2021年7月29日木曜日

 本 『二宮尊徳先生の生涯と教え』そば処「報徳庵」のしおり

 これは本当に薄くて粗末なしおりです。今市の杉並木の中の蕎麦屋さんでもらってきたのだと思います。夫は一時二宮尊徳にも凝っていて、結構集めていました。そのうちの薄いホチキス止めの、本とも言えない本です。

 最初に、尊徳先生が晩年を今市に住み、近隣の農村の復興に尽力していたと書かれています。

 どういう形態で尽力していたのかなとお金に苦労した俗物の私は思ってしまいます。この人は実務経済学者だから、経済的には妻子を養えるほどきちんとしていたのだろうと思いますが、今でいうコンサルタントのような仕事をしていたのでしょうか。

 安政三年(1856)に70歳で亡くなり、市内の如来寺に葬られましたが明治30年二宮神社が創建されたそうです。今市市内には「二宮堀」「二宮林」「報徳役所跡」「報徳仕法農家」「沢蔵司稲荷」「二宮神社」等などが保存されているようです。

 次の略年譜を見ると、十代で両親を亡くし、一家離散の状態からの出発だったようです。二十歳で家の再興を決意し、二十四歳で成功させたようです。三十一歳で結婚するも三十三歳で離婚、三十四歳で再婚。三十二歳の時に、初めて、経済復興の仕事を引き受け、成功し、三十五歳の時に栃木県(下野国)での更に大きな仕事を引き受けて、家財を売却して下野桜町に転居してきたようです。有名な二宮町の『桜町陣屋』でしょうか。

 これは五十歳までかかったようです。

 このころ、天保の大飢饉が起こり、尊徳先生は加えて、烏山、下館、小田原の農村復興事業を進めていたそうです。

 五十六歳の時、幕府に召し出され、御普請役格に任命されたそうです。これは給料が出たのでしょうか。

 五十八歳の時、日光神領荒地起返しの見込調査を依頼されて、三年かかったそうです。

 五十九歳で相馬の農村復興に着手。

 六十七歳、日光神領の農村復興を命ぜられる。病を押して着任。視察をしている間に病が再発。

 六十八歳、嫡子弥太郎が見習いを命ぜられて助力したようです。

 六十九歳、今市の報徳役所が完成し、桜町から転居。

 七十歳(1856年)、二月御普請役に栄進したが、十月病状急変で永眠する。

1866年、幕府転覆。弥太郎(46歳)は磐城の国へ移転する。

1871年、弥太郎病死(51歳)。

 過日、カブールで亡くなった中村哲医師を思い出しました。農村復興って土木事業なんですね。

 次に『報徳道歌』が数首。常に自然を見つめ、戦い、感謝し、常に身近のものに心を配っていた張り詰めた神経が感じられました。

 次は報徳訓の注釈があります。これは夫が張ったものが我が家にもありますが、先日、私が『草取りの真実』で「気づいた」と思ったことがここに載っていました。『田畑山林は人民の勤耕にあり』『自然の恵みは、これを人間が耕すことによってより豊かになりますが、それを怠ると自然は荒廃して洪水などの災害を引き起こします。自然の恵みを豊かに引き出して暮らしに役立てるのは、人間の努力次第なのです。』

 尊徳先生はあくまでも前向きです。大飢饉の起こった時代に、苦労があっても、人生に絶望することなく、未来を見据えて、敬愛しあいながら生活するようにという教えがそこここにあります。

 次に尊徳先生語録。『夫れ我が教えは 書籍を尊ばず。ゆえに天地をもって経文となす。・・・・・・・かかる尊き天地の経文を外にして、書籍のうえに道を求むる学者輩の論説はとらざるなり。』『二宮翁夜話』というのが印象的でした。実務家だったのですね。

 でも、こんなに忙しい生活をしていて、よく道歌とか語録とか考えていられるなあと思いましたが、こういう農村復興事業というのは人をうなずかせることから始めなければならないから、こういう説得力のある哲学は必要だったのだろうと思いました。

 昔、報徳社という団体が北海道の歴史に入っていたのを見たことがありましたが、尊徳さんの教えを生かした運営をして成果を上げたようです。