことです。孫は大喜びで、「スターバックスで、キャラメルマキアートと抹茶マフィン」と言いました。

 孫に買ってあげるのはいつも一つだけと決めてあったのですが、あまりの喜びように、「じゃあ、今日は病気お見舞いに二つね」と言ってしまいましたが、いざ入りづらい入り口をやっと探して、まずキャラメルマキアートの値段を聞いてみました。大、中、小があって、値段が微妙に違います。でもどれも5百円前後です。「ええ」という感じです。

 年金生活者は、5百円と言ったら、一食、時とすると一日の食事の値段です。また「ええ」です。『これでは抹茶マフィンは無理だわ』と思って孫に告げましたが、あっさりあきらめてくれたので、キャラメルマキアートの大、およそ600円を買いました。

 これには後日談があって、その夜、孫は眠れなかったそうで、親に言わせると、「カフェインレスの小にしないとだめだった」そうです。踏んだり蹴ったりでした。

 でも、コーヒー一杯が六百円もするなんて、まさに隔世の感です。

 もう一つ、感じたのは、パリオリンピックのテレビのレポーターが朝食を食べていて、クロワッサンの朝食セットでいかにもおいしそうでしたが、なんと三千円だそうでした。近頃の円安で、「アメリカではもう住めない」と芸能人が嘆いている図はよく見ていましたが、それはどこでも同じなようです。

 『昔、私たちが行ったときは円高でありがたかったなあ』と懐かしんでしまいました。