2024年8月17日土曜日

 鉄眼の生涯

 八月は夫の命日月のため、きっといろいろなことを思い出してしまうのだろうと思いますが、苦労したことだけが思い出されて、楽しかったことはほとんど出てきません。これが娘たちにとっては違うようです。私が悪口を言おうものなら、すぐに反撃が返ってきます。ということで、悪口はブログにしか書けません。

 夫はこの鉄眼和尚に感銘を受けて、その映画製作になけなしの大枚のお金を寄付してしまいました。これが、私が宗教不信になり、宗教被害者だと叫ぶ原因にもなりました。もともとあまり関心はなかったのですが。

 今、この鉄眼禅師のウキペディアを見てみると、『鉄眼版一切経収蔵庫には約6万枚の版木が収蔵されているが、1957年(昭和32年)に48,275枚の版木が国の重要文化財に指定されている。』とあります。彼は、『1664年(寛文4年)に『大蔵経』を刊行することを発願し、1667年(寛文7年)には全国行脚を行って施材を集めた。上述の事情によって、二度まで断念したが、3度目にしてようやく施財を集めることを得、京都の木屋町二条の地に印経房(のちの貝葉書院)を開設し、1668年(寛文8年)に中国明の万暦版を基に覆刻開版し、1678年(延宝6年)に完成させた』とあります。

 この上述の事情というのが『畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、一度は集まった蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くした。しかも、そのようなことが、二度に及んだという』

 お坊さんとしては当然の生活だったと、私は穿った見方をしてしまうのです。庶民の私でさえ、『一生懸命生きるための五つの柱』を持っているのです。鉄眼さんの柱が『『大蔵経』を刊行すること』だったというだけのことです。そのために寄付を集めて回ったのでしょうが、それを飢饉に遭われた方々に施したというのも、それも二度まで。これも人として当然のことだと思います。宗教不審者の私には、鉄眼さんは坊さんとしての自分の人生を一生懸命生きただけだと思えるのです。庶民の私のように。

 それ以来、夫のお金の使い方には、苦労させられましたが、ただ一つ、いいことも思い出しました。娘たちの受験が終わった夏休み、四人でリュックを担いで、ヨーロッパの都市をめぐる貧乏旅行をしたのです。私の至らないスケジュール管理に誰も文句を言わずについてきてくれました。若さと健康があった時代の話です。